第7話 懇願

 分厚い黒雲が空を覆い隠し、大粒の雨が窓硝子を叩いている。


 ここ一週間近く外に遊びにも行けない日が続き、ルーヴェンは倦んでいるようだった。部屋の中に引きこもり、ベッドの上に横たわってじっとしているのを見かけることが多い。


 ――大丈夫かしら……いつもにも増して顔色が悪いように見える。


 ルーヴェンが何も喋らずただじっとして目を閉じていると、エレナは博物館で目にしていたのとおなじ「美しき屍体」のように見えてしまうためぎょっとしてしまうのだった。

 仕事の合間に自室までようすを見に来るとルーヴェンは、先ほど顔を見たときと寸分たがわぬ姿勢でベッドに横たわっていた。

 

「ルーヴェン、起きている?」


 エレナが声を掛けると、もぞもぞとベッドの上で身じろぎする。眠ってはいないらしい。青白い顔をエレナに向け、ルーヴェンはぽつりとこぼした。


「……喉が渇いたな」

「お水、飲む? それともお茶を淹れて来ましょうか」


 エレナが尋ねると、いやいやをするように首を横に振った。

 外の鈍色の空とは違い、いつでも澄み切った青空を映す眸がエレナを捉える。思わずびくっとしたが、いつもと変わりなくエレナは極力振る舞った。


「それとも何か食べる? あぁ、そういえばちょうどお菓子を用意していたんだった……あなたもきっと気に入ると思うの」

「エレナ」


 ひんやりと、そしてはっきりとしたその声に、エレナはぴたりと静止する。

 寒さを堪えるように両腕を抱いてぶるぶると震えるエレナを見ながら、ルーヴェンは目を細めてうっそりと笑う。それはまるで、いたぶるための獲物を見つけた残酷な獣の子のような顔つきにも似ていた。


 ルーヴェンは明らかにいる。


 村の他の子供たちとも、エレナ自身とも。

 深く尋ねればこの関係が壊れてしまうのではないか。そうやって口を噤んで、ただルーヴェンが創り上げた日常を受け容れてきたが……それもいよいよ限界に近いことをエレナは悟った。


 ――ルーヴェンは、わたしたちとは違う、なのだ。


 わかっていたくせにエレナはずっと見て見ぬふりをしてきた。穏やかで幸せな夢の中で微睡んでいるために。


 指先ひとつで崩れる砂上の楼閣のような、この静かな平穏が脆くひび割れていく。おそらくその感覚は間違いではない。


「お願いがあるんだけど」


 ごく、とエレナが唾を呑み込んだ音が静まり返った室内に響いた。エレナがベッドのすぐそばまで近づいて、床に膝をつくとルーヴェンと目が合った。

 その瞬間、嫌な予感がした。


「……何かしら? わたしに出来ることならいいんだけど」


 平然を装って応えると、ルーヴェンはくすくすと蝶の羽音よりも軽い笑い声を立てた。


「勿論できるよ! しかもこれはエレナにしか頼めないことなんだ」

「わたしだけ……」


 そうだよ、と微笑むルーヴェンは儚げに見えた。目を離した瞬間に姿を消してしまうのではないかと思ってしまうほど。

 エレナはルーヴェンと一緒にいるとなんでもしてあげたくなってしまう。あの青い目で見つめられると一歩も動けなくなってしまう。そんな彼のお願いであればどんなに難しいことであろうときいてあげたい、そう思うのも自然なことだった。


「あの子にも」


 ルーヴェンは、不思議そうに首をこてんと倒した。


「あの子にも頼めないこと、なの?」


 ルーヴェンが門限を過ぎても帰ってこなかった日。

 村はずれの森で、あの薄暮の中に佇む少年と少女の姿が眼裏まなうらに焼き付いて、離れないでいる。燃え滾るような熱を胸に感じたあの宵のこと。

 風に揺れる赤いリボン。少女がエレナの横を通り過ぎたときに香った、汗に交じる石鹸の匂い。


「あの子……? ああ、うん、誰のことだかわかったよ。ふふ、僕はエレナが良いんだ。ずっとずっと楽しみにしていたんだよ」


 ルーヴェンはエレナに向かって手を伸ばす。反射的にエレナはその小さくか細い手を掴んでいた。ぎゅっと握り返したルーヴェンは身を起こして、ベッドのふちに腰かけた。

 眩く輝く青い眸がエレナを覗き込んでくる。


「――欲しいんだ」

「いったい……何が欲しいの、ルーヴェン」


 どくどくと心臓が激しく鳴っている。

 尋ねなくても本当はその答えをエレナは知っていたように思う。それでもルーヴェンのねっとりと絡む蜜のような欲望が滲んだ眸から目が離せず、ただはくはくと浅い呼吸を繰り返して彼の答えを待っていた。


 金の髪の少年は極上の笑みを浮かべて、唇を震わせた。


「エレナの――が飲みたい」

「えっ……?」


 エレナの腕を掴むルーヴェンの指がぎりぎりと皮膚に食い込んだ。

 爪を立てられ、じわりと肌に鮮血が滲む。それを薄眼で見ていたルーヴェンが傷跡におもむろに舌を這わせた。

 びくっとひっこめかけた腕は、ぎりぎりと強い力で掴まれているせいで動かすことが叶わなかった。ぴちゃ、ぴちゃりと濡れた感触が肌を這うのを身震いしながらエレナは受け容れた。


「……足りないな」

「っ」


 息を呑むと、ルーヴェンはエレナを抱き寄せ首筋に唇を寄せた。


「ルーヴェ……んっ」


 口づけが落ちてきたと同時に、肌を甘噛みされる。傷がつかないように優しくルーヴェンは牙で嬲った。堪えた悲鳴を飲み込み、そばにあったルーヴェンの肩にすがりつく。あの、羽音のような小さな笑い声が聞こえた。


「ねえ、許すと言って」


 ちゅ、と唇が離されると同時にエレナの首筋に朱い花びらが散った。


「ルーヴェン……?」

「僕に、血を捧げると誓って。エレナ」


 くたりと力が抜けたエレナを抱くルーヴェンは、見たことのない表情かおをしていた。

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