第9話 戯れ
エレナ、と名前を呼ばれて顔を上げる。
村はずれの森にはしんしんと雪が降っていた。
この村は、カラント王国の南西部にあるエダムシャーにある。他の地域に比べ温暖な気候ではあるのだが、王国自体が大陸の北海沿いにあるため、冬の訪れとともに痺れるような寒さが地の底から染み出すようにやってくる。
時計の針が動くのを止められないように、この静かな村を凍てつかせる季節の
じっと食い入るように此方を見つめる少年に、エレナは笑いかけた。
「どうしたの、ルーヴェン」
尋ねながらも最初からその問いの答えをわかっていたような気がする。
どろりと蕩けるような甘い眼差しには欲望が滾っている。それに気付くと、エレナはマフラーを解いて白い喉元をさらした。
「……良いの?」
「ええ、もちろんよ」
雪の上に膝をついて、ルーヴェンを抱き寄せるとちょうど彼の口元が首筋にあたった。ちゅ、と軽く口づけをしてから、柔らかな舌で血管の位置を確かめる。それがルーヴェンの癖だった。何度もされるうちにすっかり覚えてしまった。
「っ、あ……!」
つぷりと尖った牙が肌の内側に沈む。痛みは次第に薄れ、与えられるのは甘い恍惚だった。この美しい彼が貪るように血を吸い上げるたびに、ちいさな胸が途方もない疼きで揺れるのだ。じゅる、と激しく啜る音を降りしきる雪が吸収していく。
「ふふ、エレナ、だぁい好き……」
「もうルーヴェン……」
傷口から噴き出した血を舌が優しく舐めとるたび、その喜びにくらくらした。
いけないことをしているのはわかっていても、彼の懇願をエレナは拒むことが出来ないでいる。ずっと。誰にも気づかれないようにこの関係を続けてきた。あの日を境に、エレナの生活は変わってしまった。求められるがままに血を与える――ルーヴェンの正体が何であろうと、どうだっていい。彼を生かすことが出来るのなら、なんだってする。
ミセス・カーターは仲の良い「姉弟」だと思っていることだろう。
それを否定しなかっただけ。
『エレナだけだよ』
甘ったるい声音に囁かれるたびに、心が疼くのだ。幸せだ、と。
しんと静まり返った森を抜け、手を繋いで村へ戻ると、子供たちが歓声を上げ雪遊びに興じていた。小さな雪玉を作って投げ合ったり、雪だるまを作ったりしている。それらを一瞥すると、ルーヴェンは何も見なかったとばかりに通り過ぎてしまう。
「いいの?」
「うん」
心の底からどうでもいいと思っているかのように、ルーヴェンは息を吐いた。白く煙る彼の吐息をぼんやり眺めていると「ルーヴェン!」と彼を呼ぶ声が凍てついた空に響いた。
真っ赤な毛糸の帽子を被った少女が大きく手を振っている。無邪気な笑顔を浮かべて、その呼びかけに応えられることを疑いもしない眼差しを此方に向けている。
エレナはそれが、あの彼女であることに気付いていた。
薄暮の中向かい合う二人がまるで一枚の絵画のようで――考えるだけでエレナは胸が締め付けられるような感覚をおぼえた。
「……どうしたのエレナ?」
「ルーヴェン、あの子が呼んでいるわ」
行って来たら、と促したがルーヴェンは静かに首を横に振りエレナの腕にぎゅうっとしがみついた。
「ルーヴェン……」
ルーヴェンが気づかないわけがないのに――。ふい、と視線を逸らしざくざくと雪を踏みしめ歩き始めた。呆気にとられた表情で少女はルーヴェンを見つめている。無視された、ということが信じられないというように。
「ねえルーヴェン」
「言っただろう? 僕にはエレナがいればいい」
淡々と語る彼の声音に感情はなく、醒め切っていた。
近頃のルーヴェンはおなじ年頃の子供たちと遊ぶことを避け、エレナにべったりになっていた。まるで……姉に接するように、エレナ、エレナと名前を呼んで抱き着いて来る。
でも、実際は姉などではないし、仲の良い姉弟に擬態をしているだけだとエレナは気が付いていた。ルーヴェンは時々、成熟した大人のような目をして周囲を見つめている。そのさまは、エレナさえも吞み込むような深い洞を前にしているかのようだった。
ぐいぐいと手を引かれ、子供たちの集団から距離を取るとルーヴェンは路地裏に入り込み煤のあとが残る壁にエレナを押し付けた。人気がなく、降りしきる雪がすべての音を吸収してしまったかのように静まり返っていた。
「っ、う」
「大好きだよ、エレナ……そうやって嫉妬しているときも、ちいさな優越感に浸っているときも変わらず君は可愛い」
ぼそりとルーヴェンがつぶやいた言葉は、袖を捲り上げた腕に牙を立てられた瞬間に溶けて消えた。ずき、と痛みが走ったもののすぐに甘い疼きに塗り替えられる。傷つけられているのにそれが心地好いと感じてしまう。そんなのはおかしいに決まっているのに、自分でもどうかしていると思う。
「ルーヴェン……」
身もだえしながら少年の小さな背を抱き寄せれば、それに応えるようにルーヴェンはエレナの肌を強く噛んであふれた血を啜り上げた。
「おっと……飲みすぎちゃったかな」
ふら、と身体の軸が揺れて倒れ込んだエレナをルーヴェンが支えた。ぎゅうっとお気に入りのぬいぐるみを抱きしめるかのように彼女の背に手を回す。生気のない頬を撫で擦りながらそっと赤く濡れた唇を寄せた。
「だって、エレナの血が美味しいから――だけど少しは我慢しないと、死んでしまったら嫌だしなぁ」
困ったなあ、とルーヴェンは淡々と言葉を紡いでいく。その声がエレナに届くことはなかった。
「仕方がない、か……」
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