薔薇と硝煙

鳴瀬憂

第1部 薔薇

第1話 美しい屍体


 カラント国立博物館には世界で最も美しい屍体がある。


 それはひとりの少年の亡骸で、けして腐敗することもなく生前のまま保たれているという。透き通るような青白い肌に、丁寧に一本一本紡いだように美しい金の糸を思わせる巻き毛。淡く桃色に色づいた唇を見ただけでは決して彼が死んでいるとは思わないだろう。いまにも穏やかな寝息が聞こえてきそうだとさえ思うかもしれない。


 ただ彼はこの博物館に安置されて五十年、一度も目覚めることはなかった。時を忘れたかのように昏々と眠り続ける少年の魂はそこにはなく、ただの抜け殻だとされて久しい。敷き詰められた紅薔薇のしとねに横たわり、いまにもその瞼を開きそうな少年の姿は訪れた者たちを魅了してやまない――……。





 「薔薇」と名付けられたその展示を眺めながら、エレナはほうとため息を零した。芸術品のごとく硝子ケースに安置された彼はいまにも起き上がり、大きく伸びをしそうでさえある。

 まるで天使がうたた寝をしているような姿だ。

 目にした瞬間に、エレナはこの展示の虜となった。仕事が終わってすぐ閉館間際に博物館に駆け込んで彼の変わることのない寝顔を眺める。ケースに映る自身のほつれた黒髪を直すこともせず、じっと食い入るように。


 なんて美しい少年なのだろう――。


 見るたびにおなじ、至極単純な感想を抱くのだが、ずっと眺めていても飽きなかった。あるときなどは警備員に肩を叩かれるまでその場から動けずにいたほどだ。

 今日も今日とてエレナはぼうっと匣の中の少年に見入っていた、


 きっと眸はさわやかな夏空を思わせる青に違いない。

 一度も目を開けたところを見たことはないのだけれど――当然だ、彼は既に亡くなっているのだから――そんな確信があった。最近などはあまりに博物館の少年のもとへ通い詰めすぎて、夢の中にも彼が現れたくらいだった。

 夢で少年は思い描いた通りの青い眸を輝かせてエレナに抱き着いて来る。


『エレナお姉ちゃん!』


 ああ、あの夢の光景が現実であったのならばどんなにか幸せだろう。

 それにひきかえ、勤め先であるジョーンズ家のお子様共と来たら――悪戯好きで子供部屋は散らかし放題、そして常にエレナを常に小馬鹿にしたような態度を取ってばかりだ。さらに悪いことにジョーンズ夫人は、子供たちの行儀がよろしくないのはしがない通いのメイドであるエレナに問題があると思い込んでいた。


 そしてついに、今日、解雇された。


 明日からは職探しの日々だ。紹介状なんてものを用意してはくれなかったから、求人に応募したとしても採用してもらえるかは怪しい。出来れば今度は子供がいないお屋敷……田舎で老婦人の話し相手をしながら家事をするような仕事に就ければ願ってもない幸せだった。

 だけれどそうすると、もうこの博物館には来られなくなるだろう。この博物館がカラント王国民であれば誰でも無料で入館できるとはいえ、王都を離れてしまえばいままでのように仕事終わりに寄ることも難しい。

 別れを惜しみながらじっとエレナは少年を見つめた。


「やっぱりあなたってとっても綺麗だわ……ねえ、わたしと一緒に来ない? ……なんて、ね」


 エレナが少年との田舎暮らしについて空想、もとい妄想の翼を羽搏はばたかせていたときだった。


「……えっ?」


 硝子匣の中で、彼の長い睫が震えたような気がしたのだ。


 見間違いに違いない。そうは思っても目が離せなかった。もし彼が目を開けたなら――どくん、と大きく胸が高鳴った。彫像のようにしか見えない彼が長い眠りから覚めるようなことがあるのなら――彼のに映ってみたい。

 そんな欲がエレナの中に芽生えてしまった。


 ――閉館時間です、館内にいるお客様は速やかに展示室から退室してください。

閉館時刻を告げる館内放送が鳴り響いても、エレナは夢見心地でしばらくのあいだ少年の前から動けずにいた。

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