第3話 夜の訪問者

「まあ、なんてことかしら!」


 王都を発ったエレナは、カラント王国南西部にあるエダムシャーにある小さな村で働き口を見つけた。老婦人のもとで、住み込みで家事をする仕事である。雇い主であるミセス・カーターは眼鏡を持ち上げながら新聞記事を覗き込んでいた。


「どうかなさいましたか、奥様」


 ティーポットから紅茶を注ぎながら尋ねると、ミセス・カーターはぱちぱちと瞬きをしながら答えた。


「――国立博物館で盗難事件ですって。エレナ、貴女この村に来るまでは王都にいたのよね」

「ええ、そうですが……」


 国立博物館と聞いて頭をよぎったのはあの美しい少年のことだった。永遠に眠りから覚めることのない彼。世界で最も美しい亡骸。通い詰めたおかげでその繊細なつくりの美しい顔がすぐに眼裏まなうらに思い浮かべることができる。


 ミセス・カーターの話を聞きながら、エレナはむくむく育ち始めた嫌な予感を打ち消すことが出来なかった。


 失礼だとはわかっていながら、思わず尋ねていた。


「あの、ミセス・カーター……盗まれたものというのは何だったのですか?」

「ええ、ちょっと待っていて。よく見てみるわね」


 すると気分を害したようすもなく、ミセス・カーターはピントを合わせるように眼鏡を持ち上げて新聞記事を覗き込んだ。見出しから記事の内容に視線を移したらしい。


「なんでも――死体だそうよ。そもそも、そんな気味の悪いものを展示してあったなんて私からしたら驚きだわね。国立博物館は何でも展示してあると聞いたけれど、死体まであったなんて……」


 どくん、と心臓が跳ねた。嫌な汗が背筋を伝う。

 死体、という言葉で真っ先に頭に浮かんだのはあの天使のような金の巻き毛の、硝子匣の中で安らかに眠る少年のことだった。


 そんな――彼が、あの少年がもう博物館にいない? そんなことって――。


「どうしてそんなものを盗んだのかしら、ねえ、貴女も気にならない? ……エレナ、どうしたの。顔色が真っ青よ」


 ミセス・カーターには大丈夫だ、と言ってエレナはキッチンに戻った。オーブンから取り出して少し冷ましておいたスコーンをお皿に盛りつける。クロテッドクリームとストロベリージャムを添えて。作業の手は止めなかったがエレナはずっと、あの少年のことを考えていた。


 エレナ以外にも彼に心酔していた者がいたのだろうか。手元に置いて自分だけのものにしたい――……それは確かに甘美な誘惑だった。だが夢想こそすれど実行に移す者がいるとは思いもしなかったのだ。


 こんなことなら、わたしが――頭によぎった考えを振り払うように、エレナは「ミセス・カーター! ただいまスコーンをお持ちします」と声を上げたのだった。




 午後から雲行きが怪しかったが夜は雨が降った。


 軽めの夕食を終えると、ミセス・カーターは早々に寝室に引き上げていった。エレナはキッチン周りの片づけをしてから、ダイニングの椅子に腰を下ろして考え事をしていた。ミセス・カーターが話していた博物館の盗難事件――そのことについてだ。


 話を聞いた後、お願いして新聞を読ませてもらったが間違いなかった。

 あの子が、彼が盗まれてしまった……その事実にエレナはひどく打ちのめされていた。


 王都を離れこそしたが、カラント国立博物館に彼がいてくれると考えるだけで胸の内がふんわりと温もる気がしたのだ。心の支えだったと言ってもいい。

 どうして、そしていったい誰に。彼は盗まれたのだろう。おなじ疑問が何度も頭をぐるぐると巡る。


 エレナが知らなかっただけで、エレナのように熱心に博物館の彼のもとへ通い詰めている者がいたとして。いま彼は、あの少年はどこにいるのだろうか――その人物の家だろうか。


 がたがたと雨風が窓枠を揺らし、びくっと肩が跳ねた。


 騒ぎっぱなしだった胸に手をあてがい、心拍を鎮める。すう、と吸い込んだ息を細く長く吐き出す。


 長椅子に腰かけ、ざあざあと沁みるように響く雨音に身を委ねていると、思わず舟を漕ぎそうになっていた。

 そろそろわたしも寝ようかな……。ふあ、とこみ上げた欠伸をかみ殺し、水でも飲もうかと水差しに手を伸ばしたときだった。


 雨音まじりに、こんこん、とドアを叩く音が聞こえる。

 真夜中だというのに……エレナは手にした水差しをテーブルに戻した。


『エレナ』


 恐る恐る玄関へと向かうと、規則的にこんこん、とドアが叩かれている。

 ノックの合間、ドア越しに聞こえてきたのは幼さを残した少年の声だった。こんな時間に何故、と思うのに誘われるように一歩足を踏み出している。


『入れてよ、エレナ』


 何者かが、エレナがドアを開けるのを待っている。


 開けては駄目。こんな時間に訪ねてくる者などいないはずだ。ましてやエレナはこの村に来たばかりで知り合いなどいない。


 頭ではわかっているのに甘い声で呼びかけられると手が勝手に動いていた。


 ごく、と唾を呑み込んでつめたいドアノブを掴んで開くと目の前に立っていたのは、十歳ぐらいの少年だった。


「こんばんは、エレナ――……ずっと会いたかったよ」


 青い眸、金色の巻き毛……雨夜の訪問者としてはふさわしくない天使の容貌をした少年がエレナに微笑みかけている。


 誰何すいかするまでもなく、エレナはこの少年のことを知っていた。毎日のように通い詰めた博物館で、ずっと逢瀬を楽しんでいたのだから。


「そんな……こんなことって」


 世界で最も美しい死体だった少年が、薔薇の棺から起き上がりエレナの目の前に立っている。


 いまにも立眩みがしそうだったが、必死で堪えた。


「……嘘、だって、あなた盗まれた、って」


 口を突いて出たのは真っ先に浮かぶべき疑問ではなかった。


 どうして死体のあなたが立って歩いて……よりによってわたしなんかの目の前にいるのか。そう尋ねるべきだったのに、動揺のあまり頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 少年はきょとんとしたようすで、困ったような微笑みを青ざめた唇に浮かべている。


「盗まれた? 僕が……? あははっ、エレナは面白いことを言うんだね」


 くすくすという蝶の羽搏はばたきよりも軽い笑みが少年にはよく似合った。思わず見惚れていると大きな眸をまっすぐにエレナに向ける。羽根の先で、優しく心臓を撫でられたみたいに胸が疼いた。


「ねえ、中に入ってもいい?」

「えっ、あ……」


 いいわよ、と反射的に答えそうになっていた唇をきつく噛みしめる。

 この得体の知れない子供をカーター家に入れるわけにはいかない。追い返さなくてはいけない。


 あらためてエレナはまじまじと少年を見つめた。


 前髪は雨に打たれた花びらのように濡れそぼっている。小刻みに身体が震えているのはおそらく寒いからだろう。このまま外に居たら風邪をひいてしまうかもしれない。


 そんなことを考えながら「この子は死んでいるのに?」と頭に受かんだ皮肉がエレナを茶化した。


 そのとき背後から物音が響いた。思わず振り返ると、ミセス・カーターが寝室を出るとゆっくりとした足取りで玄関に向かって歩いてきた。


「どうしたの、エレナ」

「すみません。ミセス・カーター、起こしてしまって……」


 少年とミセス・カーターの間で視線をさまよわせていると、「まあ!」とミセス・カーターは驚きの声を上げた。


「まあ、まあ、まあ! この子ったらずぶ濡れじゃないの! エレナ、早くタオルを持って来て」

「は、はい」


 エレナがタオルを手にして戻ると、少年とミセス・カーターが話し込んでいた。


「……そう、それは気の毒に。エレナを頼って来たのね」

「はい、ミセス・カーター」


 少年は表情を曇らせ俯いた。いまにも泣き出してしまいそうだ。その姿を見ているとぎゅっと胸を鷲掴みにされたように苦しくなる。


「エレナ」


 ミセス・カーターに名前を呼ばれてエレナは背筋をぴんと伸ばした。


「この子……ルーヴェンはどこにも身寄りがなくて、唯一親しくしていたあなたを訪ねて王都から来たそうじゃない」

「……えっ?」


 身寄りがない、王都から訪ねてきた。なんのことだかわからないまま棒立ちになっていると、ミセス・カーターは茫然としていたエレナからタオルを取り上げて、少年の濡れた髪を拭いてやろうとする。


「ミセス・カーター……奥様! そのようなこと、わたしがやります」

「いいのよ。私がしたくてやっていることだから」


 滴る雫を拭って、ミセス・カーターは満足げな息を洩らした。


「これでよし。ひとりぼっちで飼い主を待つ仔犬みたいだったわよ、あなた」

「ありがとうございます」


 礼儀正しく振る舞った少年に、ミセス・カーターはすっかり絆されてしまったようだった。


「行くところがないのでしょう? 入っていいわ、どうぞ。狭い家だけれどエレナと貴方が暮らすぐらいの部屋はあります」

「ありがとうございます、ミセス・カーター」


 少年、ルーヴェンは――ミセス・カーターとエレナに向かってにっこりと微笑んだ。

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