〜ブルーアイシリーズ〜 サユノ喫茶店

@Ritsu20

序章 全てはあなたのために。

 デスクワークという言葉の語源はデス・ワークという言葉なのではないかと初めて思ったのは小学生の頃だ。

 西の空はもう窓掛けで閉じきられているのに、仕事場の電気は煌々とついている。

 後ろに縛り損ねて目元に降りてきた数本の髪の毛を丁寧に耳にかけた。

 私は斎藤友紀。もうすぐ三十路の女。

 物心着いた時には既に母子家庭で、母と2人、質素な生活を送っていた。

 母は数年前に他界した。

 なんとか大学を卒業して一般企業に就職したは良いものの、そこはいわゆるブラック企業というやつだった。

 社会に出る前は、残業が酷過ぎると感じたり、仕事でもう死にたいと思ったりだとかそういった話は、ネットの中の世界だけであって自分とは無関係、そう思っていた。

 でも今は違う。

 そう思っているのが私だからだ。

 偶然ネット記事が目に入る。

『人気女優◯◯に隠し子発覚!?相手は数ヶ月前に事件で亡くなった⬜︎⬜︎!?子供は現在10歳前後の女の子で、名前は』

 記事はマウスのスクロールで眼界から外れた。

 自分のことでもないのに、まるで矜恃するかのような現代のメディアは嫌いだ。

 精神が参っている時というものは、何かと消極的な出来事が目に入りやすいという。

 寧ろ、こういった時分は、目に入るもの全てが消極的に映るといった方が正しいのではないかと私は思った。

 記事を確り読んでいないものの「俳優業も大変だな」と感じる一方で、

 見知りもしない他人様に同情しようとしている自分がたいそう馬鹿馬鹿しくなった。

 現実は残酷だ。

 世間の価値観というのは、モノ同士を比べる相対的且つ皮層なもので、

 その『モノ』が人間にまで適応されるのだから。

 貴方はあの人に比べて出来が悪いだとかなんとか。

 人それぞれ長所は違うから一概に比べることは不可能なはずなのに。

 皆、自分と相手との格付けの為に不可能を捻じ曲げて可能に見せかけている。

 もう時期限界を迎える、そんな心持ちを抱いた。

 時計を見ると26時を回っていた。

 普段ならここから28時までやって社中泊をし、また5時から仕事が始まる。

 然し、どうも今日は、そんな気力、有余が残っていなかった。

 27時、気づけば私はもう会社にはいなかった。

 どうやって他者の目を盗み、抜け出したかは定かではない。

 携帯はもうかなり前から持っていない。

 連絡を取る相手もいなければ、そもそも通信料が私の生活にとって喫緊の問題である。

 丑三つ時だからだろうか、普段より車は少なくビルの明かりは暗く感じた。

 朦朧とした意識、則ち思考を放棄した脳は、受動的に赴くがまま足を動かしその身を揺らし続けた。

 車が行き交う音が近づいてきては消え、近づいてきては消える。

 歩行者信号が青になり、鳩の音が鳴り響く。

 聞き慣れたはずのこの音も、こういった時分に聞くと違った雰囲気を醸し出す。

 信号が赤になった。

 私は歩き続けていた。

 刹那。

 

 視界が揺らぐ。


_________________________________

 

 気づけば、暖かい光を窓から放つ、1軒のカフェらしき所の前にいた。

 私は身体の妙な浮遊感に苛まれていた。

 辺りの様子を見る限り、知らないうちにどこかの裏路地に入ってしまったように感じる。

 然し私は、何か浮世離れした、そういった雰囲気を感じるのだった。

 その光を見た私の本能は、何故か、まるで地獄で蜘蛛の糸を見つけたカンダタのように下品な迄な悦を感じているようだった。

 だから、私がそのカフェらしき場所に入る他なかった。

 迷わずその引き戸を開けて中に入った。

 今は夜更けである。

 当然の事ながら太陽は出ていない。

 然しながら、カフェの窓には、今すぐにでも飛び出したくなるような心地の良い草原や真っ青な空を連想させる、ポカポカとした暖かい日差しが差し込んでいた。

 時折鳥の囀りが聞こえる。

 先程カフェの『中』から出ていると思っていた春陽のようなそれは、カフェの中からの輝きではなかった。

 カフェの中は外からの自然光と壁に数箇所取り付けてある燭台しか無かった。

「おや、珍しいね。」

 突然、幼い男の子のような、それでいてどこか大人びている声が右上の方からした。

 見ると、本棚と思われる棚の上に――。

「なんだ。抜け殻じゃないのかい。」

 黒い猫がいた。

 猫が話している。

「おーい、サユ。お客だよ。」

 黒猫はピョンと棚の手前、私の隣にあった銀色をした丸いテーブルの上に飛び乗った。

「やあやあ。取り敢えず、カウンターの方に来てくれたまえよ。」

 そのまま奥へとスタスタ歩いていった。

 なるほど、ドアから五六歩程の開けた空間のその先にカウンターらしきものがある。

 私はカウンターへ向かった。

 黒猫はカウンターにぴょんとまた飛び乗った。

 3本。

 その黒猫は3本の尻尾を持っていた。

「どうした?まあ、取り敢えず座ってくださいな、別に大したことはないでしょう?」

 あっけらかんとしている私にその黒い生き物はそう告げた。

 私は取り敢えずカウンターに置かれた少し背の高い木製の椅子に腰掛けた。

 カウンターの机に座ったその黒い生き物は、毛繕いをしていた。

 猫みたいなことをするんだな、と思ってみていると、 店の奥から誰かがやってきた。

「おまたせしてすみません。こんにちは……」

 そう言って軽い会釈をしながら柔らかい暖色のロングヘアをした女の子――。

 その子には猫の耳かあった。

「珍しいお客様ですね、リュゼ。」

 女の子は少し怯えているようだった。

 女の子には黒いしっぽもあった。

「そうなんだよ。僕もこんなのは初めてでさ。でも、敵意とやらは感じないから安心して良いよ。」

 リュゼというらしい黒い生き物は黒耳の女の子と流暢に話す。

 女の子はこれを聞いて安心したのだろう。

 少しとりなしてこう言った。

「こんにちは。はじめまして。私の名前はサユいいます。」

 女の子はそう言って、ひょいと頭を下げた。

「当店、『喫茶ノワール』をご利用頂き、ありがとうございます。えっと、当店はお客様のご要望にお答えします。それではまずはこちらの――――」

「あの……」

 私は女の子の話を遮るようにして声を掛けた。

 女の子はびっくりしたような顔をして話すのを辞めて私を見た。

 元々大きかったまん丸の淡桃色の目をさらに大きくして私の目を覗いていた。

「どうしたんだい?」

 黒猫らしきものが私に聞いた。

「私はどうやってここへ来たのでしょうか……?」

 女の子と黒猫は私を、驚いたように、そして不思議そうに見つめた。

「あっいやっ……こんなこと聞いても分からないですよね……私自身のことなのに……変なこと聞いてすみません――――」

 ハッとして、そう急いで付け加えた。

 黒猫が口火を切った。

「そうなのかい。それじゃあますます僕らは君のことを放っておくことが出来ないようだ。君はここに来るための条件を中途半端に満たしたまま来てしまってね。ここから君をすぐ外に出したら、君の存在が危ないんだ。サユ、この方に準備しようか。」

「えっ、あっ、はい!」

 女の子は慌てたようにしてカウンターの中にあった階段を登って行った。

 準備?一体全体どういうことだか。

 話がどんどん進んでしまって、私のことなのに完全に置いてけぼりだ。

「突然の事で申し訳ないね。」

 前足を立て可愛らしくちょこんと座った黒い生物はそういった。

「え、あの……私……」

「ああ。あっちの世界の仕事やらなんやらの事かい?うん、確かに気になって仕方ないとは思うんだけど、今の君じゃ向こうにそもそも帰れるか分からないし、第一ここに来れた原因も分かっていない。そんな君を返す訳には行かないんだよ。」

 黒い生き物はつらつらと話していく。

「それと、ここにいる時間、あっちの世界については心配いらないよ。君がここにいる限りは問題ない。それはこの僕が保証しよう。」

 この子供らしい声のせいだろうか。

 多少は大人っぽさがある口調とはいえ、まるで成熟した未熟児に説教をされている気分がして、どうも落ち着かない。

「私は……ここで何をするんですか?」

「そうだねえ。分かりやすく言えば病院みたいなものさ。体調がある程度回復して日常生活に支障が無くなれば通院しなくても良くなるだろ?それと同じさ。」

 そうこうしているうちに、女の子が上から降りてきた。小さな身体に似合わない、大きな本を数冊、両手に重ねて抱えて持っていた。

「リュゼ。今回のお客様は非常にイレギュラーですから、本を持ってきましたよ。」

「うん。良い判断だね。ありがとう。ここからはサユに任せるよ。いつも通りを繰り返せば何処かで分かるはずさ。」

 黒猫はそう言ってカウンターから木のフローリングに飛び降りた。

「それじゃあ、お客さん。サユの案内をよく聞いておくれよ。それじゃあ、また。」

 スタスタと、3本のしっぽを立てて揺らしながら店の奥へと消えていった。

「では、お客様、失礼します。」

 そう言って艶のある黒髪と猫のような耳、

そしてしっぽをもった女の子はある1冊の本を開いた。

 そして目を瞑ってこう唱えた。

「人に取り憑き、また、取り憑かれるものたちよ。我らに光のお導きをお与えください。輝きのままに全てを包み込みトワの加護をお与えください。全ては貴方のために。」

 辺りが白い光に包まれた。

 

 これが、これから繰り広げられる、

 囚われ続けるサユを救う、救出劇の始まりだった。

 そう。『全てはあなたのために。』

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