第2話 車窓


 ガシャン、と硬質な何かが砕ける音がした。


 真夜中のカラント国立博物館に人気はなく、非常灯のみが部屋の隅に煌々と輝いている。巡回しているはずの警備員は展示室にはおらず、控室で仮眠という名の居眠りをしていた。だから、異変が起きたとしても気付くはずはなかった。


 蒼褪めた肌の少年が、ふらりと展示室を歩き回っていたとしても――その彼が博物館を抜け出して静かに夜闇に溶けていったとしても、誰も後を追うことはなかった。


「待っていてね」


 目覚めたばかりの少年は、まるでダンスでも踊っているかのような軽やかな足取りでどこかへと向かっている。霧の満ちた街で、すんすんと鼻を鳴らして何かを探している。そして向かうべき方角を確かめると、ふわりと身体を宙に浮かせた。漂う霧の中に身を躍らせて、自らの輪郭を溶かしてしまう。


 そして、その姿を目にしたものは誰もいなかった。



 ◆



 がたん、と揺れた瞬間、痺れるような鈍い痛みでエレナは微睡みから目覚めた。漆黒の睫をぱちぱちとひらめかせながら顔を顰める。

 どうやら列車が急ブレーキをかけたか何かで窓枠に頭をぶつけたようだった。客車を巡回する乗務員が申し訳なさそうに乗客へ声掛けをしている。


「災難続きね……」


 脱いでいた帽子を抱きしめてため息交じりに呟くと、向かいの席から吹き出すような気配がした。


 さすがにむっとして対面に座る男を睨む。失礼な、と声を上げようかとも思ったのだが彼を一目見た瞬間に言葉を飲み込んだ。


 くつくつと堪えるように笑う男は白銀の髪をしている。座席に座っていてもわかるほどに背が高く脚が長い。熟れた果実のような赤褐色の眸が目を惹いた。エレナは思わず息を呑んで見惚れそうになった、が、彼よりももっと美しい存在を知っていることを思い出してすぐに熱狂から醒めた、ふりをした。


「……何が可笑しいのですか?」


 エレナが正面切って尋ねてくるとは思いもしなかったのか、銀髪の男は赤い眼を見開いた。そしてふ、と唇だけに笑みをとどめて肩を竦めた。


「何も、といったら君は俺を嘘つき呼ばわりするんだろうな、お嬢さん」


 この男に甘い声で「お嬢さん」などと呼ばれたならのぼせ上がる娘は少なくなさそうだ。他人事のような感想を抱きながら、エレナは目を眇めて彼を値踏みした。


 年齢は十八歳のエレナよりも十近くは年上に見える。エレナをつい数日前まで雇用していたジョーンズ家の旦那様が着ているよりも、遥かに仕立ての良さそうなフロックコート姿だが、真新しさはなく着古した感じがあった。古着屋で手に入れたものに袖を通したかのようにも見えるが、それにしては彼の体格にぴったりと合っていた。


 旅装として、エレナは出来るだけ上等なドレスを選んで着てきたつもりだが彼の前にいると裾の小さなほつれや薄いしみが気になってしまう。なんとなく居たたまれなくて腕組みをして地味な色合いの衣服を隠した。


 ――そもそもどうして、このひとこんなところにいるのかしら……。


 エレナがいま居るのは庶民が利用する二等客車だ。立派な紳士であれば一等客車に乗っているのが普通なのに、と考え込んでいたときだった。


「じろじろ見ないでくれないか、照れてしまうだろう」


 凝視していたことを指摘され、エレナの頬は朱に染まった。あまりに不躾な視線を向けすぎたか、と反省しながらも彼の気安い雰囲気のおかげで、怒っている風には思えなかったので安堵した。


「ごめんなさい、その……」

「こちらこそ。痛そうだったのに笑って悪かったな――怪我はないか?」


 カーライルだ、と男は名乗った。


「……エレナです。その、怪我はありません」


 エレナは、ちら、ともう一度カーライルの方を見て――ぱっと視線を逸らした。その反応が可笑しかったのか、またカーライルは笑った。


 がたん、ごととん、と振動を伝えながら列車は王都を離れ、見渡す限りの牧草地の真ん中を走っていた。


「どちらまで行かれるんですか?」


 会話が途切れてからしばらくして――それでも好奇心を抑えきれずにエレナは白銀の髪の青年に尋ねていた。

 カーライルは少し意外そうに眉を上げ、ふ、と口の端に笑みを載せた。


「さあ。当てはないが」

「……そう、ですか」


 いくら気安いその場限りの会話であっても、見ず知らずの相手に教えるつもりはない、ということだろうか。わずかに落胆しているとカーライルはぼそりと呟いた。


「じつは俺は探しものをしていてね」


 探しもの。実に抽象的で、要領を得ない。煙に巻かれているような心地さえする。だがエレナが少し踏み込んでみることにしたのは、カーライルが相変わらず楽しそうな表情をしていたせいだった。


「……何を?」

「危険なもの」


 さらりと、あまりになんでもない口調でカーライルは言った。


「この世のものとは思えないほどに美しく、儚げに見えてその実、ひどく凶暴なもの。人間に害を成す存在だ」


 凶暴、ということは動物か何かだろうか。好奇心がさらに膨らむのをおぼえたが、いつのまにかゆるやかな速度になっていた列車が駅に到達した。


 カーライルは席を立ち、客車を出て行こうとする。

 思わずつられて立ち上がったエレナを視線で制して、軽く手をあげる。


「じゃあな、お嬢さん。くれぐれも【薔薇】には気を付けることだ。君は既に目をつけられているようだから」


 低く響く声音で言うと、カーライルは列車を降りて行った。


「……薔薇?」


 棘で指を突かないように、ということだろうか。

 ホームから駅舎に向かっていくその姿をエレナは窓から見つめていたが、緩やかに列車が動き出した。


 その駅の名を確かめるより早く、列車は次の目的地に向かって加速を始めていた。


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