La-rider

シングルピース

第1話 海から来るもの

 海岸に続く長い道の先に記憶にある薄緑色の外壁のガレージが見えて、早乙女梨花は大きく息をついた。ようやく着いたと思ったのだ。帰省の為に都心から電車を乗り継いだのだが、目的地の「三ノ岬」まであと2駅というところで四両編成の東都江南ライン、縮めて東江線が止まった。

 いわゆる群発地震というものだ。梨花自身は走行中の車内にあってあまり実感できなかったが、公共交通機関が緊急に停車するのにはもっともな理由だろう。

 憮然として長椅子の端にいた梨花だが、20分経って運転再開のめどが立たないのを見て、歩くことに決めた。意気揚々と決めたのは良かったのだが、都心と郊外とでの駅の間隔の違いを甘く見た。たっぷり30分、燃えるようなアスファルトの上で両の足を動かすことになった。暑い。ホットパンツに意味の通らない英文のプリントされたTシャツ、価値のまるで分らない欧州の野球クラブのキャップという、耐熱性のコスパには優れた格好ではあったのだが、別にウォーキングは趣味じゃない。暑い。堤防の向こうの海は彼方まで良く見えて綺麗だったが、まとわりつく浜風は不愉快ですらあった。やっぱり、とにかく、ろくでもなく暑い。


 「早乙女研球所」

 ようやく人心地ついて、2年前と変わらない壁面看板が少々煤けているのが見えた。ただの海沿いの古いガレージハウスに対してどうみても大層かつ奇妙すぎる名前なのだが、梨花にはそれがなんとなく馴染んでいるように感じられる。うっすらとした記憶の中でそう思えるのだ。梨花がこの家にいたのは小学校に上がる前の1年足らずであった。両親を事故で亡くし、兄ともども祖父の住むこの家に引き取られたのだ。だが就学と同時に学校近くの別の親戚の元に身を寄せることになり、大学に進むと同時に独り立ちした。

 そして梨花が大学に入ってすぐ、祖父が亡くなった。葬儀の手伝いをする間は何かの感情に浸ってはいられなかったが、大きくなって再訪した家に優しかった祖父がいないというのは後からじわじわ梨花の胸を締め付けたものだ。だがそれも2年前の事で、時間の癒しというもを実感するには十分だった。


 海は2年前も今も変わらず雄大で、陽光を反射して無数の宝石を転がしたかように煌めいている。ここからは波の音はわずかに聞こえる程度だが、むしろうるさすぎないのは良いように思えた。

 家の正面に回ってみる。しかし人の気配がしない。嫌な予感がして扉に立ってチャイムを鳴らす。2回繰り返したが応答はない。一縷の望みで扉に手を掛けてみるが家人の防犯意識が標準的であることを確認しただけだった。ガクっと肩を落とす。今日は何かツイてない。携帯があれば連絡の取りようもあるが、先週突然愛機の電源が入らなくなった。修理に出す間の代替機を頼んでみたものの、この帰省に重なって未だ受け取ることができないでいる。

 仕方がないので家を一巡りしてみて、大きなガレージの方に回ってみることにした。留守だというのにこちらは堂々と開放されていて、その感覚がよくわからない。盗むに値するものはないと見切っているのだろうか。それを決めるのは盗まれる側ではないと思うのだが。見ると広さだけは贅沢で、SUVが三台は置けそうなスペースがあった。しかしそこにはかなり使い込まれた、という表現を超えてくたびれきった軽四が一台静かに佇んでいるだけで、質と量において空間の浪費が甚だしい。さして面白くもないだろうなと思って覗いてみたが、やはりさして面白くもない。思わず地下にMSが隠してあるとぐらい言ってくださいよとつぶやこうとして、何の話の事だったか思い出せなくて止めた。

 そして振り返ろうとした時に、ふと奥の方、影になっている所に目が行った。それは周囲の背景として完全に溶け込んでいて、それと意識しなければ瞳に映っていてもあると認識できないようなものだった。だが記憶が揺らめく。祖父との遠い記憶。丁寧に幌が掛けられたそれは煤と埃に沈んでいるが、一旦気にしてしまえばその不釣り合いな程の大きさが分かる。一番奥の壁にピッタリくっつくようにして置かれているが場合によってはオンボロ軽四より大きいのかもしれない。気が付くと梨花はその前に立っていた。少し見上げるくらいだが、それでも巨躯である。幌は経年を感じさせる汚れと埃が堆積していて、すっと触ると指先が黒ずんだ。いつからあるのだろう。梨花と兄がこの家に来た時にはあった。あったと思う。祖父の葬儀の時もここに鎮座していたに違いない。幼少の自分が重なる。そして元気な頃の祖父も。これもこんな倉庫の肥やしのような状態ではなく、もっと活動があった。祖父は何をしていたのだろうか。近寄るなと叱られた思い出はある。だがそれもひどい折檻というのではない。祖父はどこか楽し気であったようにも思う。何か、誇っていたというか、自信があったというか。

 両足が痺れた。それが痺れではなく、大地の振動であると分かるのに少しの間があった。梨花は身構える。細かくて長い揺れだ。最悪の想像をして屋外に出るべきかと思うのだが、地面の不確かさに足が動かない。数メートル先のシャッターの向こう側が遠い。さらにその先の青い大洋が霞んでいる。梨花は巨躯の物体を見上げる。幌を被ったそれに一瞬、祖父の顔が浮かんだ気がした。笑っていたように思う。だからでもないのだろうが梨花の悲観は外れ、地震はさほど大きくもならず数秒後には消えた。ほっ、と詰まっていた肺がまた動き出す。

 「ぐわわわ!」

 突然玄関の方で大きな声が聞こえて、急いで足を向ける。すると扉の前で黒いジャージの男が倒れていたので梨花は驚いた。男の横には大きな袋が広がっていて、食料品だろうか、雑多なものが乱雑にばら撒かれている。男は倒れた姿勢である方向に手を伸ばしており、その先を目で追うと何か、金属の筒が転がっている。筒は全体的に金色で、大きな鯛と釣り竿を抱えた福福しい老人がデザインされているものであり、それが一か所で裂けてひしゃげて、中身の液体が泡とともに地面に漏れ出していた。男の悲劇的な横顔が見える。

 「お兄ちゃん?」

 「あ?ああ?り、梨花ぁ!?」

 いきなりあらぬ方向から呼びかけて、男は弾かれたように居直った。何とも言えず同情するような表情の梨花に梨花の兄、早乙女岳も苦笑いを浮かべるしかない。


 「悪かったな、締め出しちまって。今日だったか」

 言ってくれれば迎えに行ったのにと続けて、岳は梨花を迎え入れた。散乱した品物のうち、綺麗な物は冷蔵庫に放り込んで行く。潰れた缶はあえなく分別ゴミ行きとなった。冷蔵庫の貧弱な状況からしても、岳もここに常在しているわけではないのだという。一足早く社会人になった岳だったが、さすがにこの家を相続する経済的な自力はなかった。親戚の中でも余裕のある者がいて、築は古いが立地の良さを見込んでいずれペンションか民宿に改造する腹積もりを決めたらしく、そちらに渡ってしまったのだ。それまでの管理を任されて、岳は月に一度ほどをここで過ごすのだという。どおりで帰省に際して日時の指定が細かかったはずだ。しかしその日にちをうっかり忘れていたというのは鷹揚というか呑気というか、妹としては小一時間問い詰めいたいところではある。

 梨花は洋タンスの上に飾られた祖父の写真に静かに手を合わせた。三回忌の法要なんていう儀式めいたものではないにせよ、梨花にとって慈父であり好々爺であった人に対しては自然と頭が低くなる。

 「どうなんだ大学のほうは」

 麦茶の2ℓペットボトルとグラスを梨花の傍らに残して、岳はまたキッチンの方に戻っていった。

 「まあ大丈夫だよ、そこそこやってる」

 梨花は褐色の液体を注ぎつつ大まかな答え方をした。この冷たさは今買ってきたものではないようだ。

 「まさかお前が工学に進むとはなぁ」

 ここ数年会うたびに聞かされてきた言葉を、兄はまた繰り返す。

 「今は女子でも結構やってるんだよ」

 「そりゃあそうだろうけどさ」

 「どうせどこに行ったって奨学金は返さなきゃいけないし、それにはさ」

 「手に職か」

 そうそうと麦茶を飲みながら梨花が答える。

 「そうか…。ああ!」

 不意に岳は不敵な顔をひょこっと出した。鼻息がここまで届きそうだ。

 「やっぱり買ってくる!」

 「アル中」

 「うるへえ、帰ったら夕飯だからな」

 「へーい」

 のしのしという擬態語がそのまま聞こえてきそうな足取りが過ぎ、それがすぐ戻って、机にあった銀色のキーをひったくった後は本当に出て行った。ダース!ダースで買う!という叫びとも自己暗示とも取れない言葉はボロ軽四のエンジン音に代わって、やがてそれも遠くの波音に代わった。


 ひとりになって、梨花はソファに背中を沈める。改めて家を見回すと、確かに随分と整理されている感じがした。往時に比べて人の生活感が縮小している。なんだか自分の思い出まで荷造りされている気がしてどこか心細い思いがした。帰省、というが、もはやその表現も正確ではないのだ。梨花に実家はない。写真の祖父は微笑んでいて、その朗らかな感じが梨花の眼がしらのあたりを湿らせた。思わず指で拭う。と、自分の顔が存外汗じみているのが分かって、眉を顰めた。無理もない、今日の炎熱行軍、よく耐えたものだ。

 勝手知ったる、ではないが兄不在の今なら丁度いい。キッチンを抜けた奥、身軽な格好は脱ぐ手間も早く済む。中折れ式の仕切りを押し開けて白タイルの床に素足を伸ばすと、勢いよく出た温水を身体に当てた。気持ちがいい。

 濛々と上がる湯気の中で頭から湯で流されると泡立った感情まで鎮められるような気がする。あの頃、祖父とこの家で過ごした時間といっても、やはりその記憶は朧気だ。ただ何か、穏やかだった部分が切り出されていて、それは梨花にとって貴重なものである。親なし子として変に鬱屈しなかったのもその思い出のおかげだろう。そういえば、機械に興味を持ったのも祖父の影響だったのではないか。兄は梨花が工学科を志したことを折に触れて不思議がったが、祖父が何か、マシンのようなものに向かい合う姿が脳裏の片隅に引っ掛かっている。

 「もっと会っていれば良かったかな」

 額に温水を受けながら改めて祖父を悼む。その姿は沐浴で身を清める巫女のようでもあり、また死者と交感する霊媒師の有様でもあった。

 ギギッ。

 家が軋んだ。再び足元が動揺する。梨花はまたか、と思い薄目を開け、ガタガタと振動する窓ガラスを見てまた目を閉じようとする。その瞬間、ドンという大きな揺れが襲って、足を取られた梨花は尻もちを付いた。

 「痛った…」

 梨花は呻く。今までの群発地震とは明らかに違う揺れだ。這うように浴室を出ると

窓辺の方から不穏なものが見えた。海が白く煙っている。巨大な水柱が立ち上り、空気の鳴動が窓を叩いた。

 「な、何?」

 梨花は驚き、驚きつつもその異様な光景に釘付けだった。白い水柱が止み、その中から黒い物体が姿を現した。大きい。物体は二本の腕を伸ばして振り上げたかと思うと、勢いを付けて水面を叩いた。二つの波紋が炸裂して衝撃が稲妻のように走り、その先にあった桟橋を、まるで砂糖菓子を砕くように破壊する。飛び散ったコンクリート片が雨のようにバラバラと海面に落ちた。

 およそ現実離れした状況に梨花は身をすくめる。膝に力が入らない。物体は身体を震わせる、すると二本の腕の付け根の少し上のところが裂けて、その真っ赤な口内が覗いた。


 ギャギャギョーーー

 そう文字化するしかない咆哮が轟いて、大気の振動が窓ガラスを一層強く叩いた。なおも物体は口を広げる。するとその中心が太陽のように輝きだし、陽炎を生み出して揺らめいた。次の瞬間放たれたまばゆい閃光は広がって梨花の視界を奪い、同時に立っていられない程の衝撃に襲われる。梨花はソファにしがみついてそれに必死に耐えるしかなかった。何がなんだかわからない。こんな事とても信じられない、現実に思えない。

 ようやく光が収まったかと思い再び外を覗いてみて梨花は驚愕した。海岸から堤防、その先の山の麓までの細長い一帯がえぐれてなくなっていたのだ。閃光をまともに受けたと思しき背の高い堤防は丸型に蒸発していて、輪郭の部分が未だにオレンジ色の熱を発している。

 恐怖で息を呑む梨花。そして彼女は見た。黒い物体の赤い口の上にある二つの光。炯々と黄色に光るそれは邪悪に歪んでいるかのようで、この世の悪意を凝縮したような光は梨花を射すくめさせるには十分すぎるものだった。

 「こっちを…見てる…」

 生命活動そのものを凍り付かせるかのような恐慌に全身が染まるのを梨花は感じた。ヒューヒューという音が喉から出るのは何か声を出そうとしているのか、体が酸素を欲した結果からなのかわからない。徐に黄色の二つの光が上下に揺れ出した。そしてそれが下に沈み込むのと同時にズシンズシンという振動が伝わってくる。

 「何で…何で…」

 引きつった口でそう繰り返す。揺れる光は尾を引き、それは物体の持つ害悪が炎となって燃え上がっているようだった。その時だ、一つの天啓が梨花を貫いた。

 私はこの光景を知っている。

 そうだ、この景色、この光景を私は見た。ここで、この窓から見たんだ、あの時、そうあの時だ。あの時もあいつは海から現れて、周りを壊して、今まで忘れていた。あいつ、あの黒いやつ…。

 ギュイイイイ!

 梨花の耳の奥に残っていた音が蘇る。記憶の中の残響だ。はっとして横の方を覗き込む。幼い梨花の視線の先から何かが飛び出して行く、その音。それは砂浜を滑るように進み、黒い物体に果敢に迫ってゆく。それも大人が肩車したより一回り大きいが、黒い物体はその数倍、ボートがクルーザーに挑むようなものだった。それでもそれは機敏な動作で黒い物体を翻弄しては一歩も引かない戦いを続ける。梨花の網膜が覚えていた映像が次々と湧き上がってありありと見せつける。それは恐怖という氷によって凍結した体を溶かす熱を持っていて、内側から熱い血潮の脈動を取り戻させるのだった。

 パン、という音が鳴ったような錯覚があった。古い映像は後退し、現実の今が取って代わる。同時に梨花は飛び出した。何をするべきかと、どうすればいいかと、こうするんだという三つの気持ちが同時に走っている。ガレージ、その奥の、幌を外すのも煩わしい。半分だけ取っ払うとそれが見えた。卵型の胴体とそこから伸びる直線的な四肢、その間をつなぐ球形の関節。ハッチは、そうここだ。わかる、わかるよおじいちゃん。


 すばやく乗り込んだ梨花は幌を振り払うと、急いでそれを発進させる。祖父がそのようにしていた、映像のフラッシュバック。砂浜を走る。祖父のようにうまく滑走でず、ドスドスと足音が響く。

 「このお!」

 黒い物体が眼前にあった。操縦桿を押し込むと腕が唸りを上げて物体を捉える。皮膚なのか鱗なのか体毛なのかもわからないその表面に打ち込まれるパンチ。黒い物体はその巨体を揺らしてよろめいたようだった。ギロリ、二つの黄色の光が梨花に向けられる。その光が濃縮する害意を容赦なく梨花に注ぐ。

 ギャゲーェ!

 黒い物体は吠え、太い腕を梨花に向けた。

 「くっ」

 梨花は左右の操縦桿と左右のペダルを駆使して黒い暴力を躱す。直接打撃されなくても黒い物体は周囲の空気まで武器にでもしたかのようで、切り裂かれた大気に梨花の機体は揺さぶられた。梨花は体勢を整えつつ、その機動性を生かして黒い物体の背後に周りこもうとする。ジャンプ。黒い物体の首、それが生き物だというなら延髄だろう、そこに一撃が成れば致命と成りうる。梨花は左足を伸ばし、機体の重心をそこに乗せた。

 突然海が盛り上がる。黒い物体の背面に水の壁が生まれ、そこから長い影が伸びて梨花の機体を打った。 

 「尻尾!?」

 酷い振動に襲われて海に落ちる。早く機体を立て直さなくては、そう思ったところで視界を黒い体表が覆った。直後凄まじい加速に見舞われる。サッカーボールのように蹴り上げられ、視界の天地が何度も入れ替わる。海岸に叩きつけられた時にはその衝撃で梨花は胃から込み上がるものを感じた。

 「う、うう…」

 黒い物体は朝笑うかのように黄色い光を揺らめかせる。太い腕が伸びて、梨花は捻り上げられた。やつの顔が間近にみえる。表情などうかがう術はないが、その煌々とした黄色の光には嗜虐的な色が浮かんでいるかのようでもあった。

 黒い物体が口を開く。中心から陽炎が発生して歪んで見える。大気が圧縮されて光を放ち始める。死神がその大鎌を今まさに振るおうとしていた。

 「おじいちゃん…ゴメン」

 梨花はようやくそれだけの言葉を絞り出した。人生最後の言葉は謝罪か感謝か。前者であればやはりそれは不幸なことであろう。梨花は目を閉じた。

 その暗闇にきらりと一閃の光。フラッシュバックされる映像。

 「そうか!球体関節!」

 力を込めて操縦桿を握り直す。

 ギャリリリリ!

 梨花の機体の腕が肘を起点にして回り出す。それは速度を上げ、目にも止まらぬ速さとなった。それは黒い物体の体表を引き裂き、たまらぬとばかりに黒い物体は梨花の縛めを解いた。梨花は黒い物体に取りつく。両足の先を高速回転させてその体表に突き立て、そのまま巨体を登ってゆく。まるでピザを切り分けるかのように黒い物体を切り裂いた。

 ギャギャーーー

 黒い物体が悲鳴じみた咆哮を上げ、二つの光が一瞬当惑に歪んだようだったが、すぐに一層の憎悪を滾らせる。体に張り付いた梨花を叩き落そうとするが、その時はもう梨花はそこにはいない。黒い物体は見失ったのかもしれなかった。黄色い光が彷徨いながら尾を引いている。日が翳った。それに気づいて黒い物体も顔を上げる。

 上空に、梨花はいた。必殺の間合い。機体の両脚を黒い物体の眉間に突き下ろす。

 ギュルルルル!

 回転する脚は木材に撃ち込まれたボルトも同然であった。黒い物体の厚い体表を貫き、容赦なく急所を砕く。黒い物体は全身を痙攣させた。赤い口が広がり、唾液がとめどなく落ちて海面を叩く。数秒間そうしていたかのようだったが、やがて二つの黄色い光が弱まって目視できなくなると、それからゆっくりと崩れ落ちるように倒れて行った。大波が生まれて海岸を舐めつくす。それが収まってようやく梨花は這い出すことができた。どうにか機体を砂浜まで持ってきたところでこちらも尻から倒れ込むのであった。肩で大きく息をする。黒い物体は座礁したタンカーのようにその骸を夕映えに横たえている。いや、生き死にはわからない。そもそも生命体なのかすら謎だ。こんなものと祖父は戦っていたのだと思って梨花は戦慄を覚えた。


 ややあってザクザクと砂を踏む音が聞こえてきた。

 「忘れてたんだ…」

 兄の声だった。その声は恐怖を引きずっているように聞こえた。

 「忘れてたんだ、今の今まで。あの時のあいつが…。それなのに、お前は俺より小さかったのに…それなのに俺は…」

 「いいよ、もう終わったしさ」

 兄の自責を慰める術はないのかもしれないが、せめてもの言葉を投げかける。

 「だけど、だけど!」

 バン!と思い余った岳は機体を叩いた。果たしてその拍子であったのかどうか、不意に機体のハッチが開き、晴れて兄妹の麗しい対面となったのだった。

 悲しみと悔しさに沈んでいた岳の表情が困惑に変わり、たちまち頬を赤らめて向こうを向いてしまう。

 「そっ、そっ、そこまでお前にさせて!俺は、な、情けない!」

 兄の裏返った声が不審で、そこでようやく我が身を顧みる。キャッという甲高い悲鳴を上げて両手で胸を覆い、両膝をピタリくっつける。

 「ち、違うの!これは違うのぉ!」

 「情けない!俺は!俺はぁ!」

 沈む夕日に二人の叫びが響くのだった。


 小高い丘にある小さな寺が早乙女家の菩提寺だった。祖父の眠る墓石に手を合わせる岳と梨花がいる。線香の煙が浜風に揺れていた。

 ここからだと海岸の方が良く見える。海から山に向かって、かなりの土地が焼けただれたようになっているのが痛々しい。海に入る堤防ぞいに何台ものパトカーと消防車が列をなしており、小山のような黒い物体の周りには人だかりがあって、警官数十人が彼らをせき止めているようにしていた。奇跡的にも、黒い物体に関して梨花と岳が目撃されることはなかった。普段から人口密度の高い土地ではないのが幸いしたのだろう。あの機体もすぐに回収して、今もあのガレージに仕舞い込んである。他どうしようもないのでそうしているが、幌だけは厳重に掛けるとこにした。黒い巨人とそれの周りにいた何か、それが目撃情報として警察に通報されることもあったが、それが梨花や岳と結びつくことはついになかった。こればかりは神に感謝するしかない。いや、寺で神に感謝はおかしいだろうか。それも含めてもう一度墓石に向かって手を合わせる。

 「ありがとう、おじいちゃん」

 「もう行くのか」

 向き直った梨花に岳が問う。

 「うん、お兄ちゃんは?」

 「もう少し片づけしたら引き上げる。あれの持っていき先も見つけないといけないしな」

 「うん、そうだね」

 そうなのだ。もうすぐあの家はなくなる。寂しいが、仕方ない。千切れ雲が速く流れて、陽の光を微妙に変化させている。

 「それじゃね」

 「おう、元気でやれよ」

お兄ちゃんもね、と言って梨花は背を向ける。空と海はどこまでも青かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る