第2話 猿の憑き物 その2
もっとも、あのダイイングメッセージを僕が聴いたなら、恐らくは別な意味合いになるのだろうけれど。夜鳴き鳥の知り合いはいない。獣一匹、それだけだ。
故にこそ今回僕は
──────────
保洲大亜を見送った後、結局その日も僕は学校に居残った。図書室に篭っていたのである。明朝には山形市を発って件の町へ行かねばならぬ。故に下準備とも言うべき情報の収集は夜の時間にする外なかったのだ。幸いに出立は土曜日であった。次の授業の準備にも平日よりは時間的な余裕がある。
「しかし憑き物にまつわる記載なんてありますかねえ」
共に残ってくれた
どうやら彼女は仲介人としての責任の様なものを少なからず感じているらしく自ら協力を申し出てた。最初は早物町まで付いて来る気でいたらしい。流石に止めた。猿の憑き物とやらが如何な事情で生まれた説話であれ、そう呼ばれるに値する何かが早物町にはあるのだろう。そんな場所に同僚の女性を伴って飛び込む程、
「小学校の図書館ですからね。折口先生と柳田翁の本があっただけ幸いと思う外ないでしょうか」
懐中電灯の先に開かれた折口信夫全集17巻を目で追いながら僕は応じた。
「校長の趣味なんですかね。何にせよ助かりました」
「そうそう。校長先生。よく開けてくれましたね」
読点のところで彼女の滑舌が良くなった。恐らく何冊か良い本を見出したのであろう。ライトを置き、卓上に荷を預けたのだ。
「申請次第で平生でも開けてもらえますよ。夏休みにはここの蔵書に随分助けられました」
あの時も折口先生にお世話になった。しかし果たして今回はその通りに行くだろうか。予感だの直感だの、そう言う言葉は余り使いたくはないのだけれど、どうにも嫌な予感がする。
「ああ、そう言うことだったんですね」
ページを繰る音が向こうの闇から聞こえ始める。
「と言いますと」
「ずっと謎だったんですよ。何で空風先生はこんなに民俗学やら史学やらの知識があるのかなあって」
しまった。
「……元々趣味みたいなとこもありましたから」
白状すれば、事件発覚後の解決編に於いて、僕は校長に図書館利用の履歴の一切を欺瞞してもらっている。理由は単純。人間は、血道な努力をないにして鼻っから知識が頭に詰まっている奴の方が、必死こいて目の前の難敵をどうにかしようとする対応者よりも信用しやすい生き物だからである。平たく言うなら試験前に学生が能く口にする「拙者は今回の試験に向けて一切の勉強をしていないで御座候」みたいな方便を僕は使っていたのだ。
ノー勉で化け物を知識で封殺したら格好いいじゃん。
くそ、よりにもよって尾井先生の前でメッキが剥げた。
「ノー勉で化け物を知識で封殺したら格好いいじゃん──くそ、よりにもよって尾井先生の前でメッキが剥げた、と思っていますね」
どうしたと言うのだろう。同僚が急に悟の妖怪みたいなことを言っている。
「え、いやそんな愕然としないでくださいよ。冗談ですって。ただあんまりにも、やっちまったって顔してたから」
「あ、いやすいません。ちょっとその、図星を突かれてしまいまして」
まだ喋っていないことだけれど、それなりに労力を要したのだ。この格好付けには。夏休みの案件が厄介だったことの3割は僕の下らない見得にこそ起因する。だのにそれすらあっさりと。やってしまった。
「空風先生意外と可愛い性格してますね」
「やめてください。今の僕は半月に渡る偽装工作を失言の一つによって無意に放った悲しみで一杯なんですから」
「もう拗ねないでくださいよ。しかしほんとに意外です。何かもっと、こう」
くすくすと笑いながら、尾井鰾はこちらに近づいてきた。
夜目の最中に小さな体躯が浮かび上がる。整った顔。丸い目。赤みがかった瞳。
「空風先生って超然としてるイメージでしたから。ちょっと嬉しいですね」
ああやっぱり、この人は姉さんに似ている。
「嬉しい?」
閲覧机に腰掛ける僕の隣まで肉薄する。
「そうです。あんまり最強だと、先生に何かあった時、私のやることがないじゃないですか」
山形県誌と大塚民俗学会の手による本を計3冊、僕の読んでいた全集本の奥に置きながらこう続けた。
「最強だったら、周りが何かする前にその内消えてしまうでしょう」
「……」
「だから嬉しいんです」
そっと、手を握られる。
「空風先生。夏休みは、先輩を、
「こちらこそ、その節は助かりました。尾井先生もまた何かあったら仰ってください。すぐに助けに行きますから」
「ええ、その時はぜひに」
しばしの沈黙。
「そうだ」
と切り出し、思わず握っていたままにしていた手をバッとばかりに僕は離した。
「僕医学書の方も見てきますね。これも、お借りします。ありがとうございます」
ハードカバーを3冊。意外でもないが重いなんてもんじゃない。
「わかりました。何かあったら呼びますね」
立ち上がり、階下に降りようとしたところで「それと」と背後から呼び止められた。
「夏休みの魔神みたいな空風先生は確かに格好良かったですけれど、だからって、その裏が見えたからって、格好悪いとは私思いませんよ」
耳の奥で、声が反響する様な気がした。その後どんな風な言葉を返したのか、僕は覚えていない。ただ一つ酷く泣きそうな気分になったのだけは間違いない。報われた様な懐かしい様な、奇妙な気持ちになって無性に泣きたくなった。
「ただ図書館ではないよな。区切られすぎて、本がずらっと並んで壮観って風情が全然ない」
結構大事だと思うのだ。図書館に入って視界に飛び込んでくる無数の本棚の群れというのは。あれ程「燃える」光景を日常に見出すのは少々至難である。
さても。先に僕は医学書と言った。暈したのだ。ここに探しに来たのは精神医学書だ。現代に憑き物が出たと聞いて方違や八卦の方角のみに気を配るのは愚か者の仕業である。いや今に限らずとも、憑き物なんて有史以前から本質的にこっちの方が多かったはずなのだ。精神の病。大戦の功罪とも言うべきか、この手の内容を扱った書籍も大分増えた。それだけ需要が表出したと言って言えてしまうのも事実だが。
これに触れざるを得ないから、本当は、尾井先生には帰って欲しいのだ。
膿を溜めた傷口を風に晒す必要はないのである。
「このあたりか」
数冊取って貸出のカウンターに持って行く。一階の、出入り口があるこの部屋には閲覧用の机がない。
「さてここからだ」
尾井先生が持ってきてくれた本と今手元にある精神医学書をライトで照らす。或いは照らし合わせる。
対化け物の基本兵装。それは科学的知識を持った上で原始的人間の精神に立ち返ることで獲得できる視座である。
──────────
一夜明けて尾井先生を自宅に送った後、僕は早物町へ向かった。幸いに雪は降っていない。ひたすらに霧のかかった山道を車で駆けた。岩肌の連なった様な道に出ると車体が僅かに跳ね上がる。気分がいい。出立したのは朝の5時。山形市を抜けて山道に入ったのが6時前。明け切らぬ夜が未だ紫色の未練を空に残している。そんな朝靄の中を一人で突っ切って行くのだ。何と快いのだろう。
2日続けての徹夜に、ようやく見つけた復讐への光明。心臓が不自然に活気付くのが能くわかる。
思わず靄と露の歌詞が口から漏れた。朝焼けすら森の緑に呑み込まれそうである。フロントガラスをすり抜けて苔むす水滴の匂いがする。
道を行くごとに、寒くなる。これは悪寒か怖気か武者震いか。はたまたただ寒いのか。
本式に山道から抜けられなくなる前にガソリンスタンドへ2度寄った。下手をすると早物町では補給ができないかもしれない。その内の一軒、後に回ったガソリンスタンドの寂れ方は尋常ではなかった。市街地を抜ける直前にあったその店は、周りが全て空き地であった。縄によって囲われ部外者の侵入を拒絶する、本当の意味での地理的空白である。道路に面した側を正面とすると、左右と背後がその有様である。そして中心のガソリンスタンドは正しくボロボロ。何にもまして錆が酷い。金属部の錆の量がとてつもないのだ。きちんと観察するまでここが現役のガソリンスタンドとは思わなんだ。上背のある単子葉類が周囲の空き家に映え散らかしているので、遠目にはこのガソリンスタンドが殆ど飲み込まれた形になっているのだ。正直に余り使いたくもなかったがここを逃すといよいよ山中で途方に暮れるかもしれぬ。やむなし僕は車を停めた。
「どちらまで」
従業員の1人、正しくはその店にてたった1人のスタッフが給油中に話しかけてきた。長髪の20かそこらの女人であった。顔色が異様に悪く、青白いというよりも黒ずんでいる。酒の摂り過ぎから肝臓をやってしまったような、そんな貌だ。
「早物町に行きます」
僕がそう言うと彼女は興味を失った様に
「そうですか」
とだけ言った。嫌な沈黙が漂い始めたところで幸に給油が完了し僕はそのスタンドを後にしたのだった。会計の折、釣りとレシートと一緒に渡された
「難儀ですね。あの町も」
と言う一言が未だ僕の胸から消えぬ。奇妙な時間であった。「どういうことですか」など聞き返しでもすればよかったのである。しかし不可思議それ以上の追求をする気にもならなかった。思えばあの場所での記憶のみ、前の朝の情景や後述の杉の道の記憶から綺麗に切り離した状態で保管されている。あれは一体何だったのだ。ガソリンが尋常のものであるのは確かである。フェアレーンは未だ走行を続けている。しかし妙な居心地の悪さが僕の胸に残ってしまった。
多分あの女は今もあそこにいる。置賜手前の町場の周縁の、寂れたガソリンスタンドに。
鼯の糞を見つけたあたりで景色が大きく切り替わる。雑木林だったそれまでの道が、多分置賜に入ったあたりから杉林になったのだ。鼬鼠化や齧歯類の内、ムササビの様に冬眠しない種類の痕跡がぽつりぽつりと落ちていた。このあたりになると昨日の雪が未だ僅かに残っていて、そこに落ちた排泄物なんかが茶色の窪みになっている。タイヤの轍は見つからない。冬が近くなってからこの道を通る人間はそうそういるものでもないのだろう。獣の住処を荒らす様で少し心苦しい。
「猿は居ないのだな」
ふと思い、そう言った。
地名に採用されているくらいなのに。
ハヤモノというのは猿の別称であるである。ともすると、これはとんでもない猿山が待っているのではと正直に僕は身構えていたのだが。穴蔵どころか足跡一つ見当たらない。愛車が糞塗れになる可能性を警戒していた手前、まあよかったと言う気もしないでもないのだけれど。
だけどそうすると余計にわからなくなる。何だってそんな名前をつけたのだろう。永蒸町にしてもそうだ。永蒸は恐らくナガムシに結びつくのだろう。即ち蛇だ。猿山となればさり気なく地方に偏在していたとしてもそんなに違和感がないけれど、蛇山が近所に存在するとなれば否が応にも噂なり風説なりが聞こえてくるはずである。と言うかそんな生態系が成立するわけがない。すると向こうの地名の由来は信仰か逸話が元となっていると考えるのが順当なのだろうか。事実、我が国に存在する動物関連の地名の多くは逸話や神話にまつわるものが大概である。
ああでも、逆も然りなんだっけ。そう言う逸話や神話の組成には現実世界の動物エピソードもまた決して無関係ではないとか何とか。
「一応あいつを呼んでおいた方が良いのかな」
この手の知識の出所は大体あいつの知識だからな。小学校が舞台だった夏休みとは違って今回はフィールドがフィールドなだ。知見と知識による先手必勝ができないと後々面倒なことになりそうな気もするのだけれど。
いや、多忙なるあの天才作家を山形くんだりまで呼びつけるのは忍びないか。
どこで何してるのかな、あいつは。
夏休み、無理にでも呼びつけておけばよかったのだろうか。
少し深くアクセルを踏む。この2年間に対して格別の後悔はないけれど、友人に会えなかったのは寂しかったなあ。背景のない人間にとって、自分の過去を知る誰かというのはいつだって恋しいものなのだ。
それも言い訳か。理屈を捏ねても、しょうもない。該当の条件の該当者じゃあなくて、僕は他ならぬあいつに会いたいんだ。
パッと景色が開けた。急激に視界が明るくなる。杉が疎になったのだ。薄いオレンジの日差しが差し込んでくる。ああそうか。昼はすでに終わったのか。日暮の太陽がストロボ効果のコマ送りの様に、杉の木越しに左手側から照りつける。
まだ日がある間に着いてよかった。もう直ぐだ。
棚田が見えた。この眺望には覚えがある。あの時は夏だったから稲が青かったな。今は収穫も終わり褐色の大地が広がっている。道を進むに連れて里の景色が露になっていく。いい景色だ。山に沈む太陽に背に背負った壮大な眺めである。
がさり。薮を1つ突き抜けるといよいよ杉の林が消えた。山道を脱すると急坂の上に出る。ここから町に降りていくのである。橙色の古い集落。舗装道路など1本もない。人の足と車の車輪が作った畦道がそこにあるのみである。コンクリートの建物は当然の如く見当たらない。と言うか建物が殆ど存在しないのだ。長家みたいなものがポツポツと建ってはいるが、にしても民家が少なすぎる。人口比率と照らしてみると奇妙なことこの上ない。確かここの人口、300人くらいはあったはずだ。だが。この高台からは谷底の町早物を一望できる。その一枚絵に300人分の住処があるとはどうしても思えないのだ。
「長家での共同生活とかがあると考えるのが妥当か」
だとすると、そういうことが起こるってのも分からんでもないな。『一見憑き物に憑かれた様に見える神経の異常』。血縁に結びつく病としてのそれが、流行ならざる経路を以て蔓延している可能性がある。どうあれ見てみないと分からないのだが。
問題は見ても診れないことだ。僕は医者じゃない。昨日は大見得切って「僕が祓う」とか言ってみたけれど、もし必要なのが祓いじゃなく治療だとするならば。僕にできることは絶無と言える。そこにいる子どもは救えない。
「それでも憑き物とやらの存在否定はできるんだがな。祓うも何も最初からそんなものはなかったってことになるから」
だけど。
「……あった」
町に入って5つ目の辻を越えた先に見える一軒の長家。木造の建築に青塗りの屋根、無理やりな増築による稲妻型の建築。あれが目指す保洲邸である。駐車場と呼べる様なものはない。正面にある平地に、既に置いてある車と横並びにする形で一旦停車した。
「凄い車だな」
思わず声が出てしまった。どこのメーカーの車両か全く分からん。多分原型は小さいバスか何かだったんだろうけれど、屋根は幌の様な物に換装されているし窓は簾1枚でほぼほぼ原型を留めていない。その上余り動かしていないのだろう。埃を被るとはまさにこのこと、砂塵に塗れて、元々黒色であったのであろう車体が全身黄土色に変わっていた。保洲大亜が生月台に来た時に使用していたのはこの車では無かったが。
「先生!こんばんは。遠いところ御足労ありがとうございます」
車の向こうから声がする。前にも聞いた声だ。
「保洲さん、こんばんは。お待たせいたしました」
車体の陰からひょっこりと保洲大亜が現れた。黄ばんだエプロンをしている。
「ひとまず我が家へ」
「ええ、お邪魔します」
保洲家の入り口は横開きではなく引き戸であった。外見にして唯一の西洋造りである。黒色の材によるそれは動かす度にギシギシと鳴り、蝶番の腐食は緑色と茶色が混じっている。玄関を潜ると当然に土間があった。臭う。異臭というのは何か違うが、しかし尋常の民家の生活臭とは異なる香りが保洲邸の中には充満していた。いずこかで嗅いだことがあるような、だけどそれが変質してしまったかの様な。というか何だ、この異様な天井の低さは。2mもないぞ。
「あんたがその、学校の先生か」
老人というにはいささか若過ぎるだろうか、頭が禿げ散らかしているせいで随分老け込んで見える。禿げているのではない。禿げ散らかしているのだ。綺麗に剃るなりしているならばこうも老いては見えないだろう。酷く痩せた体を黒いシャツに収めている。
「そうです。お邪魔しております。空風鈴と申します」
「
その時になって、僕は保洲波久に腕がないことに気が付いた。戦場での負傷、なのだろうか。
「いえ、この度はよろしくお願いいたします」
「あら、その人がスズカゼ先生?」
ドタバタとした足音と共に廊下の向こうから声が近づいてくる。
「空風、空風鈴先生ですよ。
「あら、ごめんなさい!失礼しましたわ」
オレンジ色のワンピースを着た女の人が走ってきた。髪の毛は後ろで束ねてあるが所々跳ねている。恐らくゴムが解れているのだ。3分の1が白髪である。少なくとも波久さんよりは若く見える。
「
「恐縮です。空風鈴です。お世話になります」
「すまんな先生、馬鹿者ばかりで。一先ず客間へ」
玄関からは廊下がまっすぐ伸びている。右手の戸の奥には恐らく茶の間、左手にはまた廊下が生えている。この左側というのが、暗い。電球の数はそう変わりないはずなのに、言語化しにくいけれどとにかく向こうが暗いんだ。薄気味悪い。掃除が甘いからだろうか。太陽が入りにくいからだろうか。幽霊がいるだとか人死にがあるだとか、そんな特殊で劇的なものではなくて。単純に機能性的に家の構造として「暗い」という印象を受けるというか何というか……。
僕は保洲波久に案内されるまま奥へ進んだ。突き当たりには扉があって、そこの小窓からはオレンジ色の光が曇りガラス越しに漏れている。廊下はここで右手に曲がる。このカーブで地面が一段下がり相対的に天井が高くなった。床の木の質感も違う。あの変な臭いも消えた。成程、ここから先が増築部分ということか。元々L字の建物にこの客間棟を付け足したのだろう。
「ここだよ、好きに使ってくれ」
増築廊下の一番奥、突き当たりの勝手口から見て右側の扉の前で保洲波久はそう言った。
「ありがとうございます。お邪魔します」
中に入ると古い畳の部屋が現れた。部屋の左側に布団があって奥には大きな窓がある。窓からは庭と、その奥に山が見えた。右側の壁には所謂書生机がベタ付けしてある。
「……じゃあ飯時になったら呼びに来るから、それまでここで休んでてくれ」
「ありがとうございます」
扉が閉まる。1人になった。
がたり。布団のある壁から音がした。誰かいる。やはり何人かが共同で暮らしているんだな。
はあ、疲れた。流石に朝からぶっ通しで運転するのはしんどかったな。眠い。どうしようかな。1時間くらい寝ようかな。でもなあ、起こしに来るって言ってたしなあ。ここで僕が寝てたら多分気を遣われちゃうよなあ。
「よし。いいや。ちょっと待とう」
思い立って机の前に座った。持ってきたリュックサックから本とノートを取り出す。図書館から借りてきた『感染症とコミュニテ』という大判本と、これの解釈をざっくりとまとめたノートである。徹夜の成果物とでも言おうか、昨晩作った付け焼き刃的予習の祀り先だ。
これ読んで、しばらく時間を潰すか。
──────────
「お待たせしました空風先生。お夕飯ができました」
扉越しに保洲大亜の声がした。今行きますと返して僕は立ち上がる。それと同時に、一応のこと備えだけはポケットに忍ばせた。
がちゃり。
「あれ、あなたは」
僕が外に出ると同時に隣の部屋から男が1人現れた。綿入れを着た細身の男である。僕よりも少し若いくらいの年頃だろうか。
「初めまして。僕はその、大亜さんにお呼びいただいた」
「ああ、仙台の学校の先生」
「いや山形市です。生月台小学校というところで教鞭を執っております」
すると男はパッと目を開いた。頬骨の浮いた顔の上で瞼が見開かれたので眼科の輪郭が皮膚越しに顕になる。
「名門じゃないか。凄え」
「えへへ、恐縮です」
それ程のことはある。あそこは図書館を筆頭に変なところも多い学校だけど、だけど間違いなく超名門だし超凄えいい学校だ。
「俺は
居候。の割に何というかしゃんとしているな。あくまで何となくの印象だけだけれど。
大虫可生と連れ立って茶の間へ向かった。予想は当たっていたらしい。玄関右手の大部屋が茶の間であった。12畳程の部屋の真ん中に長方形の座卓がある。異様に低く一繋がりの膳の様な印象を受けた。そこに僕を入れて8人ばかりが座っている。ギッチリと詰めなくては座れない。
「はあいお待たせしました」
声がしたかと思うと保洲大亜と保洲安虎が盆を持って部屋に入ってきた。計10人、否恐らく本来的には11人なはずだ。
「雑煮なんかお出しするんじゃないよ、お客人が来ているんだから」
保洲波久が茶碗を受け取りながらそう言った。
「いえそんな」
「先生は教養人だからそう言うだろうがね、我々みたいなもんが、平生はともかく人が来てる時に何のお構いもなくなっちゃあいよいよ駄目だ」
そう言う彼はどうにも僕に話しかけている様で別の誰かに説教をしているみたいだった。ここにいる残りの8人だろうか。この町にいる他の住人だろうか。それとも。よく見れば、彼はこの中で最年長である。
配膳が終わり先の女性2を含めた10人が席についた。雑煮と厚揚げの煮物、麦飯と味噌汁が並んでいる。
「いただきます」
手を合わせぬ者、声を出さぬ者様々であったが、意外でもなく保洲波久は低くそう呟いて一等長く手を合わせていた。何となくこの中年の生き方というのが見えてきた様な気がする。ただ封建的田舎親父と断じるべきではないかもしれない。
「あの、夕方頃に到着いたしまして、お邪魔しております。山形市の方から参りました空風鈴と申します」
沈黙に窮して声を上げた。
「
この中では一番太った眼鏡の男が軽く会釈しながらそう言った。縁の太い緑の眼鏡である。弟。その割には随分若いな。
「
長髪の女性がそう言った。少女といっても良いかもしれない年齢だが。随分と綺麗だ。ここで言う綺麗というのは美醜の観点ではない。身なりの話だ。男女問わずここにいる数人は髪が傷み、肌も服も日に焼けている。対してこの宇間史華にはそれがない。どうにも小綺麗なのだ。その癖周囲の空気が澱んでいる。これも感覚的な話でしかないけれど、玄関左手の廊下に近い様な暗がり感というか……。
「
弟。宇間史華もそうだが、若すぎないか。保洲大亜と下手を打てば10歳くらいの差がありそうだ。格好は比較的都会的。服に化学繊維が多いだけでこうも印象が違うのか。隣に大虫可生が座っているけれど対照的で面白い。
「
うん。知っていた。宇間四佳と宇間子夏、この2人異様に距離が近い。2人ともそこそこ髪が長いのだけれど、下手を打てば互いの髪が絡んでしまいそうだ。
「で、こいつは
「こんちは」
「んん!よくできました」
大虫可生は膝に載せた少女を撫でながらそう言った。幼稚園生くらいだろうか。赤い半纏を着ている。席についた時、どこからか現れて大虫可生の膝の上にちょこんと飛び乗った。
先に出会った4人を含めるとこれで9人。成程大所帯だ。増築もやむなしということか。宇間夫婦はどこか別な場所に居を構えているのだろうけれど、この様子だと普段から人の出入りがあるのだろう。
大虫甲が椀の汁を啜り始めると皆思い思いに騒ぎ始めた。畑がどうとか車が壊れたとか土竜は今年は多かったとか。家の造りが不可思議で所々暗いから妙に陰惨とした印象があったけれど、こうして見れば保洲邸はそれなりに円満な家庭なのかもしれない。
ただこの段に至っても本題に入らないのは一周回って不気味とも言える。
「空風さん。あんた勤め先が学校ってのは本当なのかい」
宇間四佳が肩を寄せて話しかけてきた。僕の隣は右が彼で左が大虫可生である。
「ええ、小学校で働いています」
「……先生ってのは、どうやったらなれるんだ?」
やや神妙に声を落として、周囲の喧騒に会話を隠す様にそう言った。
「教職の勉強をまずは自分が修めないことには始まりませんから、大学校に行くと言うのが1つ」
「……ああ」
「もう1つは、これは多分先生になると言うよりも先生であり続けるために必要なことかもしれませんが」
細い目、窪んだ眼窩。この部屋に来てから妙に精気のない表情をしていた宇間四佳が、その時ばかり灼熱の何かを虹彩の裏で燃やしている様に見えた。
「生まれくる子は皆尊い」
「っ」
「そう思うことです。どんな子であれ、それだけは変わりません。生まれくる命は一つ残らず不可欠です」
「先生は今もそう思うのか。既に忘れた初期振動や朽ちて滅びた初心ではなく」
「今もそう思いますよ。言ってもまだ教師2年目ですけれど」
そんな心にもないことを、僕は決然と彼に伝えた。宇間四佳は何やら憧憬じみた視線を僕に向けている。しかし悲しいかな、君の眼前にいるその男は保洲大亜の話を聞いて後即座に君の甥っ子を見捨てようとした酷薄な冷血漢だ。そして己が仇の匂いに誘われてやっぱり手を貸そうと思い直したどうしようもない復讐鬼である。
だから頼むよ。そんな風に見るのは辞めてくれ。
「本音かね、今のは」
保洲波久がそう言いながら割り込んできた。
「先生。本気でそう思うかね」
「はい、本気でそう思います」
「……分かった。食事が終わったら一緒に来てくれ。話がしたい」
「承知しました」
団欒の会話はそこで止まった。食器の音が部屋の中に響いている。少し食事の味が濃くなった様な気がした。
皿の中はじきに空になる。
──────────
「こっちだ」
夕食が終えた僕は保洲波久に連れられて件の廊下を歩いていた。玄関左側、茶の間から見て正面の、あの薄暗い不気味な廊下である。並ぶ襖の向こうには一体何があるのだろう。部屋は恐らく4つある。手前側はわからない。2番目に通り過ぎた部屋は多分仏間だ。3つ目は、何だろう。これもわからないな。
「ここだ」
そして最奥。そこが目指す先であった。戸の前に立ってみると部屋の中に神棚があることが分かった。
「
「は、はい」
声が返ってきた。男の子の声が。
襖が開く。部屋は10畳程で中心に布団が敷いてある。窓があるのだろうけれど障子が閉められていた。恐らく長いこと開けていないのだろう。桟に埃が溜まっている。布団に横付けする様に本物の膳があって、その上には僕らが先程いただいた食事が乗っていた。食べた形跡があるけれど余り減っていない。その他に部屋には箪笥と客室にもあった書生机、その他本棚やランドセルがあった。
子ども部屋。いや違うな。子ども部屋の中身の部分をそっくり持ち出してきたのだろう。
「亜市、布団から出てきなさい。今朝話した先生が来てくださった」
布団がもぞりと動いた。しばし蠢動が続く。数秒の沈黙が続いた。
もぞり。
「あ、あの」
蠢く布団が喋った。
「化物が
「そんな化物は存在しない」
「え?」
「空気を介して人に媒介する化物など、そんな物はこの世に存在しないよ。憑き物も同様、伝染ったりしない。だから出ておいで亜市君」
再び布団がもぞもぞと動く。
「わかり、ました」
そう言うと、掛け布団の端から指が現れた。
毛むくじゃらの指が。
のそり。
「あの、僕は
そう話す少年の顔には口がなかった。それどころか目も鼻も見当たらない。いや、ないのではない。単に見えないのである。長い体毛に隠れてしまって。
こちらに向いて正座する保洲亜市の顔は首は手は足は、全て茶色の体毛に覆われていた。
まるで獣にでもなったかの様に。
「半年前からこうなった。このあたりじゃ同じ症状の子も増えていると聞く。んだが、多分うちが最初だろう」
保洲波久は障子の方に目をやりながらそう言った。
「病院には行ったんですか」
「そこの診療所に行ったんだが、判らんと言われたよ。見たこともないと」
それで憑き物か。まあこの集落の町医者にどうこうできる事案ではあるまい。
「猿でも憑いたのではないかと。そう言われた」
保洲波久は言い終わる前から消沈していた。避けられぬことにしろ、僕はこの人に何てことを言わせてしまったのだろう。自らの子を猿と評されたのだ。そんな記憶掘り起こしたくもないはずだ。日常に埋没し心の土中で分解者たちの餌食になるべき追憶だ。
畜生め。医者がそれを言うたのか。分からぬ物を分かろうとせず、あまつさえ子どもを見捨てるなど。ならば貴様の方が猿ではないか。
いけない。顔の見えぬ相手にいきり立っても仕様がない。
「厭なことを思い出させてしまいました。どうかお許しを」
「いいんだ。というか、お前さんにはもっと早くにことの次第を伝えるべきだっんだ」
「あ、あの先生。その、怖くないんですか。こんな、お化けみたいな」
「怖くないよ。君は僕を取って食ったりしないだろう?」
「それは、食べないですけど」
「それに君がお化けになったかどうかは君が決めることじゃないだろう」
「そう、なんですか」
「もちろん。僕はこれまでそこそこお化けをみてきたのだけれど、君みたいに礼儀正しいやつはいなかったよ。僕からすれば、これだけで既にお化けかどうか怪しいね」
「でもこんな姿ですよ」
「人間は割と簡単に変形する。科学の世界でもままあることだ。それだけで化物とは言えないね」
「じゃあ、これ、病気ですか」
「それもわからない。だが今決めることじゃない。医者は匙を投げたと言う。科学の世界の専門家がだ。なら今度はお化けの側から色々探ってみればいい。僕はそれをやりに来たんだ」
よくわからない。多分そう思っている。可愛い子だな。顔面が毛に埋もれていても何となく表情が読み取れる。
「だから自分で、自分で化物なんて言っちゃあいけないよ。ましてご両親の前で。まだ君は人間なのだから。人でいることを諦めたら本当に化物になっちゃうよ」
びくん。
「と、父さん。ご、ごめんなさい、」
おお。聡明な子だな。目の前にいる初対面の大人が何を言っているのかは正直あんまり分からないけれど、何を言いたいかは何となく感じられる。聡明だ。
「あ、うん。そうだな。しかしこんな病気は……」
「なきにしもあらずです。いくつか心あたりはあります。そのためにも、亜市君。腕を見せてくれるかい」
「腕ですか?」
そう言いながら彼は袖を捲り上げた。力瘤の山頂あたりまでびっしりと毛が生えている。けれどそこまで。意外にも剛毛の侵食(この表現が正しいかは正しくない様な気がするが)は胴体まで及んでいないらしい。
「亜市君、これ、この毛が生えてきてるのってどのあたりかな」
「手と脚と首と、あと顔です」
体の末端部位に毛が生えているのか。
「よし。分かった次は足だ」
毛に覆われた細い脚がこちらに差し出される。足ではなく脚が。なぜだろう。毛が生えているのは踝よりも上の部位だ。それより下はつるりと素肌が見えている。長く臥していたのだろう。床ずれの痕が見受けられる。さて上方向へ広がる茶色の毛はまたも胴体、いやそも股関節にすた到達せず腿の中頃で停滞していた。新手の股引きの様だった。確かにこう見ると猿の毛にも見えなくもない。だが手に関しては指の先まで毛むくじゃらである。
「いっ」
「ああ、ごめんね。」
毛を引っ張り過ぎてしまった。きちんと感覚があるようだ。これは間違いなく保洲亜市の体毛である。
ある日突然毛量が増えて、それが全身を覆い尽くす。確かにそう言う病気はないでもないが。
「波久さん、亜市君がこうなる前に何か変わったことはありませんでしたか。たとえばそう、新しい薬を飲み始めたとか」
「ないねえ。始まりがいつになるか正確には分からないんだが、少なくともそう言うことはなかったはずだ」
ないのか。だが恐らく。
「分かりました。でしたら明日、彼以外に同じ症状が出ているというご家庭に伺ってみましょう。それでいくつか判じられることがございます」
「本当か!」
「ええ」
そうだ。もし同様の症状が見受けられるなら。
これは憑き物じゃない。
「先生、その。僕は、治るんですか?」
「治るよ、だってそれはお化けじゃないんだもの」
──────────
一先ず保洲亜市を寝せてから僕も客間に戻ってきた。
「思ってたんと違かったなあ」
猿憑きと聞いていたからてっきり精神病や気狂いを想定していたけれど。全く別のパターンだったな。毛が生えてくるって。確かに変化の怪談染みている。正体が解らん。何だあれは。
「んだが、とりあえず病であるという解釈を付与するのはアリな攻略法だったな」
化物、お化け、憑き物。まあ言い方は何でも良いのだが、そういう「尋常ならざるもの」が生じるにはそれなりの条件がいる。例えば、誰かにその実在を望まれているとか。口減しにまつわる子泣き石伝説とかが大概そうだけれど、あれは昔の集落に子を捨てるための岩があって、そこに子どもの魂が宿っていたら単に幼子が死にゆくよりも生者が納得できるから生じたという側面がある。座敷童子なんかもっと分かりやすい。あれは富の偏在に対する解釈の一種だ。急に稼ぎが良くなってどこかの一家が富めるなど、とてもでないが納得いかない。そう思った観測者の解釈が生み出したのが座敷童という妖怪だ。あそこには神様的妖怪が憑いているから儲かっている。だから遠野の座敷童子にしろ龍宮童子にしろ、結末として家の衰退、繁栄からの転落というある種のオチが用意されているのだ。おらほだって頑張って生きているのに、お隣の某さんだけ裕福なんて、そんなの、背後にどんな理屈があろうと主観的理不尽に違いないのだから。
で、あってるだろうか。前述の通り、この辺大体友人からの受け売りである。
他にも化物が生じる状況はあるけれど一番多いのはこのパターンだ。
閑話休題。その点において今回のことは唐突すぎる。猿が憑く現象であれ猿になっちゃう現象であれ、誰もそんな変なことは望まないだろう。少なくとも今見えている情報からは考えずらい。
考えずらいなら、考えなくても良いんだ。そう言う病に罹った。そう思えば、この科学の時代にそれ以上の解釈の余地はないだろう。幸いに近い病は存在する。
多毛症。遺伝による先天的な場合と薬害などによる後天的な場合があるけれど、どちらにしろ症状として今回の現象と類似点が多い。これに結びつけて、いっそ町中がそうあれかしと思ったならば多分多毛症になるだろう。
憑き物、呪い、幽霊、生き霊。そう言う尋常ならざるものに起因する現代科学の埒外の症状。
僕たちはかつてこれを
夜昧に対する特効薬は科学の世界の病として再度分類してやることだ。みんなで一生懸命に「これは普通の病気です」と思い込み続けるのだ。すると症状は病のそれに収斂する。
夜昧を信じる者がいなくなったら、は夜昧は病に変わる。
保洲大亜は確かに夜昧に罹っている。
多毛症は決して軽い病ではない。しかし、理不尽に命が取り殺される可能性は低いと言える。ならばそちらに導くべきだ。このまま猿の憑き物として扱われ続ければ、下手を打つと保洲亜市は本当に猿になってしまう。
そんなのは駄目だ。絶対にそれだけは駄目だ。止めないと。
「先生、まだ起きてらっしゃいますか」
机に向かって頭を捻っていると扉の向こうから保洲大亜の声がした。
「ええ、どうかなさいましたか」
「少しお話ししたいことがあるのですが、お時間よろしいですか」
「大丈夫ですよ。今開けますね」
扉を開けると寝巻きに着替えた保洲大亜が立っていた。洋服の寝巻きである。薄ピンクのボタン付き。
「遅くにすみません。その、息子にお会いになったと伺いまして」
「ええ。まだ断定的なことは申し上げられませんが、少なくとも猿の憑き物ではないかと思います」
っ!。息を呑むとはつまりこういうことを言うのであろう。保洲大亜は目を見開いて膝から頽れてしまった。
「よかった。よかった……」
そりゃあそうか。親は、子が病めば悲しいのだ。心配なのだ。それが正体不明の何かだとするならば尚更である。
「恐らく科学の領域の問題です。むしろ戦いの本尊はここからですよ。まずはそうですね、お医者探しからでしょうか。僕もお手伝いしますから頑張りましょう」
「すみません。そ、そうですよね」
よろよろと彼女は立ち上がる。差し伸べた手は辞されてしまった。
「でも嬉しくて、安心してしまって」
泣いている。僕は彼女の背を必死に摩った。恐らく彼女にとってこの涙は好いものである。それはどんな形であれ息子への愛情の一片であると同時に、今まで堰き止めてきた感情の発散なのだから。
じゃあ。学校で見せた保洲大亜のあの態度。あれは何だったのだろう。憑き物とだけ僕に告げ病状はほとんど教えることはなく、しかも助力を拒否されたと見るやあっさり引き下がろうとした。まるで何か安心したように。
「そうですな。よく辛抱なさいました。目に見えぬ者に対し、あなた方は立派に戦っておられる」
保洲亜市。特にあの子は特殊な子であった。自らを化物と断じて人との接点を恐れる一方自棄になっている素振りは全くない。しかも、あれは多分症状とは因縁のない平生からの気性なのだろうけれど、随分と賢い少年であった。こちらの言いたいことを類推し、言っていることの難解や不可思議に照合する力がある。由来が何かは知らないけれど素晴らしい気質だ。
「ありがとうございます。先生。本当にありがとうございます」
よかった。こういう古い集落だと憑き物であった方が都合が良いという場合もある。現状見えている限りはそんなことはないようだ
「波久さんにもお話ししましたが明日周辺の調査を行います。そこから最終的な判断をして病院の紹介をいたしましょう。僕自身は医者じゃありませんで、すみませんがそこから先は本職の先生方にお任せする形になるかと」
「十分でございます。本当に、ありがとうございました」
保洲大亜は去った。想定以上に感謝されてしまった。正直に言って、拍子抜けだ。先にも言った通り、子の健康と生存よりも体面や習わしを優先する碌でなしがこの日本には大勢いる。夜昧に罹るような家は殊更に。その意味で例外に位置する保洲家は本当に奇妙な存在だ。
奇妙。本当に奇妙だ。家の内側に夜昧を起こす原因が全く見つからん。
町中に波及しているというのも意味がわからん。
がたり。
「っ!」
今僕が座っている書生机から見て左、障子の向こうから音がする。窓が開いた。
からからから。
しとち、しとち。
粘性を感じる何かの水音。その後ろで聞こえる外の風音。入ってくる外気。その冷たさの所以は、果たして晩秋の夜が故か或いは。
ポケットの中の備えに手を添える。高熱になった背中の皮膚を冷たい汗が滑り落ちていく。
ずじゅじゅ。
真一文字。障子に何かの液体が擦り付けられた。筆は、手か?小さな手。
からからから。
窓が閉まった。いかん、逃げられる。何をビビっているのだ僕は。
立ち上がり障子を勢いよく開けた。たああんと小気味のいい音が鳴る。
いた。
庭の畑の中に一匹の獣がいた。ぬらぬらとした生白い塊。痩せ犬程の体躯。獣なのは間違いない。だが、それが何の動物なのかは皆目分からぬ。4つ足なのは見て取れるけど尾っぽは持たぬようである。毛は、生えていない。尻をこちらに向けて前傾に蹲っている。
にたあ。そいつがゆっくり振り返る。片目のない、蛙。反射的にそう思った。眠たげな眼球は確かにこちらを見ているけれど瞳は僕を見ていない。否、目なぞそも見えていないのだ。露出した片方の真っ暗な眼窩の方にこそ、僕は睨まれているような気がした。
にたあ。笑っている。確かに笑っている。横に広い口。これもどこか蛙っぽい。上唇の右端には不自然な裂傷があり裂けた所からめくり上がっていた。その後ろには、人間の歯。獣のそれじゃない。鼻は潰れ曲がっている。
「ききい」
まずい。叫んだ。来るか。
思うや否や、そいつは夜の闇へと消えて行った。4本の足を器用に使って。まるで猿の様に。
「はあ、はあ、はあ」
帰った、のか?何だ今のは。実態のある、化物。間違いない。あれは化物だ。ダーウィンすらも慮外に追い遣る生物科学の埒外だ。アルビノの猿だとか巨大蛙とかじゃあ断じてない。
直感だけれど、例えばあれに何らか意思や目的があって仮に僕に害意を向けてくるのなら、僕は対処ができないだろう。多分あれはそう言う類の存在だ。
保洲亜市。彼を守るなどとてもではないが……。
「……」
腹を括るか。身の危険や体裁を気にする状況ではないらしい。頼れるものは頼らねばならん。
ひとまず障子に残った薄緑色の真一文字は持ってきた藁半紙を添えて隠した。こちらの欺瞞は後で考えよう。それよりもやることがある。
部屋を出る。まだ9時だ。起きている10人もいるだろう。女性の寝床に押し入りたくはないのだが、最悪保洲大亜を頼るとしよう。
「先生大丈夫か。凄い音がしたが」
大虫可生。良い所に。
「すみませんうるさくしてしまって」
「いや、何でもないんならいいんだが」
「すみません。出会ったついでで申し訳ないのですが、電話の場所を教えていただけませんか」
「いいけど、こんな時間にどこへ電話するんだ?」
「古い友人に、助力を頼もうと思いまして」
空風鈴の人類学習 田螺一寸 @DairaIssun
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