第4話 おやすみ、ルーヴェン

「ありがとう、エレナ」


 ばたん、と部屋のドアが閉じると同時にルーヴェンはエレナの腰に抱き着いてきた。びくっと硬直したエレナを見上げ、甘くやわらかな微笑みを向けてくる。たったそれだけでエレナの心臓が激しく高鳴った。


 やはりこの顔がよくない――いや、良すぎるのがいけないのだ。


 金色の巻き毛も鮮やかな青の双眸も、絵画に描かれた天使やビスクドールを思わせる。あまりに愛らしすぎて動悸が止まらない、落ち着け、と何度も繰り返してはいるのだがさほど効果は見られなかった。


 この可憐な容姿のおかげもあるだろうが、ミセス・カーターにあっさり受け容れられてしまったこの不思議な少年……ルーヴェンは、カーター家のエレナに与えられた部屋で過ごすことになった。


 ミセス・カーターいわく、こんな可愛らしい子を放っておくことなんてできるもんですか、とのことである。その心酔ぶりたるや、自らの息子――いまは巣立って王都で生活しているらしい――の子供の頃の衣服を「好きに使ってくれればいいから」と着替えとして貸し与えてくれたほどだった。

 手伝いながら着せてやれば、その愛らしい丸襟付きの子供服はルーヴェンのためにあつらえて作られたかのようによく似合った。


 ベッドは狭くなるがふたり一緒に――まさしく姉弟のようにぴったりくっつくようにすれば眠れないことはない。


『――エレナお姉ちゃん!』


 まるで王都で博物館に通い詰めていた頃に見た夢のようだ、とエレナはぼんやりと考えたが頭を振って打ち消した。ただの夢想では済まない事態が眼前で起きている。それは確かだった。


 どうやらルーヴェンはミセス・カーターにエレナが姉のような存在だと思わせることに成功したらしかった。庇護を求める少年を見捨てられるほどに、ミセス・カーターは情のない人間ではない。それどころか、職を失い行く当てもなく路頭に迷いかけていたエレナを、同じ客車に乗り合わせたのも縁だからと住み込みの家政婦に雇ってくれるほどにお人好しだった。


 エレナ自身、ミセス・カーターに恩義を感じている。

 教会の教えにのっとって、弱き人々に手を差し伸べる心優しい人を、いとも簡単に言いくるめてしまったルーヴェンへ、エレナは驚嘆と同時に畏怖の視線を向けた。


 釦を留めてあげながら「ねえ」と声をかけると、ルーヴェンは小首を傾げた。本当にそうしているとただの子供にしか見えない。ただそうではないことをエレナは本能で理解していた。足元から這い上がって来る薄ら寒いものを振り払おうと、身体をふるりと揺らした。喉の渇きを自覚し、唾を呑み込んでから口を開いた。


「あなたは、誰なの……?」


 怯えた目でルーヴェンを見ると、くすくすと砂糖菓子のように軽い笑い声を立てた。その場違いな反応がいっそう不気味さを増してエレナのには映った。


「ずっと会いたかったんだ、エレナ」

「あ……の、どうしてわたしの名前……」


 ただルーヴェンは微笑むばかりだった。たった一度でいい、自分に笑いかけてくれれば。硝子ケースの中の少年を見つめながら希った感情が胸の内、炎のように湧き上がる。

 彼は、ルーヴェンは。わたしを「エレナ」だと認識してくれた。ずっと彼のもとに通い詰めて、彼を愛し、見つめ続けた「エレナ」だと理解しているのだ。

 ぞくりと、肌が粟立ったのがわかった。ただしそれは嫌悪ではない。


「エレナが来なくてさみしかったから――来ちゃった」

「でも、そんなことって」


 ルーヴェンはつま先立ちになって、エレナの唇に指を押し当てた。これ以上は言わないで、と懇願するように青の眸がじっと見上げてくる。

 指がゆっくり離れていくと、呼吸を忘れていたあいだの空気を求めるようにエレナはあえいだ。くす、と少年には似つかわしくない大人びた微笑みを口元に湛えたルーヴェンは、恭しくエレナの手を取って「もう寝ようよ」と誘った。


 それはこれ以上の議論を拒んでいるかのようにも見えた。世界で最も美しい屍体――そんな触れ込みで博物館に展示されていた少年。それが息を吹き返して、立って歩いてエレナの眼前にいる。こんな不可思議を受け容れて良いものか、悩む気持ちは絶えずあるのに――……。

 触れられた手の冷たさにどきりとしながらも、心は燃えるような喜びをおぼえている。彼に求められている、この美しい少年に必要とされていることが嬉しくてたまらないのだということにエレナは気づかずにはいられなかった。


「ええ。今日は疲れたでしょう、ルーヴェン? ……よく、わたしのところまで来てくれたわね」


 ぎい、と小さなベッドがふたりぶんの体重で軋んだ。

 予想どおり窮屈ではある。エレナがルーヴェンを抱き枕のように抱えていないとどちらかが――または両方がベッドから落っこちてしまいそうだった。

 清潔な、石鹸のにおいがするシーツの中で足の指が触れ合う。ルーヴェンの爪先は、手とおなじように氷のように冷たかった。


「ああ、温かい……僕、エレナにこうして抱きしめてもらえるのすごく嬉しいな」


 ぞくりとするような甘ったるい声音が背骨を貫くようだった。この冷えた身体にぬくもりを分け与えるように強く抱きしめると、痛いよ、と苦笑気味の声が上がった。


「ねえ、ルーヴェン。あなたは……」


 石でも縫い付けられたかのように唇がずしりと重たく感じた。でもやっぱり聞かないままではいられない。エレナは意を決して口を開いた。


 カラント国立博物館にいたのよね――? 


 そう尋ねる前に腕の中で穏やかな寝息が聞こえてきた。そして尋ねるきっかけを失ったまま、エレナも泥のような眠りに落ちていった。


 この日ばかりは、王都を離れてからずっと見ていた博物館の硝子匣と、そこで眠る少年の夢を見なかった。

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