第5話 白と赤

 真っ白なシーツが風に揺られている。


 ふわりと香る石鹸の香りにエレナは目を細めた。バスケットの中には洗濯済の衣服がたっぷり折り重なっている。

 もとは老婦人とエレナだけのつつましい暮らしではあったので、さほど洗濯物は多くなかったのだが――近頃はどっさりとバスケットに山のように積まれることも少なくない。木の枝に結わえ付けた紐に、まだ水分を含んだそれをぴんと広げて干していたときだった。


「エレナ! 見つけた」


 ぼふ、と軽い音を立てて腰のあたりに少年が体当たりしてきた。そしてそのままぎゅうぎゅうと背中から抱き着いてくるのだ。もはや定番の流れになりつつあるそれに思わず口元が緩みそうになるのをエレナはぐっと堪えて、やれやれ、という表情を作る。


「もう。駄目よ、ルーヴェン……わたしはいま洗濯物を干しているところなんだから!」

「えぇ~、今日は僕と遊んでくれるって約束したのに。ひどいよエレナ!」

「お仕事が終わってから、ね?」


 じゃあ僕も手伝う、とバスケットの中からひとつずつ洗濯物を取り出して手渡してくれる。そんなお手伝いのおかげで予定より干し終えると、そのようすを見ていたミセス・カーターがにっこりと微笑んだ。


「二人は本当に仲が良いわね」

「うん、僕エレナのことがだぁい好き!」


 ぎゅう、と抱き着いてきたルーヴェンの金の髪を優しく撫でているとくすぐったそうに身をよじった。


「ふふ、若い子がいると張り合いがあるわねえ――そろそろ休憩時間でしょう? 森でピクニックでもしてくるのはどうかしら」

「わあい、ミセス・カーターありがとうございますっ」


 もしルーヴェンに仔犬のような尻尾があったなら千切れんばかりに振っていたのが見えただろう。思わず目を合わせ、エレナとミセス・カーターは微笑み合う。

 ミセス・カーターの許しがあったので、少し早めの休憩を取ることがかなった。ルーヴェンの希望で手を繋いで村の中を歩いていると、既に顔なじみになった住人たちがルーヴェンに声を掛けてきた。


「こんにちは、ルーヴェン」

「こんにちはぁ」 


 ふにゃりとした笑顔でルーヴェンが挨拶するとつやつやの林檎を手渡してくれたり、焼き立てのパンを分けてくれたりする。村人の誰もがこの天使のような少年に夢中になった。

 エレナがひとりで歩いていると「今日、ルーヴェンはどうしたの?」と言ってきたりするくらいだった。


 村はずれの森は、木の実がたくさん実っていてピクニックに訪れる者が多い場所だ。木漏れ日の中、駆けだしたルーヴェンに「転ばないように気を付けて」と声をかけたとき、じわりと胸の中に満ちた感情があった。


 ――こういうのをきっと、幸せっていうのね。


 エレナは幼い頃から、メイドとしてお屋敷で下働きをしてきた。きょうだいの誰もが大きくなるとすぐに奉公に出されていて、何かを選ぶということをほとんどしたことがない。生きる術も、道も。ただ流されるままに歩んできたという自覚はある。

 それでも、国立博物館で眠るルーヴェンに何度も会いにいったのは、エレナの人生においても大きな意味を持つ行動だった。さもなければ、自分はいまこうしていないはずだ。


「エレナ」


 声変わり前の高い声音で柔らかく呼ばれると、胸がきゅうとせつなく締め付けられるようだった。こうしてこの甘い声を聞いていたい、ずっと、時間が許す限り。

 実っていた小さな果実を楽しそうに捥いで、エレナに見せてくれる。赤く色づいた実はつやつやと輝き、はっとするほどに美しかった。


「食べて、エレナ」

「わたしはいいわ。ルーヴェンが食べなさい」

「食べて」

「……えっ?」


 ルーヴェンの青い眸に吸い込まれそうになる。じっと見つめる眼差しに思わず怯みそうになると、くすくすとルーヴェンは笑った。


「ほら」

「でも……」

「ねえ、エレナ。?」


 冬の朝の空気よりも冷ややかなその声にぞくりと肌が粟立った。

 小さな指先につままれた赤い実を、食い入るように見つめたエレナを静かにルーヴェンは見守っている。それは、言うことをきいてくれるまで梃子でも動かない――そんな他愛もない、子供の我儘ではなく……エレナが自分に従うのは当然であるという一種の傲慢ささえ感じるまなざしだった。


 ――従え。

 そう言われているような気がしてならなかった。


 おずおずとエレナは地面に膝をついて屈みこんだ。そして、ルーヴェンの小さな爪を見た。淡い陽光を浴びて輝く白い爪は先がとがっていて、ほんの少し力を入れただけで弱々しいその小さな果実を潰してしまいそうにも見えた。


「口を開けて」


 柔らかな声だ。それなのに不思議な強制力がある。おずおずと口を開くと、ルーヴェンは餌付けでもするかのように果実をエレナの口元へと運んだ。


「美味しい?」


 ぷち、と歯の間ですり潰された実は甘酸っぱく、舌をじわりと痺れさせる。


「……ええ、美味しいわ。ルーヴェン」


 戸惑いながらも頷いた。ごく普通に森で見かける果実だというのに、いままで食べたことのないような、不思議な味がしたように感じたのはルーヴェンが手ずから食べさせてくれたからだろうか。


 エレナの反応を見て、ルーヴェンは満足そうに微笑む。

 赤い果汁とエレナの唾液でてらてらと濡れた指先を口元へと運んでぺろりと舐めとった。

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