第3話 人狐舞う

 カラン、と派手な色使いのアルミ缶が転がった。柑橘系の果物と九パーセントという文字がプリントされているロング缶だ。それを取り落としたのはリクルート姿の若い男だった。男は手からこぼれた缶をぼんやりとした目で見て、一瞬拾い直してゴミ箱に入れることを考えたが、まあいいか、と思ってそのままにした。ふと顔を上げると林立という表現そのまま当てはまるようなビルたちがひしめいている。空は晴れているのにどこか灰色じみていて、奇妙な形の雲が浮かんでいる。

 男は都市の一画に設えられた公園で、酔った頭をゆらゆらと回していた。

 「六十社目…」

 男は就職に失敗した企業の数を呟いた。世は空前の人手不足だという。だのに男には働き口の縁がさっぱり無かった。毎週毎日、やれ説明会だセミナーだ面接だと積極的に足を運んだが、結果はそのことごとくが彼が職に就くことを拒むものだった。それでも最初はあきらめずに地道な就職活動に食らいついていったがその努力が報われないまま、いつ頃からかこうして公園の端で酒を呷るようになっていた。

 男は酔眼で公園を見回した。昼休み中のサラリーマンやジョギングを楽しむ熟年夫婦、赤ん坊を連れた母親などがそれぞれにそれぞれの時間を憩うている。男にはそれがとても幸せそうに見えた。

 「どいつもこいつも…俺のことなんか、誰もわかっちゃくれねぇ」

 湧き上がる苛立ちを感じていると、ふと公園の人々の中に一人、こちらを見ている人物がいるのがわかった。それは小学生くらいの女の子に見えたが、全身黒ずくめの服装が異様だった。少女はただ立ち尽くしてこちらを見ている。男が少女に不気味さを覚えた瞬間、少女が消えた。何かの見間違えかと思えるほどに、忽然と消えた。驚いた男が目を瞬かせる。するとその時、頭の後ろの方から、

 「夢黒旋」

 という声が聞こえた。少女らしい声だった。その言葉に男は心当たりはなく、何の事かすら分からなかった。ムコクセン?何だそれは。男が振り返る。一瞬だけ黒ずくめの少女と彼女の赤く光る瞳が見えた気がしが、男はすぐに目を開けていられなくなった。男の顔を冷たい風が叩く。男は自分が凍り付くのを感じ、意識が遠くなった。

 目覚めた時、男は最初自分は空に浮かんでいるのかと思った。目線が高くなっている。信号機や交通看板が下に見えて驚いたし、そこを走る車やバイクもミニチュアじみて見えた。人に至っては指くらいの存在で、先ほどのサラリーマンや熟年夫婦も見えた。みな一応に唖然としてこちらを見て動きを止めている。それを見て男は無性に腹立たしく感じた。無遠慮で無礼な好奇の視線に晒されているように思えたのだ。異様な怒りが湧いてくる。

 「俺を見るんじゃねえ!」

 一歩踏み出した男に人々は驚愕し、悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。その様子にさらに怒った男は、大きく口を開けると腹から息を吹き出した。

 強烈なアルコールの臭いを巻き散らしなが吹き出されるそれはしかし、その息に触れた木々や草花はたちまち茶色に変色し、街灯は溶けてぐにゃりと曲がった。何故そんな事が出来るのか分からなかったが、男は自分の力を喜んだ。

 「ハハッ、こいつは面白れぇ」

 男はもろくなった街灯を掴むと根本のあたりでバキリと折る。それを棒きれのように振り回すとあたりの物に手当たり次第に叩きつけた。ベンチと言わず売店と言わず公衆トイレと言わずあらゆるものが飴細工のように破壊されてゆく。暴れたいという衝動が後から後から湧いてきて男は突き動かされた。男は愉快だった。


 公園の入り口の車止めの、その銀色のポールの上にちょこんと子犬が乗った。犬という割には鼻先は細長く、ピンと立った耳も大きい。体毛は上手く焼けた時のパンケーキの色に近かった。そこにやや遅れて走り込んで来た人物がいる。ダークグレーのスーツを着こんだ若い女性だった。

 「何してるのだ、急ぐのだ」

 不意に子犬のような生き物は人語をしゃべった。息を切らしている女性をせかすように少し怒っているようだった。

 「ちょ、ちょっと待ってよ与次郎、あんた足速いんだから…」

 大きく肩を上下させているスーツの女性が言う。スーツと言ってもパンツ姿にネクタイを締める男性寄りのものなのが珍しい。女性はようやく顔を上げると公園の異変を見た。周囲の建造物は壊されていて瓦礫が散乱している。その中に溶けたように折れ曲がった形の柱や街灯が見られるのが奇妙だった。

 「与次郎!あれ」

 驚いた女性が指を差して言った。彼女が指差す方に、人間がいた。但しその大きさはかなり異なる。象よりも大きな人間が棒のようなものを振り回して暴れていた。

 「間違いないのだ、鬼なのだ」

 与次郎と呼ばれた生き物は巨大な人間を睨みつけるように言った。先端が白くなっている尻尾を立ててぴりぴりと震わせている。

 「大妖狐を呼ぶのだ」

 そう与次郎が言うと女性は目を丸くした。

 「ええっ?こんな所で!?」

 女性は焦ったように辺りをきょろきょろと見回して言う。与次郎はそれには答えず、ひとつジャンプすると女性の頭にしゅたと乗った。

 「狐面招来」

 与次郎は女性の頭の上でくるりと体を回転させる。するとたちまちそれまでの与次郎の姿はなくなり、白い狐の面になった。口の部分の開いた、顔の上半分ほどを覆うものだ。狐面は女性の顔にピタリと張り付く。両耳の部分から房が伸びていて、そこに付いた金色の鈴がしゃりん、と鳴った。

 コーン

 鈴の音に応えるように、透き通った鳴き声が空の高い所から聞こえる。彼方で何かが七色に光った。その光の中から空を駆けて白毛の狐が降りて来るのが見える。地表に降り立った白狐は「鬼」に比肩するほどの大きさであり、鬼に対峙でもするかのように、しかしどこか遊んでいるかのようにしている。

 「何であんな遠い所に降りるのよ!?」

 狐面を被った女性が焦ったように言う。その狐面がビリビリと震えた。与次郎の声を伝えて来る。

 「何してるのだ、早く人弧になるのだ」

 「わ、分かってるわよもう!」

 せかされた女性は少し逡巡したようだったが、ついに決心したのか走り出した。だがそれでも与次郎は不満らしい。

 「何やってるのだつばさ、大妖狐は人間が嫌いなのだ」

 耳に近いところで怒鳴られても、だからってどうしようもないこともある。

 途中逃げてくる何人もの人とすれ違った。中には狐面を付けたつばさの姿を見てぎょっとしたような人もいた。

 「うわぁ、こんなに人がいるぅ…」

 つばさは血の気の引く思いがし、急いで辺りを見回す。ようやく植え込みになっている所を見つけると隠れるように飛び込んだ。

 「いい加減にするのだ、大妖狐は人間嫌いなのだ、使役してるのが人だとバレたら取り殺されるのだ」

 「そんな事は何回も聞いたわよ!」

 植え込みから頭だけ出して見る。鬼と大妖狐がにらみ合ってた。少しは近づけただろうか。一方で避難する人の流れも途切れていない。

 「だったら早く人間の格好を捨てるのだ」

 狐面がひと際強くビリビリと震える。

 「うう…」

 ビリビリビリビリ。

 「もう…恥ずかしいんだからね、いっつもいっつも」

 何かを諦めたかのようなつばさは襟元に手をやると、濃紺色のネクタイを緩めるのだった。


 「なんだぁ…」

 男は唐突に現れた白毛の狐を胡乱げに見た。狐もまた切れ長の目で男をこちらを見ている。それはどこか挑発的でもあった。少なくとも男にはそう感じた。

 「気に入らねぇ」

 やおら男は街灯を振り回し狐に害意を向ける。狐は優美な動作でひらり、ひらりと躱してゆく。なんだか遊んでいるかのようだ。

 「ええい、ちょこまかとお!」

 怒った男はなお執拗に狐を追い回す。だがその攻撃が狐に及ぶことはなく、ますます男を苛立たせた。だからその時彼と大妖狐の足元を走る者がても、男は気づかなかったのだ。

 「ちょ、ちょっと、そんなに動き回らないで!」

 狐面に下着姿という奇天烈な姿の女が、悲鳴にも似た声で叫んでいる。彼女としては大妖狐に近付きたいが、こう跳ね回られてはそれも叶わない。

 「急ぐのだ、大妖狐もいつまでも待ってないのだ」

 「あんたが近場に呼ばないからでしょうがっ」

 狐面の裸女が大声で独り言を言っている様とはどういう状況だろうか。つばさはそういう自分を客観視するたびに身の不幸を嘆かざるを得ない。しばらく狐面となった与次郎と言い合っていると、丁度良く大妖狐がつばさの至近に降り立った。今だ、とばかり、羞恥を振り切る気持ちで飛び出す。

 だが同時に鬼となった男はたまたま近くに立っていたブロンズ像を乱暴に引き抜くと、大妖狐に向かって投げつけたのだった。青緑色の塊が砲弾のように飛ぶ。その射線上に運悪くつばさは躍り出てしまった。あっ、と思う間もなく、致命的な質量がつばさの上に圧し掛かる、その瞬間。

 しゃりりりん。狐面の鈴が美しい音を響かせる。

 コーン、大妖狐が高く鳴くやいなや素早く飛んで、刹那の差でつばさを救い上げる。そしてそのままパクりと口内に放り込むのだった。そして与次郎の面が高らかに言うのだ。

 「人狐合身」

 大妖狐は鼻先を天に向けて伸びあがった。つばさを取り込んだ天界の半神半妖がその姿を変えてゆく。背筋が立ち上がり二本の後足で地を踏みしめる。肩が張り出して前足が脇の横に移動する。顎が引かれた状態になり、鼻先が短くなる。頭の上の両耳と大きな尻尾以外はヒトの体つきに極めて近くなった。

「あん」

 大妖狐の口の中を抜け、つばさはぼんやりとした空間に落ちた。毎度毎度不親切だと思う。するとそんなつばさの気持ちも知らないでか、人狐となった大妖狐の瞳を通した風景が目の前に広がって見える。目の前にかつて人間だった者がいた。肌は赤らみ、髪は振り乱れてまさに鬼のようである。

 鬼となった男は何が起きたのか分からなかった。突然空から狐が降ってきたかと思ったら、今度は人間みたいになった。なんなんだ。

 「俺を、バカにしてんのかぁ!?」

 腹の底から怒りが沸々と湧いてくる。誰かが俺に訳の分からない物を見せて裏で笑っていると思った。許せない。目にもの見せなければ収まらない。男は思い切り息を吸い込むと酒精を凝縮した息を吹き付けた。

 「うわっお酒クサ~イ」

 つばさは思わず顔をしかめる。その動きを真似て人狐もまた同じような仕草をしているようだった。

 「来るのだ!」

 与次郎がそう警告したが一瞬の怯みが仇になった。鬼の太い指が伸び人狐の喉に食い込む。

 「うぐっ、うう…」

 「へへへっ、許さねぇ、許さねぇからなぁ」

 鬼の顔に嗜虐的な笑みが広がった。異様に分厚くなった唇の間から白いものが顔を覗かせている。犬歯が上下に四本、鋭く伸びてぬらりと光った。人狐は首を絞められたまま吊り上げられて、つま先は空間を彷徨っている。いかにも苦し気だ。

 「く…くう…」

 「あーん?なーんか、やたら柔らけぇなあ、女みてえだな」

 鬼が何かに気づく。するとだらしなく鼻の下を伸ばし、下卑た笑いをさらに淫靡に歪ませると、あんぐりと口を開けて赤い舌を覗かせた。舌はどこまでも伸長すると蛇が這うように人狐にぬめぬめと巻き付いた。その感触につばさの全身は総毛立つ。大妖狐に人間だと見破られないようにと下着のままでいた事が裏目に出た。

 「い、いや…やめて」

 「つばさ、早く抜け出すのだ」

 「でもこのヌルヌルが、外れ、ない…、あっ、いや、ああん」

  腹から胸のあたりをズルズルと舐め上げられ、つばさの声に艶めかしさが加わる。

 「でへ、でへへ、俺、もっとスリムが好きだけど、でへ、ガマンちゃう、俺えらーい、でへ」

 鬼は人狐を舌を使って揉みしだきながらいやらしく笑うと、げふうん、という下品な音を鳴らして再び酒臭い息を人弧に浴びせかけた。

 濃密な酒精が立ち込め、つばさの視界がぼやける。

 「う、うん…ああ…ダメ、んんっ、私…もう」

 「つばさ!しっかりするのだ」

 朦朧とするつばさに与次郎が呼びかける。だがその声も空しく、鬼の舌に絡めとられた人狐とつばさはなされるがままのようだ。

 「ほーれ、ええのんか、これがええのんか」

 「ああ…いや…そこっ、舐めちゃ…ダメぇ…」

 酔いの回ったつばさは自分でも何を言っているのか分からない。ただ鬼の舌技に身を任せるばかりだった。

 「つばさ、印を結ぶのだ!!」

 与次郎が怒鳴るように言う。「印」という言葉につばさの眉がピクリと動いた。つばさはおずおずと両手の人差し指と中指を伸ばす。ちょうどジャンケンの「チョキ」で二本の指の間を広げないでぴったり付けたような形だった。そしてそれを額の前にかざすと、バツの字になるように交差させた。

 「狐…炎…」

 虚ろな目のつばさがどうにかそう言った次の瞬間、人狐の額の前面に眩いばかりの火球が生まれた。そしてそれは周囲の空気を揺らめかせつつ、一直線に鬼に向かって飛ぶ。にやけ顔の鬼は油断しきっており、人狐の放った火炎弾をまともに受けるのだった。

 ぎゃああ、炎に包まれた鬼が悲鳴を上げる。ようやく束縛から逃れた人狐は間合いを取って鬼に対峙した。 

 「つばさ、一気にけりを付けるのだ」

 「う…うん」

 頭の芯に残る酩酊感を追い出すように、つばさは二、三度首を振った。同じように鬼の方も体を震わせると、纏わりついた炎を吹き払う。焦げた体毛から白煙が上がっている。

 「てんめぇ、よくもやりやがったなぁぁ!」

 怒気を発散させて鬼が吼えた。再び人狐を捕らえるべく猛然と迫りくる。

 つばさは鬼を見据えつつ構えをとった。人狐の大きな尻尾がぞわぞわと震え、その中からピンのようなものが飛び出してくる。それは人狐の手の中で爆発的に膨張すると、人狐の背丈よりも長い黄金色に輝く戦棍となった。つばさと与次郎が声を合わせてその名を言う。

 「凌月棍」

 人狐は棍を手に取ると突進する鬼に向かって翻した。

 「正気に戻りなさあぁぁい!」

 鬼に向かって一気に振り下ろされる黄金の棍。打撃の瞬間強烈な光が迸り、辺り一帯を七色の光芒が包むのであった。


 警察と消防が公園に到着した時、その破壊の状況に驚かないものはいなかった。時ならぬ竜巻でも吹き抜けたかのようであったが、勿論そんなものは発生していない。その破壊の中心に、全身傷だらけの男がただ一人倒れていた。あまりに奇妙な光景だった。男は重傷を負っていたが、命に別条はないという。そしてさらに奇妙といえばいま一人、半裸の女が現場からそそくさと逃走していたのだが、幸いにというか不幸なことにというか、こちらを目撃した者はいなかった。


 都心から少し離れたところの私鉄の沿線、最寄り駅から十五分ほど歩いたところにある雑居ビルの五階にそれはあった。

 「グレッグ佐竹総合調査」というプレートの掲げられた扉がある。それを開けると十人分ほどの事務机の並んだあまり飾り気のないオフィスが見られた。土曜日であるためか社内は閑散としているが、唯一隅の方でPCに向かっている人影があった。ネクタイ姿の女性がモニターを見つめながら指を動かしている。傍らに青い紐のネックストラップ付きの名札がクシャクシャと纏めてあり、固い表情の彼女の正面写真と「久保田羽」の名前が見えた。少し離れた出窓の部分にはペット用のクッションが敷かれていて、その中でパンケーキ色の毛並みの子犬が体を丸くして眠っている。

 つばさはこの興信所に籍を置く調査員だった。興信所というものの業務内容といえば個人の素行調査、有り体に言うところの浮気調査であったり、企業が新規に採用を予定する社員の背景調査、などが一般的である。また企業自体も信用調査の対象となることもあった。無論、つばさもそのような業務に携わっているのだが、何しろ彼女は本来業務以外に時間を割かれるとこのある身の上だ。先日も突如として巷に現れた「鬼」を、妖怪魍魎の類の助力の元に成敗した、あるいは成敗させられたのである。そんな出来の悪いまんが日本昔ばなしのような奇怪事に関わっていれば当然のように生業の遅滞を引き起こし、畢竟、休日出勤などという禁忌の技に頼らざるを得なくなる。

 思えばあれが悪かった。あの雨の日に電柱のたもとで濡れた段ボール箱の中に入っていた与次郎にさえ仏心を出さなければ、今ごろはもう少し平穏な人生を送ることができていたのに違いない。まさか捨て犬かと思っていたものが文字通りの狐狸妖怪だったとは一体誰が気づけるだろうか。

 つばさはキーを叩く手を止めて窓の方を見やる。与次郎は薄ピンクのクッションに身を沈めて黄色い毛玉と化していた。まったく、毎回毎回人に無理難題を押し付けておいていい気なものである。特に結婚前の女に対して恥辱の極みのような行為を強いて何ら悪びれる事のないその態度に、その思考に腹が立つ。これなら「僕と契約して魔法少女になってよ」くらい言われた方がまだましというものだ。つばさはガックリと肩を落とすと思わずため息をついた。

 「つ・ば・さ・さぁ~ん」

 唐突につばさの背後から手が伸びて両脇の間からつばさの胸を鷲掴むと、パン生地を捏ね上げるような動作でねちっこく揉みしだいた。

 「ひゃああ!」

 飛び上がらんばかりの悲鳴が広い室内に響く。

 「つばささ~ん、土曜日なのにぃ、お仕事ですかぁ~」

 つばさの肩口から亜麻色の髪の頭がひょっこりと出た。その前面には少しばかり粘性のある笑顔が広がっている。

 「ち、千秋ちゃん!?」

 ようやく引き離して改めて見る。そこには近所の高校のブレザー姿の少女がいた。

 佐竹千秋。グレッグ佐竹総合調査の所長、佐竹グレッグ氏の娘だ。

 「千秋ちゃん、どうしてここに?」

 「部活の午前練が終わって通りかかったら、バイクがあるのを見かけてぇ」

 「見かけて」の部分で妙な品を作っている。いくら所長の娘だからといって気軽に親の職場に上がり込むものだろうかと思うが、生憎つばさは興信所の所長の娘に生まれ落ちたことはないのでそこの所は分からない。所長である佐竹氏も今ここにはいない。だがつばさは千秋の言葉の前の部分を反芻して何事かを気づくと急いだように時計を見た。

 PC画面の端の方でデジタル表示が午後一時十二分を示している。

 「いけない」

 弾かれたようにつばさは帰り支度を始める。窓の方で与次郎の耳のあたりを撫でていた千秋がそれに気づいた。

 「あっ、帰るんですか?じゃあどっか遊びいきましょうよ~」

 「ご、ごめんね、これから調査に出ないといけないから」

 と言った瞬間、つばさは自分の迂闊さを責めた。千秋に向かて「調査」なんて言葉を言ってしまったらどんな面倒なことになるか分からないからだ。

 案の定である。

 「私も行きた~い。行きたい行きたい。つばささん、一緒に行きましょ、ねね?」

 千秋は表情を輝かせて迫ってくる。連れて行ってください、ではなく一緒に行きましょと宣うところに引っ掛かるものがあるが、問題はその手前だ。つばさは前のめりの千秋を押しとどめて言う。

 「だめよ、仕事だもの」

 「ええ~、いいじゃないですかぁ~」

 千秋はくねくねと体を揺らしながら口を尖らせている。

 「このままだと私ひとりになっちゃいますよ~。この間も桜花公園の方で怪獣騒ぎがあったじゃないですかぁ。なんだか千秋恐い~、ひとり恐い~」

 ここまで一人で来たんじゃない、と思うが口には出さず、自動くねくね棒と化している千秋に少しづつ距離を開けて扉の方に向かう。

 「ごめんねー、また今度、ね?」

 「つばささん、時々仕事抜けてるらしいじゃないですか」

 ぎくりと、つばさは全身を硬直させた。なぜそれを千秋が知っているのか。

 「お父さんたまにぼやいてますよ、あいつは筋はいいのにサボり癖があるって」

 思わぬところで上司の勤務評価を聞いて、それも余り良くない評価を聞いて、つばさは肝の冷える思いをした。勿論つばさとしても好きでサボっている訳ではない。しかしまさか「鬼退治」してるんですなんて言えるわけもなく、どんな言い訳をしようかと思いあぐねていると、その狼狽ぶりを知ってかしらずか千秋がずいと寄せて来て言った。

 「だからお父さんに言ったんです私、きっとつばささんにはつばささんのやり方があるんだよって。つばささんみたいな素敵な人手放したら、絶対後悔するよって」

 キラキラとした瞳を近接させて力説している。彼女は「手放したら」と言った。つまり解雇・レイオフ・クビという事態を全く悪気なく煽っているのだが、現状ではそれはいくつかの段階をすっ飛ばした極論であって、つばさの勤務状況に正確に沿ったものではない。だが勤め人たるつばさにはその言葉には少なくない重みを感じる。

 ちなみに、その前の言葉にこそ千秋の気持ちが滲んでいるのだが、言われた方に自覚がなかった為にそこは流れてしまった。

 「お父さんは納得してました。いいえ!納得させました、私」

 片手の拳をぐっと握り込んで勇ましいポーズを作る千秋につばさは押され気味だ。

 「ね?邪魔しないから、ね?」

 揉み手をしながらそう迫ってくる女子高生に、つばさは抗えなかった。


 学生を、それも女学生を付き合わせたくなかった理由は別のところにもある。三ケ月ほど前からネット上でとある動画群が取引され出したのだ。それは更衣室内の女性の着替えを盗撮したもので、市内の衣料品店やデパートが犯行の現場と思しかった。当然警察にも被害は届けられ捜査も進められているのだが、警察の人的資源にも限りはある。被害者女性たちにしてみれば遅々として捜査が進まず、問い合わせてもなしのつぶてを浴びせてくる警察には失望を覚えること大であって、しびれを切らした彼女たちのうち怒りの収まらない者が興信所に犯人捜しの依頼を出した、というのが事の次第だ。

 勿論、それは千秋には告げられないことだ。性犯罪に関わる事だからという以前に依頼の秘密厳守の立場から言うわけにはいかない。

 「あーあ、もっと可愛い恰好してくば良かった~」

 つばさの横に並んで歩く千秋がつまらなそうに言う。つばさと千秋は市内最大手のデパートに向かっていた。まずは現場に足を運ぶ、というわけだ。グレッグ佐竹総合調査からの直行であり、着替えて来る~、と言った千秋を流石につばさは許さなかった。

 そのデパートは地上一階から三階までが女性服およびアクセサリーと化粧品売り場となっていた。休日の午後ともあって客足は多く、様々な人が商品を見たり買い求めたりしている。

 つばさはそのフロアを遺漏なく見て回った。盗撮の痕跡が未だに残っているとは思わなかったが、現場の有り様を実地で頭に入れておくのは重要だった。

 千秋は先ほどまでの不機嫌が嘘のように人気ブランドのコスメなどを眺めては目を輝かせており、すっかりウィンドウショッピングの気分のようだ。いつの間にかつばさの腕に取りすがっているあたり別の何かのつもりでいるのかもしれない。ちなみに与次郎も二人の後を途中まではとてとてと付いてきていたが、人間の生業に付き合うつもりはないと見えて、デパート入口のライオンの青銅像の背中にちょこんと乗ると、それを見つけた道行く人々から可愛がられていた。

 つばさと千秋が三階の一画に来ると、そこはランジェリー売り場となっていた。案に相違せず千秋はディスプレイされた色とりどりの下着を前にして、

 「あーこれ可愛い~」

 などとはしゃいでいる。するとそこへ妙齢の女性店員がすり寄ってきた。彼女は接客の経験を感じさせる柔和な笑顔を作りながら言う。

 「よろしければご試着なさいますか」

 「ええ、いいんですかぁ?」

 はい大丈夫ですよ、ホホ、とさすが手馴れた様子で店員は千秋の調子に合わせている。そんなようだからつばさの事も見逃さない。

 「こちらのお姉さまも、よろしければ是非」

 本当につばさと千秋を姉妹だと思っているのか、年の離れた女二人連れは親子か姉妹として扱うというのが接客マニュアルなのかは分からないが、店員はつばさの事を、お姉さまと言った。つばさは最初それが自分に向けられたのだと思わなかったので耳に入らず、店舗の様子などを見回していたのだが、やおら腕を掴まれると強引に引かれてゆく。

 「行こう、お姉ちゃん」

 そこに何故かやたらに嬉しそうな千秋がいた。だが、そんな千秋がはたと立ち止まって言う。

 「でもぉ、最近なんか盗撮みたいな事ありましたよねぇ、なんか恐いなぁ」

 つばさは心臓を掴まれたような感覚になった。調査内容に関わることを千秋が知っている。何か自分が重大な秘密をうっかり洩らしたのではないかと、目の前が暗くなる思いがする。

 「あら嫌ですねぇ、どこでそんな事を?」

 「ネットで言ってました」

 両方の肺から空気を全部吐き出すほどの安堵のため息をするつばさ。だが他の二人がそれに気づくことはない。

 「ホホ、そんな不届き者、もし居たとしても私が絶対見逃しません。うちに限ってそんなこと絶対にありません、ホホ」

 「あは、なんか頼もしー」

 「あ、でも不審物を見つけたら教えてくださいね、ホホ」

 「はーい」

 納得なのか丸め込まれたのか分からなかったが、千秋は意気揚々と試着室に向かってゆく。つばさもその後に続いていって試着室の外で待とうとしたのだが、カーテンの隙間から千秋の膨れた顔が見え、次に手が伸びて中に引き込まれた。

 もとより、店舗の試着室も調査するべきなのは分かっている。だが一介の興信所の所員というだけでは例えその一店舗だけだとしても全フロアのすべての試着室をつぶさに調べるというのは不可能だ。それに調べるのはそこだけではない。だから今回はあくまで下見がてらのつもりでデパートに出張ってみたのである。他に調査となると店舗の持つ監視カメラの映像だが、果たして店側が民間の調査会社に閲覧を許すかどうか、難しいところではある。後は犯人の足取りから行動半径を絞り込んでゆくという、足で稼ぐ仕事になってくるのだが、果たして。

 そこまで考えたところでつばさは千秋を見た。目の前に姿見が据えられている為に正面の姿と背中とが同時に見える。彼女は姿見に向かって前髪などを気にしているようだが、そんなでもどこか楽し気だ。一応、中をぐるり見回してみる。盗撮をするとすれば忘れ物に見せかけた残置のバッグにカメラを入れ込むとか、火災報知器に似せた小型カメラを置くなどが考えられそうだがそうした物はなかった。姿見を怪しんでみたがどうやらごく普通の鏡である。そもそもどこかの試着室に犯罪のための異常があるとして、たまたまその「あたり」を引くという事も考えにくい。そう思うと少しばかり徒労感が募った。

 シュルという衣擦れの音がして、千秋がブレザーの上着を脱いでいるのが分かった。続いてタイリボンを取り、ブラウスのボタンを一つずつ外してゆく。つばさはなんだか気恥ずかしくなり外に出ようとするが袖を引かれて止められた。

 「ああん、いいじゃないですか~、居てくださいよぅ。ていうか、つばささんもほぉらぁ」

 と言って千秋は自分も半脱ぎの状態からつばさのスーツを脱がせに掛かる。

 「わ、私はいいわよ!」

 「そんな事言わないでホラホラぁ~、こういうのケイヒで落ちるってお父さんも言ってたから」

 「ブ、ブラジャーは、落ちません」

 つばさと千秋がじゃれ合っている時、二人を試着室に送り出した女性店員は極めて自然な流れでバックヤードに入って行った。にこやかな接客用の表情はいつの間にか剥がれ落ちたように消えている。そして携帯を取り出すと冷たい声で、

 「二人行ったよ」

 と言った。

 デパートの地下駐車場、黒いワンボックスカーが止めてある。

 「おお!可愛い子キター」

 車内では無精ひげの男がノートPCを広げており、そのモニターを興奮気味に見ていた。その中の映像、背後をカーテンで仕切られた一畳ほどの場所に若い女性が二人で入っている。そのうちの先に入って来た方、亜麻色の髪の高校生くらいの少女は特に男の目を引いた。モニター越しでも少女の整った顔立ちは分かる。うしろのなんだか野暮ったいスーツ女はよくわからんが、こっちの子だけでも映像に収めれば、良い稼ぎになりそうだ、と男はこれまでの経験からそう思った。男はPCを操作して画面の録画を始める。モニター内の画面の枠に赤色のラインが加わり、リアルタイムの映像が記録され始めたことが分かった。

 実は盗撮の仕掛けは試着室の中に仕込まれていたのだ。壁にまさに針の穴ほどの極小の穴を開けて、その奥にこれもまた極小のレンズを置くのである。無論それだけではカメラの性能が足りずまともな画質の映像は得られない。だから壁に十数個の穴を開けて同じ数の極小レンズを設置する。一つ一つの解像度は低くても、複数のレンズから得られる映像を画像処理によって一つの像として合成するのだ。一つの覗き穴があまりに小さかったためにつばさでも気づかなかったのである。

 「ほぉらぁ~、つばささぁん」

 「ちょ、ちょっと本当に、いいから」

 試着室の中では千秋がつばさのワイシャツをテキパキと脱がせている。ボタンを裾の方から順に上へと外してゆき、上から二番目のボタンをやっつけた所でピンク色のブラジャーをぐい、とつばさに見せ、

 「ねぇ?」

 と言う。

 「な、何が」

 引きつった声でつばさが答える。心なしか千秋の目が爛々と輝いているように見える。鼻の穴も広がっているのではないか。

 「可愛いいじゃないですかぁ」

 千秋は指を昆虫の肢のように蠢かせながらつばさにすり寄ってくる。これを付けてみろと言うのだろうが、そういう色というかデザインというか、それが高校生ならではのセンスなのか千秋個人のそれなのかはわからないが、とにかくつばさにとっては派手過ぎるものだった。年上のはずのつばさの方が頬のあたりの体温が上がってしまう。というより、それ以前の所で問題があるはずだ。なんで私はここで下着を取り換えることを強いられているのか。プライバシーは?人権は?自由意志は?いずこにやあらん。

 しかし、少女は容赦しない。つばさをひん剥くべく指をその身体に這わせる。つばさは抵抗するが、十代の身体能力ゆえなのか千秋は巧みに体を入れ替えてそれを躱すと、ついに背中のホックを攻略するのだった。

 「絶対似合いますからぁ~」

 「いやぁぁ~」

 モニターの中の二人の揉み合いを無精ひげの男は憮然として見ている。良い絵が撮れない、つまりは期待した状況にならないことに苛立っていた。男が期待するのは高校生くらいの方がその裸身を晒すことであって、当然そうなるものだと思っていた。だが途中から少女は年かさの方と何やらやりあうばかりで一向に話が進まなくなった。ようやくおっぱいが拝めたがそれは年かさの野暮ったい方で、気が利かないとここの上ない。別に野暮ったい方が一人で脱ぐのならまだ「商品」として成立する。だが二人いて可愛い方が乳を見せないなんていうのは駄目だ、そんな動画が売れるわけがない。

 「何やってんだこいつら」

 男は呆れ気味に毒づくと、売り場にいる共犯の女に連絡を入れる。着替えを急かせと言うのだ。いかにも面倒そうな女の応答に男はさらに苛立つ。そうして再びモニターを見た男は不審に思った。画面が消えている。アプリの不調か無線回線の混雑か、男は手元であれこれ操作してみるがPCが回復する気配は全くない。おい何だよ、と声が出そうになった瞬間、暗転した画面に何かが写った気がした。人のような、何か子供のようだった。

 「夢黒旋」

 頭の後ろから声が響く。反射的に振り返る男。一瞬だけ、黒ずくめの少女の姿が見えた気がした。凍えるような冷たい風が男に吹き付ける。人間としての男の思考がそこで止まった。


 デパート全体が揺れたようだった。とっさにつばさは千秋を抱き寄せて壁際に体を寄せる。

 「地震?」

 千秋はそれだけ言って不安げに辺りを見回している。しかし最初の衝撃の後から続いているズシーン、ズシーンという振動は断続的で、地震とは違う揺れ方のようだった。その時、床の方でつばさの視界を横切る影があった。見ると子犬のような動物がトルソーの後ろで身を隠すようしている。千秋はそれに気づいていない。つばさはそれだけで事態を心得ると、千秋の肩に手を置いて言った。

 「千秋ちゃんここにいて、様子を見て来る」

 「えっ、やだ、一緒にいて」

 つばさの言葉に千秋はつばさの腕にすがって狼狽えている。血の気の引いた顔はわずかに震えていて、その大きな目には涙が浮かんでいた。そんな彼女を宥めるようにつばさは優しく言うのだった。

 「大丈夫、すぐ戻るから。約束する。絶対一人にしないから」

 「つばささん…」

 つばさが駆け出すのと、瞳を潤ませた千秋が目を閉じ顎を上げて口をすぼめるのは同時だった。与次郎がつばさに続く。

 「屋上よ!」

 「わかったのだ」


 デパート周囲は騒然となっていた。突如として地下駐車場の一か所が爆発したのだ。すわテロか戦争かと誰もが予感したそこに、一つの塊が現れた。それは象よりも大きなもので、立ち上がると人間の形をしているのが分かった。巨大な人間の男が昼日中の繁華街に突っ立っている。人々が驚きと困惑の中にいると不意に男が頭をガクンと落とした。そして再び頭を上げると右目のあたりを中心にして顔の半分ほどが不気味に変形し、何か直線的、というか機械的になった。元の右目があった部分から筒のようなものが伸びる。それは望遠鏡というよりハンディビデオカメラのレンズに近いものだった。

 男は徐に横を向く。そこには生命保険会社のビルがあり、男はそのフロアの一つを窓越しにを覗き込んだ。オフィスの一画らしいそこには一人の逃げ遅れた女性が恐怖に震えていた。男は保険会社の制服姿の女性をじっと見据えると顔の残っている部分をいやらしく綻ばせて、

 「ハチジュウニ、ゴジュウハチ、ハチジュウゴ」

 と言った。そうして男は焦点の合わない左目をギョロギョロと動かすと、

 「レック、REC、レェェック」

 と吠える。人々は困惑の度を深めるしかなかった。


 つばさと与次郎はデパートの屋上に出た。そこは芝生の敷かれた広場になっていて、別の区画にはフットサルコートなどもあるようだった。フェンスに沿って数十人の野次馬が群がっていて突然現れた怪物を見物していた。携帯を取り出して撮影しているのも一人や二人ではない。つばさもその怪物を見た。歪に変形した頭が薄気味悪い。

 「鬼なのだ」

 尻尾をビリビリと立てて与次郎が断言する。そして勢いを付けると高く飛んだ。

 「狐面招来」

 くるりと一回転して白い狐面に変化する。それがつばさにピタリと張り付き、両耳の鈴の音が半神半妖の大妖狐を呼び寄せるのだ。

 「わっ、早い」

 「もたもたできないのだ」

 「心の準備があるのよっ」

 つばさは野次馬の群れを見た。誰も彼もが鬼を注目している。今なら大妖狐が来てもいけるだろうか。空の一点が七色に光った。何処からともなく狐の鳴き声が響いてくる。そしてついに優雅に駆け降りてくる白狐の姿が見えた。

 「つばさ急ぐのだ」

 「んもう!今日は着たり脱いだり」

 つばさは物陰に入るとジャケットから袖を抜く。

 「だいたい何でそんな取りにくい物をいつも付けるのだ」

 脱ぎにくい、ではなく取りにくいと言うあたりにこの妖怪の人間に対する理解度がうかがい知れる。与次郎はつばさに常に裸でいろと言っているのだろうか。

 「探偵って言ったらこのスタイルなの!」

 「つばさはタンテーじゃないのだ、チョーサインなのだ」

 「気持ちの問題でしょ!」

 小生意気な事を言う与次郎を言い伏せると、つばさはワイシャツまですっかり脱ぎ去った。あとは野次馬の視野に入らない事を祈るだけだ。頭の上を大妖狐が飛び退ってゆく。

 つばさは走った。しゃりりりん、美しい鈴の音。その音を聞きつけた大妖狐が面白い物でも見つけたようにひときわ大きく飛んだ。

 「人狐合身」

 大妖狐の細長い口が開いて半裸の狐面女を飲み込む。大妖狐は再び伸びあがるように飛び上がった。

 右頭部がビデオカメラとなった鬼の前に、人の姿になった妖狐、すなわち人狐が降り立った。

 「大人しくしなさい、そこの人。両手を上げて、壁に手を付いて」

 つばさは鬼に人差し指を突き付けながらそう言う。

 「レック、REC、アップロードォ…」

 だがカメラ鬼は言葉が通じていないのか、そのような事を呻きながら人狐を見るともなく見ている。

 「こら、こっちの話を聞きなさい」

 なおもつばさが怒るとカメラ鬼は右目のカメラを上下に動かして人狐をねめつけた。その様はまるで舐め回すようだ。つばさはそれに不穏を感じる。

 「な、何?」

 「気を付けるのだ、何か狙ってるのだ」

 不気味に頭を動かしていたカメラ鬼は人狐に対抗するように指を差し返す。そして言った。

 「レック…ハチジュウヨン、ロクジュウ、ハチジュウハチ」

 「な…」

 唐突に指摘された言葉が、最初つばさには理解できなかった。二拍ほどおいて顔を真っ赤にしたつばさが手で胸を隠す。

 「な、なな…」

 その場にいた人々は胸を隠して内股でモジモジとする人狐を見て何を思ったのだろうか。

 「あんな呪詛は聞いたことがないのだ、一体何なのだ」

 「知らなくていい!」

 「レック、レェェック、アップローォォ」

 恍惚とした表情のカメラ鬼は喜びを表現しているようだった。

 「むう、不気味なやつなのだ、つばさ一気に片づけるのだ!」

 「わ、わかった」

 つばさは人差し指と中指でバツの字を作って額にかざす。

 「狐炎!」

 その掛け声とともに人狐の額から強力な火炎弾が生まれ、カメラ鬼を紅蓮の炎に包み込む、はずだった。

 ぽすん。

 という音がしたかと思うと線香花火のようなものがカメラ鬼に向かって飛び、その道の半ばで落ちて消えた。

 「レェック?」

 「え?なんで…」

 「何やってるのだ、マジメにやるのだ」

 「やってるわよ!だけど…」

 自分への攻撃が無力なものだと分かったのか、カメラ鬼はにへらぁと笑うとまた人狐にいやらしい視線を這わせながらにじり寄って来た。

 「REC…トーホク、シュッシン…ジョシコージョシダイシュッシン…」

 「えっ、ちょ…」

 狼狽えるつばさをいたぶるようにカメラ鬼は続ける。

 「ファーストキッス…クラスメート…ムリヤリ…」

 「な、何言ってるの!?」

 「ハジメテノ…ダイガ」

 「いーーやーーー!!」

 髪を逆立てたつばさがカメラ鬼に飛び掛かる。渾身の力でカメラ鬼を突き飛ばすとその体は某大手銀行のビルにぶつかって周囲を散々に破壊した。

 「こっ、このっ!もう許さない、狐炎!」

 あまりの羞恥に涙さえ浮かべたつばさが憤怒の表情で印を結ぶ。しかし人狐の額からは煙玉のようなものが出るだけだった。

 「んもう、何がどうなってるのよ…」

 つばさは困惑しきって天井の方を見上げるが、人狐がそれに答える様子はなかった。瓦礫の中からカメラ鬼がむくりと起き上がる。

 「レェック、レェェック」

 「あ、ああ…」

 つばさはすっかり自分が腰が引けるのを感じていた。

 「大妖狐はどうして力を貸してくれないのだ、なにが原因なのだ?」

 狐面となっている与次郎が呟く。カメラ鬼は顔の左側に変態的な笑みを浮かべて人狐を観察していた。

 「レェェック、サンマノハラワタ、ウマーイ…フクジンヅケヨリラッキョウ…ヤマヨリ、サト…」

 カメラ鬼は人弧の顔にカメラを近づけて接写で撮りまくっている。

 「やぁ…や、やめて…」

 その時与次郎が叫んだ。

 「わかったのだ!」

 「え?」

 「それなのだ!」

 「えっ…ええっ!?」

 与次郎が言う「それ」が何か最初分からなかったが、どうやらつばさの胸を覆っているピンク色の布地の事だと分かってつばさは驚きと困惑の混じった声を出した。デパートの試着室で千秋に強引に付けさせられたブラジャーである。

 「なんでそんなもの付けてるのだ?いつもの千二百円のはどうしたのだ」

 「なんであんたがそれ知ってるの!?てゆーか、どんな理屈なのよっ!!」

 大妖狐は神代の昔からこの世界にいる半神半妖の存在である。その気性は高貴でありながら気まぐれで、狡猾でありながら好奇心に富む。下界の騒ぎには面白半分で介入するが、人に使われるのは好まない。与次郎はあくまで妖狐族の助太刀を頼むという体裁でその力を拝借しているのだった。だから人間が大妖狐を使役しようと思えば顔を隠し、人の装いを捨ててその目を逸らす必要がある。当然人間界の物など身に付けていようものなら大妖狐の関心を惹くことはできないだろう。なお肌の色に近いブラやショーツだけならどうにか誤魔化せるらしい。

 「大妖狐はつばさを疑ってるのだ。妖狐族はそんなの付けないのだ」

 「妖怪と人間を一緒にしないで」

 つばさは困り果てた。いくら大妖狐が力を発揮してくれない原因が分かっても、これでは手の打ちようがない。他にどんな方法であいつを倒せばいいと言うのか。

 「これじゃあどうしようもないじゃない、一体どうしたらいいの…」

 「取るのだ」

 与次郎が冷静に言い放った。

 「え…、えぇっ!?」

 「そんなもの早く取って大妖狐の力を借りるのだ」

 「い、嫌よ!あいつに見られるじゃない!」

 つばさはカメラ鬼を指差して言う。

 「てか普通に嫌よ普通に!」

 だが与次郎も引かない。

 「大妖狐の力じゃないとあいつは倒せないのだ。それに人間だとバレたらつばさは取り殺されるかもしれないのだ」

 「うう…でも、嫌だ…」

 「やるのだつばさ!」

 カメラ鬼はレンズを接写させながら頭の上で手を叩き、レェック、レェックと言っている。興奮しているのだろうか。

 「フツカニイッカイ…デモタマーニ、イチニチイッカーイ…タマーニ……イチニチニカーーイ」

 フツッ。フロントホックが飛んだ。

 「レェーーーック!パラダーーイス!データーァ!アップローーードォ!!」

 「狐炎!!」

 人狐の面前に炎の玉が発生する。それは人狐の頭の二倍ほどに膨張したかと思うと一気にカメラ鬼を焼き、天を焦がすほどの巨大な火柱を作った。

 「オオオーー!!データーガァー!キエルゥゥゥゥゥ!!」

 凄まじい炎の中でカメラ鬼は断末魔の叫びを上げた。炎はカメラ鬼の姿が火炎の渦の中に消えるまで続き、その様子は遥か彼方からでも見ることができたという。

 自分の肩を抱いたつばさがぺたりと膝から落ちる。その足元にはピンク色の物がS字を描いてしなだれているのだった。

 「すごいのだ…これが大妖狐の本来の力なのだ…」

 「うう…恥ずかしい…」

 与次郎は素直に大妖狐の実力に感動しているようだった。

 「つばさ、次からこれでいくのだ」

 「絶対嫌!!」


 その日その街で突如巻き起こった怪獣出現の報に人々は震撼した。現れた二体の怪物とその妙な戦いのようなものを見た人も多く、口々にそれを伝えた。被害は大手デパートと周辺のビル群数棟。だが人的被害は一名を除いて軽症者が十数名という程度であり、報道機関が口を揃えて奇跡的だと言った。唯一の重傷者も三ケ月ほどの治療で全治は可能だということだった。

 つばさと千秋は無事に合流した。胸に取りすがっておいおいと泣く千秋を宥めるのにつばさはかなり苦労した。警察の現場検証が進められたが、意外なところで全く別の事実の究明に発展する。それが為に一か月後にはとある盗撮グループが検挙されるのだが、それがつばさの手柄にはなることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

La-rider シングルピース @single_peace

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ