九月一日

@wlm6223

九月一日

 その少年は大層な読書家だった。

 ほぼ毎日のように私の務める区営図書館に通い、閉館近くまで本を読んで過ごしていた。

 それが平日のみならず、土日も来館してくるのだ。

 少年は本を借りることはなく、決まっていつもの席で読書していた。

 少年がどういった本を読んでいるのか、貸し出し記録がないので見当がつかない。だが文庫本を手にしていることが多いので、おそらく小説を読んでいることが多いようだった。

 少年が来館するようになったのは確か二年前の春頃からだったと覚えている。少年は影が薄く、来館してもその存在感は希薄だった。

 その頃は学校の制服もまだちゃんと身に馴染んでおらず、進学したての中学生だと簡単に予想できた。

 最初のころは良い読者がついたと私も喜んだが、こうも毎日図書館へ足繁く来るようになると、私は少年を訝しく思うようになった。

 部活は? 学友と遊びに出かけないのか? 本を借りて自宅で読まないのか?

 来館者に司書から話しかけることはない。

 お馴染みの来館者が来てもその素振りを見せることはない。

 図書館は公共スペースだ。そういったマナーがあることは仕事柄、心得ている。

 それに来館者が本を目当てに来ていることは明らかなので、司書は来館者には影のよううな存在であらねばならない。

 少年は平日の夕方、学校の制服を着たままで来館した。ブレザーの制服だった。ということは近所の中学校の生徒ではない。何かしらの理由で学校を越境入学したのだろう。

 土日はさすがに少年は私服で現れた。

 私の知る限り、少年はほぼ毎日律儀に図書館に通っていた。

 その少年のことは職員たちも全員見知っており、少年の素性について噂話をする職員もいた。

 私はその噂話を聞くとこう言って職員たちをたしなめた。

「来館者の妙な噂話をするな。みんなそれぞれ事情や生活があって、その合間をぬって図書館へ来てくれているんだ。図書館は誰にとってもオープンな場所だ。たまに来てもいいし毎日来てもいい場所なんだ。図書館は開放された知の宮殿なんだ。それを誰がどうだとか、そういった話しをするのは止めてもらいたい。誰だって本の世界に没頭したいときがあるのは、図書館の職員なら誰でも分かるだろ? つまりはそういうことだ」

 職員たちは私の言葉をよく理解してくれた。だが私の目の届かないところでしょっちゅう来る来館者の噂話をしているのは私も承知の上だった。

 司書は読者の道標であるべき。こちらからは読者へのアプローチはしない。読者からのアプローチがあってから司書の仕事が始まるのだ。そういう職業倫理を私は持っていた。

 八月になった。世間では夏休みのシーズンだ。

 八月中もその少年は毎日図書館へ通って来た。図書館の弱冷房の効いた空調の中、その少年はひたすら読書に没頭していた。

 少年の私服の身なりは(いつもそうだったが)貧相だった。

 読書家でありながら本を購入する小遣いさえないのだろう。いや、少年の読書量からすると、読む本を全部購入していたら中学生の小遣い程度では到底賄いきれないだろう。

 九月になった。学生の夏休みは終わりだ。

 その朝、少年はいつも通り制服姿で図書館に来た。

 学校をサボってきたか。だが私はそういう少年を咎める気はなかった。少年には少年の事情があるのだ。図書館はそういった少年も大歓迎だ。

 少年はいつも通り書架の本を眺めていった。

 少年が二冊ほど持って貸し出しカウンターに来た。芥川龍之介「歯車 他二編」と森鴎外「山椒大夫・高瀬舟 他四編」だった。

「これ借りたいんですけど」

 少年を間近で見ると影が薄いだけでなく体の線も細かった。

 私は必要事項を聞いて貸し出しカードを作った。

「返却期限は二週間になります」

「……ごめんなさい。返せそうにないんです……僕と一緒に燃やしてしまいますので」

 私は少年の言わんとするところを掴みかねたが、すぐに察した。

「ええ。構いません。補充しておきますから」

「ありがとうございます」

 そして少年は消え入るように図書館をあとにした。 

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