第8話 吸血
「っ、う……」
最初に感じたのは痛みだった。ぴちゃり、と濡れた感触が首筋を這ったかと思えば目も眩むような甘美な衝撃が頭を貫く。
傷痕からじわじわと毒のように広がっていく痛みに混じり、芽生え始めた未知の感覚にエレナは慄いた。
「ルーヴェン、やめ……っ、あ」
「どうして? エレナは僕のものなのに」
ルーヴェンはくすくす笑いながら、白い肌を滴る血に唇を寄せた。ぞくりと震えたエレナの肩を抱き込んで、さらに牙を立てる。嫌なら拒めばいい、とでも言いたげに拘束が緩んだものの力はどんどん抜けていくばかりだった。
こんな忌まわしい行為を、ルーヴェンのような子供――ほんとうに彼は見た目どおりの存在なのだろうか――から受けている。
望んでいたわけではないのに……だからこそ、いまわたしは代償を払っているのだ、と身の内で声がした。
彼は、ルーヴェンは危険だと気が付いていたのに――……。
「ずっと、我慢してたんだよ……? エレナが本当の僕を受け容れてくれるまで」
「……本当の、あなた……?」
切れ切れになりながら言葉を紡ぐと、ルーヴェンはエレナの髪に指を差し入れて結わえたところをたちまち解いてしまった。はらりと黒のリボンが床に落ちる。鼻をすり寄せ、零れ落ちた髪のにおいを嗅がれて身震いした。
「はあ――いい匂い。美味しそうな香りだ、たまらないよ」
竦む
「僕は、エレナたちとは違う」
「あ……」
喉元を牙で優しくなぞりながら、濡れた吐息を零す。いつのまにかきつく瞑っていた目を開けば、まだ足りないとでもいうように、ルーヴェンの青い眸には渇望が見えた。
「博物館で眠っていたとき、すぐに気づいたよ。君のことを――随分、熱心に通って、僕を見つめていたよね」
「っ、それは……」
カラント国立博物館に所蔵されている「この世界で最も美しい屍体」。名前も知らない少年に惹かれ、通い詰めていたことを指摘されエレナの頬は朱に染まった。知っていたと告げられ、覗き見が気づかれたときよりもはるかに激しく羞恥が募った。
「僕はずっとずっと待っていたんだ。僕の願いを叶えてくれる……君のようなひとが目の前に現れる瞬間を。見世物にされるのは苦痛だったけれど、おかげでエレナ、君に会えた」
「わ、たし……?」
そう、君だよ。そう言ってルーヴェンはエレナの頬に口づけた。ただそれだけで心臓を鷲掴みにされたような錯覚をおぼえる。エレナのすべてを握られてしまったような――そんなわけがないのに。精一杯の虚勢を張って睨みつければ、ルーヴェンは唇をゆがめた。
児戯のような行動に振り回されている自分が滑稽ではあったが、ルーヴェンは不敵な笑みを浮かべるばかりで真意は読み取れない。
はかりしれない表情は子供というにはほど遠く、大人びているというだけでは足りないものだ。子供の器の中に大人が入っているようなちぐはぐさを感じた。
「ふふ、言ったじゃないか、僕は君に会いに来たんだ、って。たったひとりのかけがえのない君!」
「あっ」
つぷ、と立てられた牙が皮膚に食い込んだ。肌を破ってあふれ出てきたエレナの血を、ルーヴェンは啜っている。喰らわれているのだ、ということは頭で理解していても赤子に乳をやるような感覚にもそれは似ていた。尊く美しい生き物を自らの肉体を捧げて生育しているのだ――そんな理屈は一見すると不埒そのものでしかない行為さえも正当化できそうな気がした。
「答えて、ルーヴェン」
息絶え絶えになりながら声を絞り出すと、ルーヴェンは愛おしむようにエレナの前髪を撫でた。それはこの世で最も大切な相手にするかのような、まるで可愛い恋人を宥めるような
その優しい手のひらから逃れ、エレナは見上げた。いまのルーヴェンの眸は、澄んでいるように見えるのにどこまでも深い淵のようにも見えた。
「……あの子にも」
村はずれの森の中。
薄暮に染まる湿地で見つめ合う少年と少女の影を思い出しながらエレナは尋ねていた。
「あの子にも、おなじことを、したの……?」
「あの子?」
きょとんとしたようすでルーヴェンは繰り返した。心当たりなどない、とでも言いたげだ。
あんなにべったりだったエレナを放って、子供たちと遊びに出掛けるようになったルーヴェン。
帰りが遅くなったあの日――見た光景はいまもありありと思い描くことができる。明らかに少女の頬は恋慕に染まっていた。部外者でしかないエレナが見てもわかるほどに。
「ああ」
記憶を手繰るかのように、ルーヴェンは目を細めた。
「マリアのことか――よっぽどエレナはあの子が気になるみたいだね?」
マリア――それが彼女の名前なのだろうか。彼が彼女の名を紡いだだけでずしりと重い石を抱えたかのように胸がふさいだ。そんなエレナをあざ笑うかのように、口元に笑みを湛えてルーヴェンは囁いた。
「嫉妬、しているんだね――ふふ、あははっ。可愛いなあ、エレナは!」
心の底からおかしいと大声を立ててルーヴェンは笑った。それはざあざあと降りしきる雨の音に掻き消されないほどの、弾けるような笑声だった。
ぎゅう、とルーヴェンは両腕をエレナの首に回して抱き着いてくる。まるで物言わぬ人形に対してするように容赦なく締め付ける腕に息が出来なかった。
「言っただろう? 君だけだよ……君だけが僕を、生かすことが出来る」
「わたしが、ルーヴェンを?」
そうだよ、と天使のような少年は頷いて、エレナに頬ずりした。
「だから、僕を
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