第2話 ダーナ王国戦記
シグルド・ダムキナがその報に接した時、大地が崩壊したような感覚に陥った。視界が狭まり、人の声が遠くなって耳鳴りに変わる。
ダーナ王国のフロイヒ公カイルは、かねて王位継承で諍いのあった実兄でもある国王ラウナンに対し反乱を起こした。嚇怒した王は征伐の軍を差し向ける。その将の一人に選ばれたのがシグルドだった。この男は軍にあること二十年になる。家格はそれなりにあるとはいえ、叩き上げで将帥の座まで登ってきた生粋の軍人であった。
国王軍と公爵軍は王国東部フォモールの平原で対峙する。大軍の展開に不自由のない土地であり、この地が戦場に選ばれたのは両軍が決戦を望んだからに他ならない。
国王側は軍勢を三つに分けた。左軍と本軍、そして右軍であり、言葉の通りに三軍は横一列、本軍に比べて両脇の左右の軍はやや突出する形で配置された。シグルドが率いるのは右軍およそ三千。総勢は国王軍一万二千に対して公爵軍はおよそ八千であり、数の優位で国王軍有利と思われた。だが結果的にそれが油断を呼んだのかもしれない。
会戦が始まってすぐ、左軍が崩れた、という報告があった。
「何だと!」
シグルドは思わず大きな声を出したことに自分で驚いた。俄かに信じられぬことであった。だが悪い続報は次々舞い込み、左軍崩壊が確かな事と何人かの中級指揮官の戦死が知らされると事態の深刻さが浮き彫りとなった。
しばし呆然としたシグルドだったが、息を深く吐き、そして吸い込むとどうにか自己を回復する。ここで我を忘れ、周章狼狽するような男ならば一軍を預かる将などにはなれぬ。
シグルドは素早くまずは応急的な指示を飛ばし、差し当っての手当てを進めた。そして本軍にも伝令を走らせるが、進めと引け、回り込めと転進せよ、わずかな時間で相反する命令が錯綜して埒が明かない。本軍が正気を取り戻すまでは右軍を独自に指揮せねばならぬというとこだ。正気など最後まで戻らないかもしれないが。
何よりも貴重なのは時間だった。左軍が崩れたという事は国王軍の中枢たる本軍がその左の脇腹を敵に晒すことを意味する。おそらく敵はそこに殺到するだろう。だがそれは敵軍全体が右翼に偏重するという事でもある。つまり左翼の手薄を示すものであり、ここに逆攻撃を掛けて敵の動揺を誘い、もって味方に立て直しの時間を与えねばならない。軍の三分の一を失ってはもはや勝ち筋はない。が負け幅を小さくすることも将の責務のはずだ。
「さてしかし」
作戦の実行段階に思考が進んだところで、シグルドの口元が歪んだ。眉間が険しくなる。嘆息したくなるが私情を入れている場合ではない。
シグルドが伝令を飛ばすと、さして間もおかずに幕営に入った者がいた。小柄だが均整の取れた肢体。燃えるような赤い髪と、その身を包む白銀色の甲冑がいかにも目立つ、若い女だった。いつもながらシグルドの頬を引きつらせるのは腰から下の装いで、どうにか尻が隠れる短い布地の下から長い二本の足が素肌のままに突き出ている。
「見参叶って光栄ですわ、叔父上」
およそ急を告げる事態とはかけ離れた、優雅な物腰で女は挨拶する。その芝居がかった言いぐさもシグルドは気に入らない。だが女だてらに従軍を許したのは戦における彼女の才に見込むだけのものがあるからに他ならないのだ。
「よいかアイリーン」
シグルドは余計な言葉は飛ばし、手短に事態を説明する。アイリーンと呼ばれた女は飲み込み早くこの叔父の企図するところを理解すると、微笑をたたえて言った。
「つまりこちらの本営への攻撃に夢中になっている敵の、その横面を引っぱたいてこい、と仰るのですね」
シグルドは鷹揚にうなずく。そしてただ、行け、とだけ発した。それを見たアイリーンは満足げにフフ、と小さく声を出して笑う。
「行かぬか」
「仰せのままに」
柔らかい笑顔のまま、それだけの言葉を残してアイリーンは去ってゆく。彼女の気配が消えたところでシグルドは大きく息を吐いた。どうもあの姪は苦手だ、何を考えてるのか読み切れないところがある。勝気なところはシグルドの姉、つまりアイリーンにとっての母に似ているような気もする。ただ騎馬の指揮に応変の才があるのは認めるところだ、それも抜群の。まだ若いが、磨けばその将才は王国でも一、二を争うほどになるのでは、とすら思う。
「だがどうもな」
シグルドはそうひとりごちた。が今の彼には浪費できる時間はない。シグルドはすぐに新たな伝令を呼ぶと矢継ぎ早に指令を飛ばす。敗軍の将は多忙である。
直隷の騎兵二百五十。彼らとともにアイリーンは戦場を疾駆する。甲冑と同じ色の銀糸が縫い込まれた外套が激しくたなびき、馬蹄の轟きが鼓膜を震わせる。目指すは敵軍左翼、騎馬の機動力で痛撃を与えてその攻勢を緩めさせ、もって味方の壊乱を防ぐのである。例えそれができない場合でも、こちらが部隊の一つでも進出させれば相手はそれに対応せざるを得ず、その分敵の鋭鋒が分散されるというものであった。
眼前に土煙が沸き起こっている。その乱流を突き破るように、敵の騎馬が突進してきた。公爵軍の左翼が相対的に貧弱になる事に、彼ら自身が気づいていないわけではないという事だ。手薄になる陣容の手当として、彼らもまた騎兵を繰り出した。同質の暴力が真っ向からぶつかり合う。アイリーンは剣を抜き放って襲い掛かってきた騎兵の斬撃を受けた。金属を打ち鳴らす高音が響く。彼女を狙う敵の騎兵はなおも追いすがり、素早く馬首を巡らせると再び剣を振るった。太刀筋は速く、並みの者が受ければ首が宙を舞ったことだろう。女騎兵長は絶妙に手綱をさばくとほとんど半身の差でそれを躱す。敵手の実力を見誤った騎兵は大きく体勢を崩し、そこを白銀色の剣が横薙ぎに走る。血煙が上がり、騎兵は地に斃れた。それを見届けることもなく、アイリーンは馬を跳躍させる。赤髪の女騎兵長の進むところそれは公爵軍の兵にとって死の路となった。その白刃が煌めくたびに、確実に生者の時間を停止させられる者がいた。吹き上げる赤い奔流が赤い霧となり、青い空と黒い大地に溶け込んだ。
公爵軍左翼は災厄に晒されることになった。彼らが卵だとすればアイリーンの騎兵隊は赤熱した針であり、殻を貫いた針は中身の粘質の部分を散々に灼け爛れさせた。混乱が波紋のように広がり、集団としての軍は麻痺を起こしている。一時的にせよ敵の機能を停止に追い込んだのは小勢による急襲としてはこれ以上ない成功であった。
そしてそれは国王軍を指揮するシグルドにも伝わっていた。本軍を食い破ろうとする敵右翼の気勢が明らかに弱まっているのがわかる。シグルドは右軍に左前方に進むよう命じた。本軍の前に出てその盾となるべく動いたのだ。同時に本軍に対して撤退の指示を出す。それは正確には越権行為に当たるが、本軍の幕営が機能しているように見えない以上仕方のないことだった。どの程度まで伝わるか分からないが、右軍が規律を保っている限り、本軍は壊走しても構わない。仮にここで敵の全面的な攻撃に晒されれば右軍とてひとたまりもないが、おそらくそうはならないだろう。
やがて右軍が本軍に完全に覆いかぶさる段階になると本格的な撤退が始まった。兵士が一人、また一人と武器を捨てて逃げ走ってゆく。右軍自体もじりじりと退きつつ、後方のグラシュテン城に逃げ延びるように指示を飛ばす。退きながら戦い、退くと見せかけて時に攻勢に出る。そのたびに公爵軍は少なくない損害を出した。その進退は神業にも近く、シグルドという将の器量を十分に示すものだった。ただあまり早く退けない理由は別である。姪を小勢で出撃させた以上、その攻勢もそう長くは持つまい。彼女らを収容するまでは全面的に退くわけにはいかなかった。王国軍は死兵を繰り出すなどという言説が兵士に伝われば全軍の士気にかかわるのだ。負け戦を大負けにするか小負けに留めるかは兵士が士気は重要だ。そしておそらく、戦いはこれで終わらない。必ず再戦がある。それに備えるためには将兵が意気軒高でなければならない。さらに戦いとなれば必要な才覚がある。シグルドは撤退戦のさなか、あの赤髪の揺れるのを思い出していた。
「潮時か」
アイリーンは敵軍に痛打を与えた手ごたえを感じながらも、その限界も弁えていた。
「これ以上は馬が泡を吹く」
彼女の騎兵としての才がそう教えている。アイリーンは愛馬の腹を蹴って疾走させると、麾下の兵が付いてきているのを確認しながら大回りに馬首を転回させた。
おそらく叔父の指揮で撤退するとすれば退路はグラシュテン城あたりになるだろう。となれば彼女の使命は部下を生きて帰還させる事である。
「もう少し戦えれば良かったのだけれど」
戦風に紛れ込ませながらそううそぶく。彼女としてもこれが勝ち戦でないことはわかっている。だからあるいは乾坤一擲、もっと敵の奥地に切り込んで敵将の首を狙うという事を考えないでもない。しかし、それはおよそ生還の見込めない事であって、みすみす部下を死地に晒すことになる。それは彼女の沽券にかかわるし、彼女自身も死兵になるつもりはない。なによりあの叔父が許さないだろう。あの人は兵を無駄死にさせる事を常に畏れている。こちらからしたらじれったいくらいに。あれにもっと思い切りがあれば今頃一軍の将などではなく、国家の軍権を掌握する地位にあっただろうに。いや、むしろ宰相として政柄を執る姿の方がいっそお似合いかもれない。荘厳な宰相府で無数の書類にうずくまっているシグルドを想像してアイリーンはなんだか可笑しくなった。疾駆する馬上で笑いたくなる。帰り着いたらけし掛けてやろうかしら。
そんな時、ふと彼女の目に止まるものがあった。疾走する馬からみて右手前方、木立の連なる一画に何かがある。西に傾きかけた陽の光が反射して教えてくれているようだった。近づくにつれその異形の姿がわかる。それは鎧騎士を数倍に拡大したような、神話世界の巨人のような形をしていた。それが木々の間に身を隠すようにうずくまっている。
「あれは…ガングラン家の…」
そうつぶやいたところで、アイリーンはかっと目を見開いた。
「まさか!あれは」
アイリーンは手綱を引き、そちらの方へ馬を進める。開けた土地の終わったのを感じた馬がたじろいで足を緩めるが、構わずに林の中に分け入った。すると巨人の方でも彼女に気づいたようで、やおら立ち上がるとその大木のような腕をアイリーンに向けて振るってくる。なんとか手綱さばきでそれを躱すが、巻き起こった風で目を開けていられない。その間に巨人は跳躍した。あっという間に猛禽の舞う程の高さにまで飛びすさる。アイリーンは信じられないという眼差しで見送るしかない。そしてもはや何もない虚空を見つめて歯がみした。奥歯がギリ、と鳴った。
「ええい、公爵側の者どもは揃いも揃いおって!」
その時アイリーンは知らなかったが、逃げる巨人の中にあっても一人の男が毒づいていたのだ。
「野戦で決着を付けるのではなかったのか!それを取り逃してみすみす城に入れるなどと、これではこちらの面目が立たぬではないか!ああ、公爵になんと申し開きすればよいか…」
男は険しい表情のまま額に拳を当てるのだった。
結果から言えば、シグルドの巧みな撤退戦が奏功した。王国軍の大半をグラシュテン城に収容することができたのだった。城門まであとわずかという所まで退いた時、シグルドは地を蹴立てる騎兵の集団があるいう報告を受けた。それだけで彼は担いだ重い荷が、少なくとも一つはなくなったと思うことができた。兵に最後の力を振り絞らせて攻撃を仕掛けさせ、それに呼応して騎馬の一団がグラシュテン城に飛び込む。その先頭に白銀の甲冑があったのは言うまでもない事であって、そしてそれに成功するとようやく右軍の最後の部隊が城兵の援護を受けながら城門をくぐった。攻め手と城兵の小競り合いはその後も続いたが、陽が傾く段になってそれも止んだ。公爵軍側に本格的な攻城の軍備がなかったのはシグルドにとっては僥倖であった。
ただそれでも公爵軍は城を取り囲み、城攻めの構えを崩さなかった。糧道は塞がれ、グラシュテン城は孤立した。
負傷兵で溢れかえる城内で、シグルドはまず本軍の幕僚を集めねばならなかった。軍を再編成するに当たって命令系統の整理は絶対に必要であり、何よりも優先するべきことだった。その中で、本軍の主将たるモルド子爵が運ばれたという報告が入る。運ばれたという表現に期するものを感じて暗澹とした気分になるが、兵の手前では表情にも出せない。程なくしてシグルドは子爵の居室に通されることになった。
急遽設えられた部屋の、衝立で仕切られた寝台に、子爵は寝かされていた。暗い室内に灯された燭台の火が揺らめき、そのの姿を幽鬼のごとく浮かび上がらせている。額には脂汗が浮かび、腹に巻かれた包帯が痛々しい。
「浅手にござりますぞ、お気を確かに」
そう言うシグルドの言葉に子爵はようやく口角を上げる。
「フ…これが、浅手か…貴君は、医者にはなれぬな…」
「閣下…」
「まさか…まさかな、わしが十三あやつが十二で、先々代の王にお仕えして…それ以来の友じゃと思っておったのに…」
子爵は苦痛に顔を歪ませて、うわごとのような言葉を続ける。
「通じておったのだ…あの、ユーサー…、あの、大馬鹿者が、公爵と…」
シグルドは子爵がユーサーと呼ぶ幼名を体内で反芻するうちに、一人の貴族を想起した。
「ユーサー…、ル・フォール・ガングラン卿にございますか!?」
子爵は静かにうなずいて見せる。シグルドは胃の腑を掴まれたような感覚を覚えた。フロイヒ公爵の反乱以来、さまざまな貴族や諸侯の蠢動はあった。だがガングランほどの名のある者の離反はシグルドとて思いもよらぬことであった。
「ユーサーめが、公爵側に内応して…軍は、破れた…、きゃつめの、う、裏切りで…きゃつの…」
「閣下、どうかお気を確かに」
子爵の大きな手が彷徨い出て虚空を漂う。シグルドはそれを掴むと子爵に身を寄せた。荒い呼吸の間隙を突くように、子爵は言葉を滑り込ませる。
「そなたが…兵を、率いよ…シグルド・ダムキナ卿…必ずや、裏切り者を、討て…討って…くれ…」
はっと、息の詰まる思いがする。子爵の手に力が入っているのがわかった。
「はい。心得ました閣下。この非才が必ずや」
シグルドはそう短く返すのがやっとだった。
「そなたが…王国の…柱石に…社稷の臣に…なって…なれ…王…の…」
最期の声は小さくなり、シグルドには聞き取れなかった。子爵の瞳から光が消え、手から力が抜けていった。
忸怩とした思いが去来する。シグルドはしばし子爵の傍らにあったが、やがで何かを断ち切るようにして立ち上がる。室外に出ると子爵の直臣たちが待機していた。沈痛な面持ちの彼らに、入るがよい、とだけ告げてシグルドはその場を離れた。
自室とした一画に戻ると、白銀の甲冑が立っていた。灯火に照らされたそれはいくばくかは煤けたような色合いとなっているが、やはり赤い髪ともども目立つ。その容貌からは表情が消えていて、元々整った顔立ちゆえに非常に冷たい印象を受ける。
「どうなさるのです」
アイリーンは問うた。シグルドはすぐには答えずに木椅子にどかりと腰を下ろす。
「籠城なさいますか」
「援兵なぞ来んだろうよ、籠城は無駄だな」
「では」
「打って出るさ、裏切り者を始末せにゃならんしな」
「裏切り者?…ル・フォール・ガングラン」
「む、知っておるのか」
アイリーンは戦場で会敵した巨人について、シグルドに開陳した。
「ガングラン家が作っていたという新しい攻城兵器、それはそなたも知っていたか」
「それを手土産に、公爵側に奔ったと」
「うむ、まあそんなところか」
思うところを述べる姪に、シグルドは首肯してみせる。
「なんと浅ましいこと」
眉根一つ動かさずにアイリーンは冷たく言い放つ。彼女としては最大限の侮蔑を示したつもりだ。だがそこに何かに思い至ったようなシグルドが言葉を繋いだ。
「しかし妙なことだ。左軍にあって内応したのであれば真っ先に公爵の陣営に飛び込むか、もしくは公爵軍の一翼として戦うかなりするべきであろう。ガングランはそんな場所で何を悠長にしていたのだ」
「ですから、かねてより隠していた巨人を、公爵への手土産として引き出していたのではありませぬか」
「ううむ、しかしな…」
何かを考えこむ叔父をアイリーンは不審げに見下ろしている。
「ガングランはモルド子爵の旧友であったのだ…」
「友を裏切って敵に傅くなど、およそ人の所業ではありませぬ」
「いや、そんな思い切った行動にしては手際の悪いところがあるということさ…」
「叔父上…」
おもむろにシグルドは立ち上がった。たれかある、と呼びつける。そしてはせ参じた従僕に向かってこう命じたのだ。
城の武器庫、倉庫、食糧庫、兵舎、全てを臨検して何物かを探せ、と。
フロイヒ公爵の本営はグラシュテン城を見下ろす小高い丘に敷かれた。ここから見ると城に灯されれる炬火が浮かび上がって、夜空に舞う蛍のようにも見える。城下にも炬火は点在しており、それはこちら側の軍勢のものだった。城を十重二十重に取り囲み、というわけにはいかない。攻め手八千というのはあの規模の城にはいささか少なく、想定外の攻城戦には決め手に欠いていた。
もとより内応工作は順調に進んでいたはずであった。本来であればあの憎い兄王の軍を野戦において完膚なきまでに叩き潰し、しかる後に悠々とグラシュテン城に入れば良いはずであった。だがその策略は半ばで潰えた。たしかに国王軍は粉砕した。だがそれは部分的に、という話であって、大半の兵は取り逃がし、城への逃走を許してしまった。つまりは、勝ったが勝ちきれなかった、ということだ。公爵のまだ見ぬ勇将の奮戦があったからなのだが、公爵がその将を認識することはついになかった。
公爵はたっぷりと蓄えた黒い顎鬚をなでつつも渋い顔を崩さない。今回の会戦に国王の親征はなかった。だが公爵自身はこうして戦場にいる。何しろ反乱の当事者であり、将兵の信頼をつなぎ止めるにはこうして前線にある必要があった。この男はそういう弁えならある。長幼君臣の序列は無視していてもだ。そして将兵の信頼といえば、何より決定的な勝利こそが公爵の欲するものであって、眼下のグラシュテン城などは早々に降しておかねばならなかった。
公爵は不満げに大きく息を吐き出し、幕営の炬火が揺れた。居並ぶ将軍家臣らに強張ったような空気が広がってゆく。するとそこに一人の武将が謁見を求めて進み出た。公爵が顎鬚をなでる手を止める。
「此度は大義であったな、ル・フォール・ガングラン」
膝まづくガングランに対して公爵は労いの言葉を投げかける。だがそれは多分に温かみに欠けるものだった。
「はは、有りがたき幸せにござりまする。これよりはこのル・フォール、才覚小なりといえども閣下の御為、身命を賭してお仕え申し上げ奉りまする」
ガングランは恭しく跪拝するが、そこに注がれる周囲の目は冷たい。家臣の一人が一歩乗り出してガングランを詰問する。
「卿よ、そなた本日の戦において、将でありながら軍を離れたらしいな」
はっと顔を上げるガングラン。その顔にはわずかに焦りの表情があった。
「それは、それがしが持参いたしました「機甲兵」を公爵閣下にお届けせんと、万難を排して小勢にて駆けておった次第、決して己の責務を投げうったわけではございませぬ」
事実、既に公爵の陣営の一画には一機の機甲兵が小山のような巨体を屈めるようにして座しており、警備を命じられた兵たちに不気味がられていた。家臣はガングランの訴えには答えず、公爵に何事か耳打ちをしている。公爵は口を開く。その口調は無機質で乾燥したものだった。
「新たな攻城兵器とな、はてさて、まったくいかばかりの物か」
「は、我が手なる機甲兵は膂力脚力抜群、その地の踏みしめるところ数百の敵兵をなぎ倒し、剣を振るえば一軍を裁断し、槍を擲てばいかなる城壁をも穿ちまする」
「ほう…」
関心して見せる公爵だが、それは嘲りと皮肉の意味合いが強よく、ガングランに対する態度は次第に氷点下に下がってゆく。
「その機甲兵とやら、二台あるそうじゃの」
再びガングランが顔を上げた。面貌は蒼白となり、額には汗が滲んでいる。
「わしと兄を両天秤に掛けおったか」
「いえ!いえそのような事は決して!」
「浅薄者が浅知恵を巡らしおる」
「所詮、豆殻は豆にはなれぬ」
「賢臣二君に仕えず、恥ずべきかな」
左右の家臣がめいめいにガングランを嘲笑した。
「かような事はござりませぬ!ル・フォールの赤心、公爵閣下にお捧げ申し上げまする」
「ふん、この痴れ者めが!」
地に額を擦り付けんばかりのガングランを公爵は面罵した。公爵にすれば機甲兵云々などどうでもよく、小才じみた値踏みをされた事に腹が立ったのだ。畢竟、裏切り者のすることなどこの程度のことなのだ、虫唾が走る。
「引っ立てよ!」
「お待ちくださりませ!お待ちくださりませ閣下!」
腕を掴まれたガングランが必死に抗弁する。
「それがしに、それがしにグラシュテン攻略をお命じ下さりませ!それがしの機甲兵なれば、必ずや城を落として見せまする!」
そこまでガングランが吼えた時、公爵の眉がピクリと動いた。右手を軽く上げたのが合図であり、捕吏が縛めを解くとガングランは地にへたり込んだ。
シグルドは軍の再編成と並行しつつ、このグラシュテン城にあるであろう「ある物」について捜索を命じた。明朝からの戦闘の再開が予想される以上兵は休ませねばならず、大規模な動員はできなかったが、工兵と輜重兵から少数を選んでその任に当てた。急遽城内の見取り図を作らせ、それがあるであろう場所にあたりを付ける。姪の証言から類推できる大きさからすると、どこにでも安置できるようなものではないはずで、必然的に捜索範囲は絞られた。
月が南天にかかる頃、果たして不自然に土嚢の積まれた倉があるのが見つかった。シグルドが行ってみると既に土嚢の運び出しは始まっていて、炬火の下でもろ肌脱ぎの兵が列になって麻袋の受け渡しをしている。そして倉の半ばを過ぎて土嚢が取り払われた時、若い兵の一人が歓声とも悲鳴ともつかない叫び声を上げて飛び出してきた。
「かかか、顔!顔!でっけー顔がががが!」
シグルドの瞳が炯と光る。やはり、と思った。
となればそれで良い。ここにあるとわかっていれば十分である。シグルドは兵たちに謝辞を述べて解散させることにした。大きな欠伸をしながら引き上げてゆく彼らを見送って改めて振り返る。そこに松明を持って倉に入る者が見えた。赤い髪が揺れている。
「何故この城にあるとお判りになったのですか」
「まあ、勘だが。だが例えばこれが王都に隠してあったというのならば、やつも諦めて謀反を起こさなかったのではないか」
姪の後を追いつつ、シグルドは答える。
「二機とも公爵に引き渡すつもりだった?」
「そういう約束でもしていたのだろう、公爵にはな」
アイリーンは軽妙な動作で土嚢の坂をぴょんぴょんと上がってゆく。シグルドとしては追いつくのが少し大変である。
「おそらくだが、最後の最後まで踏ん切りが付かなかったのではないか」
滑り落ちたりしないよう、シグルドは一つ一つ慎重に踏みしめながら足を進める。
「陛下と公爵と、両方に体重を残したまま様子をうかがっていたら」
「血の気の多い公爵がいきなり反乱を起こしたものだからまあ大変」
「ふん、自業自得だ」
「でも、ここにある以上取り返さねばと思うのではないですか」
「だから奴は攻めて来る、仇が討てる」
安定の悪い土嚢を足で踏み固めていると、アイリーンが、あら、と言った。顔を上げると姪の尻と太ももが存外近くにあり、思わず足が滑って近場の麻袋にしがみついた。何とか取っ掛かりを探って立て直す。
ようやく姪と同じ目線に登りつめると、それはそこにあった。全身をよろった騎士をそのまま巨大にしたような、あるいは巨人が鎧をまとったような、その巨人の頭が土嚢の間から見ることができた。兜の前立ての部分に刻印されているのは紋章だろうか。紋章官を呼べば分かるのだろうが、おそらくガングラン家かル・フォール個人のものだろう。改めて見ると禍々しさすらあるその威容に引き込まれる。うずくまったまま眠っているかのような巨人が、今にも起き出して暴れ出すのではないかという想像が働いて肝が冷えた。それでなくても何か巨大な骸を見ているような気もして、良い気分にはなりようもない。
「叔父上」
不意にアイリーンが口を開いた。
「これ、私にくださいまし」
一瞬姪が何を言ったのか理解できなくて、シグルドは彼女の顔を無言で見入ることしかできなかった。
「私に賜りますようお願い申し上げます」
「幼子がままごと人形を欲しがるのとは、違うと思うが」
「そうではありません、ガングランは攻めて来るであろうと叔父上が仰ったのです」
「いかにも」
「ガングランは城攻めに巨人を使います、きっと。ならばこちらも対抗しなくては」
「そうではあるが…む!まさかそなた」
アイリーンの眼差しに不敵なものがある。
「や、いやだが、できるのか、いや…できるものなのか」
「これは生き物ではないのでしょう?であれば馬に乗るより難しいということはありますまい」
「しかし」
しかしと言ってその後に続ける言葉が出て来ない。姪の佇まいには有無を言わせぬ威厳があるように感じられたからだ。数瞬迷って、シグルドは観念したようにその場に座り込んだ。
「姉上の血かの」
「母上?」
「いや、やはり似ておる」
「あの気丈さには敵いませんよ、母の強情ぷりは岩くれのよう」
「フフ、左様か」
シグルドはおもむろに視線を向ける。肉付きのよい二本の棒がまた至近にあってそっぽを向く。咳払いをひとつ。
「兵が、いきり立つのではないか」
「あら、将兵の士気の高いのは良い事ではありませんか」
「そういうのとは種類が違うじゃろう」
そう言われたアイリーンは一拍置くと、ふと寂しげに視線を落とした。
「…熱いのです」
「熱い?」
シグルドは向き直る。姪のどこか遠い表情を見た。
「戦場は何千何万の人の気の密集するところです。熱いですよ。熱くて馬で風に当たっていなければ燃えてしまいそう」
アイリーンの話はシグルドには実感できない。将兵の士気の昂ぶりや落ち込みを感ずる時に「熱」と言っても、それはあくまで韻文的な表現であって現実とは違う。
ただ、戦場の理において、時に目に見えないものが働くことがあるというのは分かる。人の気の密集というものがあるとすれば、シグルドの知略の及ばぬところで何かが関わっているのやもしれぬ。
「これでも耐えているのですよ」
不意にアイリーンの声色に挑発的なものが混入した。腰の布地を両手で少しつまんでスル、とずり上げて見せる。
「本当は、全部脱いでしまいたいくらい、フフ」
シグルドはぎくりとした。太ももの付け根よりも上の方が見えたような気がしたからだ。呼吸を忘れ、それでも目が離せない。だがアイリーンは手を離し、ストンと布地は元の位置に戻った。
「嘘です」
「な…」
「嘘、ごめんあそばせ」
シグルドはしばらく腑抜けた顔をアイリーンに晒していた。嘘、という言葉自体が思考の外側からのものだったからだが、その次に、どの部分が、という疑問が頭の上を巡るのを追いかけていた為でもある。
だがやがて、そうしている自分がなんだか可笑しくなった。してやられたと思い、肩の力が抜けて笑みがこぼれる。この豪胆さなのだ。この姪の本性は獅子か大鳳であって、従順な家畜ではない。鎖に繋ぐべきではないのだ。
「よかろう、巨人はそなたに託す。但し、裏切り者のそっ首、必ず取って参れ」
「仰せのままに」
黎明、濃い霧がフォモール平原を覆った。その白濁の天幕を突き破るように、無数の矢が弧を描いてグラシュテン城に注がれる。同時に複数の角笛と銅鑼の音が響き、地鳴りのような兵士の怒号に大気が震えた。
攻め手の公爵軍は城を取り囲み、四方の城門に肉薄する。攻め手の陣営を見ると丸太が切り出されていて、それが数十人の兵士によって運ばれていた。再戦の準備を進めていたのは国王側だけではなかったのだ。前進する丸太に向けて城兵側から雨のように矢が放たれる。攻め手が何を企図しているかは明らかだ。公爵軍の兵は木盾を天に構えながらそれを防ぐ。城門に取りつくと勢いを付けて城門に叩きつけた。
轟音をたてて門が軋み、太い閂に亀裂が走る。対抗する城兵らは矢に油を染みこませると、火を付けて次々に打ち放した。攻め手のうち不運な何人かは服に火が燃え移り、悲鳴を上げながらのたうち回わる。さらに油をそのまま投げおろし、そこに火矢が打ち込まれてあたりを燃え上がらせた。火が丸太に移る段になっては急ごしらえの破城槌ももはや薪と変わらず、ぶすぶすと鈍く燃えるだけだ。決め手の兵器を失った兵は弓矢の餌食となるしかった。矢を突き立てられた者が次々に倒れてゆく。どうにか矢じりの雨をかいくぐった者は城門から退いていった。
逃げてゆく公爵軍の兵を見て、城兵からにわかに快哉が上がる。だが喜び合う兵士たちの身にふと影が差した。ふいに日が翳り、兵士たちは何事かと空を見上げた。すると太陽の中に黒い点が見える。黒い点は瞬く間に拡大し、風を切り裂きながら地上へと落下した。激震が広がり、幾人もの兵士が吹き飛ばされた。黒い塊は立ち上がり、見上げるばかりの鉄騎士となって威容を誇示する。その巨躯に人々は驚愕し、我を失って立ち尽くすのだった。
巨人は腕を振り上げると、その鉄の拳を物見櫓の一つに叩きつける。その一撃だけで櫓は詰めていた城兵もろとも完全に粉砕された。続けて巨人は剣を抜く。幅広の曲刀は陽光を受けて閃き、巨人がそれを翻すと石造りの城壁を砕いた。衝撃とともに砕けた石が地を転がる。その強力は圧倒的で、城の防御はたった一機の鉄巨人に破られつつあった。
「ククク、この力よ。この力こそ私が作り上げたのだ」
巨人の腹の中でガングランが呻く。
「今に見ておれよ、公爵に頭を下げるなどは、ひと時のこと」
曲刀を旋回させると城壁はさらに崩れる。狼狽する城兵の様子が巨人の中からでも分かった。ガングランにとっては機甲兵の力を見せつけることは重要で、差し当って公爵に首を垂れるにしても、公爵にガングランと彼の機甲兵の実力と価値を判らせ、己の地歩を確保する必要があると考えていた。
「だがいずれは、公爵だろうが、モルドのおいぼれだろうが、国王すらも!私が跪かせるのだ」
ガングランは崩壊した壁を強引に押し分けて城の中庭へと進み出た。城兵が群がり、次々と矢を放ってくる。
「ええい、邪魔だ」
巨人は再び剣を翻し、草を薙ぐように振るった。巻き起こった衝撃で木っ端のように弾かれる城兵。躍動する巨人に比して生身の人間はあまりに微力であった。
「ファテータは、どこだ」
ガングランはもう一機の機甲兵を気にした。あの傲慢な公爵の鼻先にぶら下げてやる餌にしては上等に過ぎるが、それで今からでも奴らを見返すことができるのならそれで構わん。余計な手間ばかり掛かった。惜しくはないと言えば嘘になるが、機甲兵の一機や二機ぐらいいつでもくれてやる。
「私は今以上の物を生み出せる」
ガングランは目に付いた物を破壊しつつ、城内を見回す。そして一つの倉を見定めると巨人を跳躍させた。周囲を踏み潰しながら徘徊する。果たして割れた壁の向こうによく見知った鉄騎士の姿を見た。
「ファテータ」
ガングランの口元が緩む。鉄の腕が伸び、それを捉えようとしたその時だった。危機を感じたガングランが巨人を引き退かせる。
白銀の閃光。巨人の肩口をかすめて刃が閃いた。
「ぐ…」
巨人が揺さぶられ、ガングランがくぐもった声を上げる。思いもよらない攻撃に狼狽し、何だ、と口にした。
倉が内側から崩れてもう一つの巨人が立ち上がった。それは既に長剣を抜き放っていて、今は中段に構えている。肩と兜の一部が白銀色に染め抜かれており、よく見ると前立てにあったガングランの紋章が潰されているのがわかる。ガングランは目を見開いた。彼の求めたもう一機の機甲兵が起動状態にあり、あまつさえそれに攻撃されたとは。
「何故だ、何故ファテータが動いている」
彼の驚愕はしかし、にわかに怒りに変わった。彼の手になる一品が、その価値も知らぬ者どもに汚されているように感じたのだ。
「おのれ雑兵どもめ、許さんぞ。私の機甲兵を土足で踏み荒らしおって、その罪、命で贖わせてくれる」
ガングランは曲刀を振りかぶり、彼がファテータと呼んだ巨人に切か掛かった。できれば操縦者のみを屠りたいところだが、ひとたび敵の手に落ちた機甲兵ならば己の手で破壊するのもやむを得まい。そう考える程に、彼の怒気は膨張していたのだ。
「私よりもうまく扱えるものかよ!」
振り下ろされる曲刀をファテータの剣が受ける。二合、三合と切り結び、周囲を切り倒しながらガングランは斬撃を繰り出す。そのたびにファテータは美麗な太刀捌きを見せて攻撃を弾き返す。その動きは機敏であり、ファテータが動くたびに陽光が白銀の塗装を煌めかせた。
「なんたる淫蕩な出で立ちか、私の業を玩弄するか」
かっと怒ったガングランが尚も切り掛かる。ガキリと金属音をたてて鍔を競り合う。そのままギリギリと力比べに持ち込むのだった。
「よし、捉えているな」
シグルドはやや離れたところで二体の巨人の戦いを見ていた。今彼は一軍を率いており、彼にしては珍しいことに馬上にある。向き直ると居並ぶ将兵に訴えた。
「目指すは公爵が本営!城の攻め手は捨て置け!よいな!」
おおー、と鬨の声が上がる。
「門を開けよ!」
ひと際大きな声でシグルドが叫んだ。正門が開け放たれると同時に国王軍の騎馬が一直線に飛び出して行く。蹴立てる土煙が奔流となり、人いきれを含んで戦塵となった。
国王軍接近の報を受けた時、公爵はしめた、と思った。存外敵が愚かであったことに笑う。大方あの巨大な物に城を破られ、追い詰められて一か八かの賭けに出たのだろう。だがそれこそ必敗の路である。こちらは高所に陣取っていて敵を見下ろすことができる。一方敵は駆け上がりながら攻めねばならぬ。打ち下ろすと打ち上げるでは弓矢の威力にも数段の違いが出る。まさに地の利を得たこちらにこそ百戦百勝の道理があるのだ。公爵は各将にどっしりと構えて鋭鋒を防ぎ、敵が疲れるのを待つよう命じた。時を掛けて戦えばさほど労せずして勝利を得ることができる。
公爵は顎鬚をなでつつ、しかし、と思った。何と言ったかあの巨大な物、思ったよりも使いではあるのやも知れぬ。何にせよ兄王と武を競うに戦力が増えるのは結構なことである。あのガングランという男も死一等を免じてやったことで我が軍門に降った。よき猟犬として働けばそれで良しだ。犬には犬の、馬には馬の働きどころがあり、それを差配してやるのが上の者の責務である。全く、
「苦労よの」
公爵はそう呟いた。
半ば破壊された城の中で巨人同士が斬り合っていた。大いなる鉄腕から繰り出される斬撃は凄まじく、二体の躍動に大地が動揺した。ガングランは巨大な曲刀を旋回させると勢いを付けてファテータを袈裟斬りに打ち込む。ファテータは長剣を水平に構えて雷のような太刀筋を受けた。ガキンという衝撃音が迸り、その圧力に押し出された空気が暴風となって周囲を舐めつくす。簡単な作りの鶏小屋などはそれだけで消し飛ぶほどであった。
上段を得たガングランはそのままファテータを潰すように剣を押し下げる。ファテータも長剣を両手で握り込んでそれに耐えていた。嚙み合った刀身がギリギリと擦れあい、オレンジ色の火花が散る。
「死ねよやあ!」
ガングランが巨人の腹の中から叫んだ。二体の巨人の力の均衡点がじりじりと
押されて下がってゆく。曲刀の刃先がファテータの首筋に触れた。このまま力を入れ続ければ確実にファテータの身体にガングランの得物が食い込む。
次の瞬間、ファテータが沈んだ。膝を折って踵を滑らせる。ガングランの脇をすり抜けるようにして体を入れ替えることに成功したのだ。
ガングランは猪口才な、と毒づいた。素早く切っ先をファテータに向けると雷光の如き速さで突き出す。ファテータは見事な足捌きを使って半身の差でそれを躱すと、逆に横なぎに剣を振るってガングランに迫った。
「舐めるなぁっ」
ガングランは下段から刀を振り上げ、ファテータの剣を跳ね上げた。長剣はファテータの手を離れ、空中で何度も回転して地面に突き刺さる。得物を失ったファテータはなおも間合いを探っているようだったが、ガングランにはそれが小賢しいあがきに思えた。曲刀を閃かせてファテータを城壁まで追い詰める。背中の空間が無くなり、その進退が極まったかに見える。兄弟機ともいえる二体の機甲兵の片方が、もう片方の命脈を断とうとしていた。
「悪く思うなよファテータ、例え腕や足の一本になろうとも、公爵には良い土産となろう。敵に汚されたお主でも、それくらいは私の役に立ってもらうぞ」
ガングランはそうひとりごつと曲刀を振りかぶる。裂帛の気合。上段からファテータの頭部を狙う。刃という物体が死という概念と同化し、それが今まさに指呼の距離にあった。
ファテータは後ろ手に城壁を叩いた。轟音とともに石造りの壁が崩れる。礫石が弾け飛び、ガングランとファテータの間に降り注いだ。一瞬視界を塞がれるガングラン。石くれの雨の間からファテータの鉄腕が伸び、ガングランが操る機甲兵の顎を打った。激震とともに大きくのけぞる。
おのれ、とガングランは叫んだ。だが再び前方を見止めた時、そこに弟機の姿はなかったのだ。身を翻す。ガングランは長剣を手にしたファテータを見た。
弟の白刃が兄の胴を穿ち、固い装甲を貫く。巨大な刃はガングランの右半身を押し潰した。砕けた装甲板が不快な音を立てて剥がれ落ちる。瀕死のガングランの肉眼に彼が英知を注いで作り上げた機甲兵の姿が映った。白銀色に染め抜かれた部分が光を放っているようだった。
不意に、ファテータの搭乗扉が開く。中から出てきた人物を見てガングランは驚愕した。女だったからだ。女はガングランの傍まで来て立ち尽くす。赤い髪が額に張り付き、そこから玉の汗を流している。ふらふらとして苦しそうだった。
「モルド子爵は、それはご立派な、最期だったと、伺いました」
女は大きく息をしながらガングランを見据えて、そんな事を言った。死につつあるガングランには最初それが分からなかったが、やや間を開けて事実を飲み込むと乾いた笑いを零すのだった。
「はは、ははは、そうか…死によったか…目障りじゃったのだ…いつもいつも…あ、兄貴面しおって、私が、かような、工兵…工兵紛いの道に追いやられたのも、奴がおったから…奴さえおらなんだら、騎士の本道は…私が…」
口から大量の血を吐きつつ、ガングランは笑い続けた。
「浅ましい、御方だ」
アイリーンは言う。苦し気な表情はどこか虚ろでもある。
「だ、だまれ…だまれ小娘が」
アイリーンは短刀を手にしていた。切っ先をガングランに向ける。が、すぐに手をだらりと下げてしまう。
「熱い」
と呟いた。それは熱病に浮かされた人のもののようでもあった。
「この巨人は、人の気を集めるものです。これは、いけない。いけないものです」
今度こそ、ガングランには理解できない言葉だった。しかしそれを通釈する時間は彼には残っていない。
アイリーンはもう一度、熱い、と言うと短刀を自分に向けた。衣服を切り裂き、その結び目を断ち切る。裸身を晒したアイリーンに平原からの風が吹き抜けていった。
「なんと淫奔な…」
充血しきった目を忌々しく引きつらせながらガングランは言った。
「薄汚い身体で…わ、私の、機甲兵に、触るな…淫売めが…うぐ」
アイリーンの短刀がガングランの喉笛に差し込まれる。ガングランはなおも何かを言おうとしていたようだったが、ごぼごぼとした呼吸音が、彼の生命活動の最期のものであった。
大きく息を吐いてアイリーンは膝を付いた。戦場の風は彼女を冷ますにはぬる過ぎたのだ。
国王軍は公爵軍が陣取る丘陵に駆け上がり、そこで刃を交えた。シグルドも自ら剣を振るい兵士を鼓舞した。国王軍の気勢は鋭く、一時は公爵の本陣に迫るほどであった。公爵はその勢いを意外に思いつつ、弓兵に命じ敵の前衛に攻撃を集中させるよううにする。幾百もの矢が国王軍に放たれ、体に矢羽根を突き立てられた者が相次いで倒れた。国王軍の前進が停止し、膠着して乱戦の様相を呈する。
ここに至って公爵は必勝の戦機を確信し、全軍に前進を命じた。銅鑼の音の号令一下、公爵軍が丘を降り始める。それは雪ならざる雪崩であり、迂闊に飲み込まれれば生きて脱出することなど到底望めぬものであった。突進する兵士たちも自分たちの勝ちは決まったように思えただろう。彼らが進むところ敵が次々に蹴散らされてゆく。山登りに疲れ切った敵は弱かった。このまま進むだけで敵の撃滅が叶う。その熱狂が彼らの足をさらに速くするのだった。
公爵軍の前衛が何度目かの敵中突破に成功し、彼らに抗う王国軍の兵を斬り伏せた時、何人の者が事態の奇妙さに気づいただろうか。いつの間にか目の前の敵は消え失せ、無人の荒野を進むが如くの有様となっていた。戦うべき敵を見失った彼らが進む道を迷っていると、後方で怒声と悲鳴の混ざりあった声が聞こえてきた。それは山降ろしの風となって吹き渡り、彼らに混乱と動揺をもたらした。
公爵軍の後詰は突然後背を突かれて乱れた。前進するべきか回頭するべきか迷っている間に互いの連携が断たれ、各所で討たれていった。恐慌に陥った彼らの目に、ダーナ王国軍旗の翻る様が写る。彼らは恐怖の中、その旗の無い方へ無い方へと追われていった。
公爵が機を見て突撃を仕掛けてくるであろうことはシグルドの予期するところであった。彼はそれに呼応して軍を左右に分けたのである。公爵軍は消滅した国王軍の中央部分に突貫し、討つべき敵を欠いたままいたずらに前進を続けた。
「進みたがっておる者には進ませてやれば良い、勝ちたがっておる者には勝たせてやれば良い」
シグルドは諸将にそう訓示していた。軍の在り方には少なからず司令官の個性が映し出されるものであり、勝ち急ぎたい公爵の心理をシグルドは逆手にとったのだ。
シグルドは左右に分割した軍のうち、右半の隊には左に円を描いて回頭させ、左半の隊には右に回頭させた。それは公爵の軍を後方から半包囲下に置くもので、その精緻な部隊運用は見事なものであった。壊乱状態に陥った公爵軍は組織的な抵抗力を失い、逃げ惑う彼らは国王軍の兵に斬られ、折り重なって地に伏すばかりであった。
シグルドはしかし、包囲円を狭めることには慎重であった。このまま包囲を完成させて公爵軍を閉じ込めれば、十のうち九は屠れるだろう。だが進退の極まった兵が死兵と化し、予想外の力戦でこちらを道連れにするかもしれない。何よりこれは内戦であり、敵兵もまた領民である。彼らをして平原を埋め尽くす骸と成す事はシグルドの望むところではなかった。
シグルドは頃合いを測って、フロイヒ公爵領の方角にのみ包囲を解く命令を出した。退路を与えられた兵士は我先にと逃げ去ってゆく。グラシュテン城包囲に残存していた兵もそれは同じで、彼らも本隊の壊滅を知ると散り散りになって逃走を始めた。果たして太陽が南中に差し掛かる頃にはフォモールの平原から公爵軍は一掃されることになったのである。
シグルドは軍の撤収を進めつつ、公爵の死体を探させた。だがそれと思しきものはついに見つからなかった。反乱軍は壊滅させたが、反乱の首魁を仕留めることには失敗したということだ。
これが何を意味することになるのか、シグルドは想念を巡らせようとして、止めた。自分は軍人であり、これから先の事を決めるのは王都の大貴族と官僚たちだ。であれば、差し当っての任務は終わったのであり、少しばかり骨を休めたいと思った。
馬上の彼は気まぐれに駆けようとして、馬の腹を蹴った。風を感じてみたかった。
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