あどけない空 【最終話】

愛する心のはちきれた時

あなたは私に会ひに来る

すべてを棄て、すべてをのり超え

すべてをふみにじり

又嬉嬉として



 生まれついた名前を持たない彼は、意識のない手を繋ぎながら、深く深くため息を吐いた。


天媛あめひめなんかどうでもいい。感傷を抱いたのは、処刑後ふと気づいて腹を掻っ捌き、見てしまった中身の方だ。むしろ地稚媛つちわかひめこそが、その身代わりなのに。だいたい似ていたから何だ。それこそきっかけに過ぎない。――あなたと過ごした時間の方が遥かに長いのに、別人と混同する訳ないだろう」


そこへ女が一人、取次役に案内されながら、いたって呑気な顔で現れた。


「ありゃりゃ。いつも大変ですねえ、肥遺ひい憑きさんや」


「出たな祈祷師、脈はあるが目を覚まさない。何とかしろ」


「構いませんよ、追加で報酬をいただけるのであれば。でもこれじゃ、全て元通り。おあとがよろしいようで。とはいきませんね」



 たかが独楽をつついて回すだけなのに、どうしてそこまで下手なのだろう。呆気なく倒れた途端、童子は大粒の涙をこぼして遊び相手兼友人を呼んだ。


「うっ、うっ、ひっく。うわ~ん、また負けちゃったよお。とうが~、来て~」


呼ばれた少年は、甲斐甲斐しく涙を拭いてやりながら、なじるような視線を霧彦きりひこへ向けた。


「叔父上、雲稚君くもわかぎみをいじめるのはやめてください」


「ふん、ヤなやつ。だれだよおまえ。もう飽きた。遊ばないなら、あっち行っちゃえ」


 暇つぶしに独楽を回していたところへ、勝手に近付いて来たのはそっちの方だろう。せっかく教えてやったのに興醒めだ。つまらなくなり、棒もその辺へ放り出すと、カラカラと転がって、待ち人とその連れの少女一名の爪先へ当たりかけた。が、行儀など気にしない待ち人はその前に別方向へ蹴飛ばした。


「もう、どこ行ってたの。おれ一人で、ずっと、ずうっとさびしかったんだから」


霧彦きりひこ、待たせて悪かった。必ず追い付くから、少し先に行っていろ」


 優しく抱きしめられてから身を離されると、渋々従って部屋へ戻る。とうがはそれを見ながら抗議した。


「なんとか言ってください長上おさがみ。また叔父上が雲稚君くもわかぎみを泣かしました」


霧彦きりひこには、大層気苦労させてしまったからしょうがない。あれはあれで一つの正解だ。あやぎり朝が分裂しない為には、彦の身の振り方が一番重要だ。そしては、尽くされるより、尽くす方が性に合っているのだ」


その間にも雲稚君くもわかぎみ長上おさがみに抱き着き、頭をぐりぐりと押し付けた。


「うええん、父上~。よしよしして、頭撫でて」


「それにしてもすぐ泣く……、まあいい。地稚媛つちわかひめ、期待している。お前こそがあやぎり朝唯一の希望なのだ。くれぐれも頼んだぞ」


「はい長上おさがみ。お任せください」


子供三人とはそこで別れ、長上おさがみが渡り廊下を歩いていると、途中の欄干に腰掛け、霧彦きりひこは不満げな表情を浮かべていた。


「あーおそい、待ちくたびれた~」


「ありがとう、ちゃんと待っててくれたんだな。――本当に幸せだ。俺はあなたが、生きていてくれるだけで喜びなんだ」




 

冒頭の詩は 大正二・二『人に』より引用

智恵子抄 高村光太郎

青空文庫(2024/08/17 20:29アクセス)

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媛彦談《ひめひこだん》∶カクヨム版 @yosinumayosi

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