空風鈴の人類学習

田螺一寸

第1話 猿の憑き物 その1

 生月台きづきだい小学校が建てられたのは大正15年の事である。先の大火事の教訓から材の多くに赤煉瓦と鉄とを採用し、加えて当時としては特例的に消化器の配備を実施した防火に秀でる堅牢な校舎である。曰く山形市北の大火から立ち上がる市民の姿に胸を打たれた数名の資本家が協同して金を出し合い、半ばこの地に対する支援の様な形で建てられたのがはじまりだとか。私立小学校の割に入学金が安かったりするのは、恐らくそういう創設時の思想的部分が深く関わっているのだろう。それが先の大戦を越えて昭和の今まで残っているのだから誠立派なものである。焼け跡から立ち上がる人間の魂が呼んだ学校は戦火にすら勁いのか。

 唯一の謎はどうして大学校ではなく小学校を建てたのかということである。山形高等学校が直前に設立されたからだろうか。にしたって当時は私立の小学校など全国で見ても指折り数えるくらいしか無かったはずだ。無論手習い塾の様な機関はいくつかあったと聞くしいくらかは現代にも残っているが、看板に私立小学校を掲げた連中は殆どいない。はじまりの数名には何か想う所あったのだろう。

 そんなことを思いながら僕は職員室のカーテンを開けた。校庭には未だ誰も居ない。初冬の雪が朝焼けに染まり赤紫に輝いているのみである。足跡の類は見つけることが出来なかった。まっさらな、美しい雪景色だった。

 生月台小学校の標高は非常に高い。山の裾野の棚田を潰し市内全域を睥睨する様に建っている。だからこうして校庭を眺めていると、必然その周縁の向こうには街場の景色が見えるのだ。巨大な遊具と小さな街。遠近によって縮尺が狂った様な一枚絵だである。窓を開けずとも快い晩秋の澄んだ風が鼻と喉に吹いた気がした。

 かんかんかんかん。職員室の端の方から金属がなる音がする。石油ストーブがなっているのだ。正確には石油ストーブの頭上で沸いた熱湯が薬罐のアルマイトを震わせているのである。半ば駆け足で僕は湯に取り付いた。ストーブが置かれた南東の壁際には食器棚と蛇口、そして高足を履かせた机がある。机上には珈琲豆をフィルターに乗せた大振りなポットが置かれている。赤い琺瑯の加工で、蓋を閉じればどこか消火栓を思わせる可愛らしいポットだ。薬罐を蛇口で少し冷やして僕は珈琲を淹れ始めた。始めは全体に湯をかける。そしてしばし蒸らした後、中心部に狙いを定めて細く 細く注ぎ続けるのだ。ぐるぐるぐるぐる。醤油瓶の蓋ほどの径をなぞるようにして注ぐ。むんわりと芳香が漂うと同時に始め白かったはずのフィルターがみるみる茶色に染まっていった。灰汁と油とを吸っているのだ。そして湯が入る前は漏斗の半分以下までしか充填されていなかった珈琲は今やハンバーグの様に膨らみ縁の所まで登ってきている。回す。手を止める。一旦水位を低下させる。また湯を入れて回す。この繰り返し。薬罐の中が軽くなった所でおしまいだ。僅かに水が残るくらいが適量である。フィルターの中身が落ちきる前に流しへ漏斗を移動させ薬罐のお湯をポットへ注ぐ。暗い黒色だった中身が微かに茶色に変化する。フィルターと漏斗を処理してから僕は珈琲を伴い自分のデスクに戻った。

 そこまで行って、僕はポットを抱えたまま立ち尽くした。机上に隙間がないのである。先程まで授業の用意をしていて散らかり放題になっていたのだ。

「疲れてるのかな」

 どうしようもなくなって珈琲を一旦床に置いた。国語算数理科社会。平積みになった教科書類をブックエンドに挟む所から始める。プリントとノートで埋まった机上に長方形の空間が空いた。そこに琺瑯を座らせる。次に散乱したノートの処理だ。教科ごとに各1冊、そして全体の総括に使う日記的な物が1冊、提出物の管理に使う物が2冊、雑務管理用の手帳が1冊、計9冊を足下の買い物籠にしまった。岩下の虫の様に潜むプリント類は各教科のノートに食べさせた。あとは文具を筆入れに詰めれば形だけの明窓浄机が出来上がる。

「ふう」

 珈琲をマグに注いで頭上の眠気を飲み下した。旨い。というよりも一息ついたという実感が心地よいだけである。ブラックの深みだとかモカの酸味だとかマンデリンの苦みだとか。そういうのは正直わからない。ただ明確に苦手な豆と受け付けいない淹れ方があって、それを避けた結果今のこのこれに、何だか拘りじみた習慣が染み付いてしまった。さっき喩えに出したけれど酸味の強い珈琲は苦手だ。格別浅煎りの豆はどうしても飲めぬ。古い友人が一時期それに大いにハマり、家に行く度珈琲を所望すると酸っぱい物ばかりが出てくる時代があった。そう言えば、あいつは逆に深煎りの珈琲を不得手としていた。飲むのも、淹れるのもである。その意味で僕と奴とは同好の士であれど決してその線が重ならぬ嗜好をしていたのか。思えばそういうことが結構あったな。本の好みなどその最たるものだ。僕は由利麟太郎が好きで、あいつは金田一が好きだった。それで20年友達をやっているのか。格別意識したことが無かったけれど珍妙な縁だ。

 がらり。

「おはようございまあす……って、すずまだ居たのか」

 言いながら初老の男性が入ってきた。細い金縁の厚い眼鏡に大きな碧眼が縮んでいる。人の良さそうな垂れ目の男だ。背丈は僕よりも小さいが横幅は僕2人分程ある。コートを脱いでスーツ姿になってもそれは変わらない。

「おはようございます。校長先生。色々やってたら朝になっちゃって」

 この人がウチの学校の校長である。手合護てあいまもる43歳。先代校長の教え子で8年前からここの長をやっている。お人好しで気が弱くて、その癖妙に頑固者。

 格好良い大人である。

「根を詰めすぎるんじゃないよ。授業に凝ってくれるのはありがたいんだけど、そのまま行くと君、体壊すよ」

「すいません。気をつけます」

「そう言って気をつけた試しがないだろう。あ、珈琲頂戴」

「そんなことないですよ」

 言いつつ、僕は食器棚から校長のマグを取り出した。

「余計に無茶しそうだからあんまり言いたくないけど、まあ好評だよ。君の授業。特に君が持ってる1組の子たちは成績も明らかに伸びてきてるし、何よりも聡明になった。聡明だよ彼らは。虫一匹捕まえても、私があの歳の頃なんかは虫籠で飼うか精々友人と大きさを競うくらいだったが……山下東真やましたあずまくん。彼は凄かったよ。こないだ校庭で話たんだ。夏の終わりだったかな。精霊蝗虫を捕まえて、深刻そうに私に見せてくるんだ。どうしたのかと尋ねると、羽の色がいつもと違うって、校庭の草が病気になってるんじゃないかって、そうしきりに訴えるんだ。実際そんなことは無かったんだがね。単に隅の方に除草剤を撒いたから食う方も枯れ草色になったってだけだったんだけど。でもそういう見方ができるのが素晴らしい。ポツポツと佇む現実を一連なりの事象として捉えられるあの視座。正直ね感動したんだよ」

 山下東真。本好きの闊達な少年。図書室でヨダカの星を読んで突然泣き出した純朴な男。少し背伸びしがちで、果てしなく難解な顔をしながら痴人の愛を読んでいたこともあったか。その子が校長に神妙な面持ちで飛蝗を見せている。うん。凄く想像し易い。

「彼の興味への真っ直ぐさ加減は凄まじいですからね。近頃は少々大人振りたい年頃なんでしょうが、それでも毎日楽しそうで。こっちまで嬉しくなりますね」

 僕は珈琲を差し出した。

「あの子、昔はあんな感じじゃなかったんだよ。知ってるだろう?」

 校長はカップに口を付けつつ、どこか虚空でも見るようにそう言った。

「ええ」

「だからこれは、この一年のおかげだ。誇りたまえよ」

「ありがとう、ございます」

「故にこそ、我々は君に倒れられでもしては敵わんのだ。ほれ」

 そう言うと校長は黄色い紙を一枚差し出した。

「これは」

「東青田の方にある温泉の券だ。まだ6時だ。他の先生方はしばらく来られんだろう。今の内に行っておいで」

「い、良いんですか」

「良いんだよ。ほら、早く行ってきたまえ」

「ありがとうございます」

 僕は軍属の無能な新人さながらに勢いよく頭を下げた。清純な部下を気取ったからである。決して落涙を見られたくなかったからではない。

 外套を羽織り、職員室の戸を開ける。出掛け、もう一度振り向き手合護を見据えた。

「先生」

「ん、どうした」

 校長はこちらを見ない。鞄から出した新聞読みつつ珈琲を啜っている。

「ありがとうございます」

「む。行ってらっしゃい」

 ああそれと、と。今度は僕が呼び止められる。

「ストーブ。残業する時はちゃんと使いなよ。私が来る直前になって慌てて点ける道理もないんだから」

「わかりました。お言葉に甘えます」

 学校から温泉までは徒士にて20分程の時間を要する。斯くて僕はフェアレーンに乗り込んだ。車内は恐ろしく冷えている。乗り込む際、ガラス戸に触れた指先が雪玉を握ったかのごとくに鋭く痛んだ。

 街はまだ静まり返っている。道中最初に見えてくるのは平清水の窯元の煙だ。職人は一晩中火の番をするのだ。一時期に比べこの辺りの窯元も減ってしまったが、近頃は新式の製法で作った器がじわりじわりと評判を集めているのだとか。名前は梨青磁と言うらしい。僕も湯呑みを1つ買った。淡い青色に鉄と松との色が浮いて、何とも涼やかな器である。僕は余り呑めない質だが、ああいう器があると一杯呑んでみようかという気まぐれが起こらんでもない。

 10軒程の窯元密集地帯を抜けると、松見を通り過ぎいよいよ東青田である。見えてきた。目当ての温泉というのは民家に併設、否増設された小さな露天風呂である。というのも、元はこの家の庭であった所に家主が池を作ろうとして勢い地盤を削った所、地中から温水が吹き出したのが始まりなのだとか。何とも嘘っぽい。真偽の程は確かではない。だが入ると体が癒されるから薬効ある正真の温泉であることには間違いないらしい。それともう一つ、ここの温泉が素晴らしいのは朝5時というとんでもない時間から殆ど毎日営業していることである。休むのは盆の時だけだ。

 車を停めて玄関に歩み寄るとノックをする間もなく扉が開いた。

「朝っぱらから何だね先生。仕事着だろそれ。偏屈が窮まって首になったか」

 偏屈が窮まって仕事どころか死後も眉間の皺が消えなさそうな、不機嫌な顔の老人が現れた。真っ白な髪は肩の辺りまで伸びて両耳は殆ど覆われている。服装は髪と同じ白色の着物で下手を打てばまるで幽霊の様に見えなくもないけれど、妙に旺盛な生命力とシャンとした出で立ちから死人の様な印象は受けない。

「違うよ。残業してたら手合先生から無料券いただいたの」

「あれも人好が過ぎるというものだ。お前みたいなのは勝手に根を詰めて勝手に仕事を凝り始めるんだ。そっから先はあいつが関知する所じゃないだろうに」

 この人がここの家主の水林満みずばやしみつるである。手合先生とは大学の同門でありかつて平清水の小学校で教鞭を振るっていた。御年63歳。元気なものだ。

「僕もそう言ってるんだけどね。ただ、正直よっかかってる感は否めないよ。先生の優しさに甘えて僕は生きてる」

「だろうな。じゃなきゃお前の性分で無料券こんなん貰っても絶対遠慮するだろう。手合の奴は……半ば親心なんだろうさ。困った男だ。その上こんな時間から愛息子を厄介な先輩の所に寄越すのだから」

 本当にお節介が過ぎる。老人はそう結んだ。

 民家にしては長い渡り廊下を進むと2枚の扉が正面に現れる。片方が赤く、片方が青い。

「この時間に来る女人もいないだろうが、まあ一応男湯に入れ。下らん事情で子らからの信用を失いたくもないだろう」

「女湯なんか入んないよ。何だと思ってるんだ全く」

「入ってくれた方が安心なんだがな」

「何?」

「なんでもない。とっとと入って仕事に戻れ」

 脱衣所の内部は簡素な造りになっている。ストーブが1機中心にあってあとは竹編の籠が壁際に並べられているだけである。店主はがあの調子なのに何度見ても壮絶な性善説設計だ。更に言うなら、女性の脱衣所との壁も非常に雑である。薄いのではない。雑なのだ。真新しい木の壁が取って付けた様に設置されている。その他の面が順当に古びているおかげで絶妙に不可思議な空間に仕上がっていた。浴室に進んでもこれは同様である。横開きの戸を開けた。全体を高い柵で覆われた浴室内にはシャワースペースが3つある。そして仕切りの壁に断面を向ける形で半円型の湯船が中心に設置されている。これは女風呂も同じであった筈だ。去年の暮に大掃除を手伝った際に確認した。

 さても全くの無人である。体を洗ってから湯船を目指した。床面は木の板になっているのだが、こいつがとにかく冷えている。適度に湿り、それが外気に触れることでキンキンになっているのだ。半月からもうもうと立ち込める真っ白な煙がこの時ばかりは婀娜に映った。足先から湯に体を差し込む。途端痺れた様な心地よさが伝わって、それから我慢できなくなってゆっくりと全身を湯船に浸けた。

「あぁ」

 自らの物とは思えぬ声が喉の奥から漏れ出した。温かい。湯と表皮との境界がなくなるような心地である。いつぞや水林翁がここの湯は疲労回復の効果があると嘯いていたがあながちに嘘でもないかもしれぬ。いや、彼の言を完全に信じるならば、ここはそも偶然に沸いた秘湯である筈なので薬効云々が詳細に明らかになっているのは奇妙な話であるのだが。にしても佳い湯である。

 しばしして、名残惜しさを残しつつ僕は浴室から這い出した。湯煙に後ろ髪を引かれすぎて後頭部がツルリと禿げているやもしれぬ。外が寒い。脱衣所では気持ちストーブの側へ寄ってしまう。体を拭きいそいそとシャツに袖を通した所でガチャリと戸が開く音がなった。

「おい、先生。上がったか」

「うん。ありがとうございました」

 水林翁はわざとらしくフンと鼻を鳴らした。コンテクストも何もあったもんじゃない仕切り直しの一声である。

「着替えたらロビーに来い」

 そう言うと彼は返事も待たずに脱衣所を出た。

 スーツを着直して、水林翁がロビーと呼ぶ茶の間に行くと座、卓に稲荷寿司とたくあんと大根の味噌汁が置いてあった。玄関前の、フロントの方から声がする。

「俺はこれから飯にする。食ってけ」

「いいの⁉」

「悪けりゃ出すか。莫迦者」

「ありがとう」

 言って僕は席に着いた。茶の間の床は古い畳なのに毛羽立った所が見当たらない。その上に、座布団が2つ。その内の1つに正座した。少ししてフロントから水木翁がやってきた。

「何だ。待ってたのか」

「うん。せっかくだから」

「何がせっかくだからだ全く。これから仕事だろうに、怠惰な先生だよ」

「まあまあ、いただきます」

 恨み言を言いながらも彼は大人しく僕と一緒に食卓を囲んだ。不機嫌千万の言動の割に飯の最中に新聞を開いたりしないし、やいのやいのとこっちの近況を慮ってくる。少なくとも僕にとって幸福な朝餉だった。

「最近どう?温泉繁盛してる?」

「こんな田舎で繁盛も糞もあるか。ぼちぼち、昔馴染が来るくらいさね」

「そりゃ良かった」

「今の話に良かった所があったかよ」

「あったよ。あの温泉は確かに本懐を為している」

「んな大仰なモン掘り当てた積りはないんだがな。鯉の池だよありゃ」

「じゃあその鯉はいずれ蛟になるね」

「八咫烏じゃあるまいに。それに俺は蛇を愛でる趣味はねえぞ」

「そうかな。水林先生なら蛇でも龍でも何だかんだと文句言いながら可愛がりそうなものだけど」

 裏手に移された鯉たちがぴちょんと跳ねた様な気がした。ここからでは姿も音も伺うべくもないのだけれど。

 そんなこんなしていたら気づけば時刻は6時50分である。食器を厨房へ運び水林邸を後にした。

「ごちそうさま。今度なんか持ってくるね」

「放っておけ。こんな老人なんか」

「やだよ。こっちが気持ち悪いもん。あと、また温泉詰まっちゃったとかあったら電話してね。来るから」

「良いからとっとと職場に戻れ。登校開始まであと10分とないぞ」

「うん。じゃあね。また来るよ」

 水林翁に別れを告げ僕は急ぎ学校へ向かった。徒歩で20分の道も車なら5分しかかからない。とは言えギリギリである。駐車場に車を置いてから半ば駆け足で階段を上がった。職員室は3階である。2回の踊り場を過ぎた所で1人の後ろ姿を認めた。

「おはようございます。須賀すが先生」

 後ろで括った長い黒髪。鴉の様な黒いコート。長身痩躯を極めた出で立ち。須賀砂波すがさなみ先生だ。教師の先達である。歳は僕よりも6つ上で生月台小に来るまではずっと仙台に居たらしい。

「おや空風そらかぜ先生。おはよう……ほう温泉上がりか」

 横に並ぶと同時にするりと背後に回られ襟元の匂いをすんと嗅がれた。

「!……よく分かりましたね」

「そりゃあ分かるさ。水林先生の所だろう。あそこは洗髪料が妙に高級なのを使ってるからね。匂いから違う」

 そう言えばそうである。水林邸のシャワーには見たこともない横文字のシャンプーが置かれている。あれはやはり格別良いものなのか。

「良いなんてものじゃないよ。あれは異国から仕入れた特別品だ。確か兵役の時に変な人脈が出来て、その筋から仕入れたと言っていたかな」

 そうだ。水林翁の経歴には奇妙な点が多い。何せ兵役以前のことが一切分からないのだ。その上終戦から5年間もの間行方を晦ましていたのだからいよいよ正体不明である。

 須賀先生は僕の左隣に移動し、今度は僕の顔をじっと見た。こうして並ぶと頭1つ分程違うのか。僕は果たしてそこまで体格の良い方ではないけれど、にしたってこの差は歴然である。2mくらいあるのかこの人。

「頑張るのは結構だが余り校長を心配させるなよ。見ての通りの小心者だ。罷り間違って君に死なれでもすると自責で舌を咬みかねん」

 小心者。そんな風には思ったことが無かった。手合校長と言うと、もっと超然として仙人みたいに周囲を見ている印象がある。太公望と言うより元始天尊である。

「はは、君からすればそうだろうさ。ちちのみの」

 今丸先生はそこまで言って

「これは過言か」

 と笑った。

 職員室には既に数名の教員が仕事をしていた。自分の机に戻る道程それぞれのデスクへ挨拶に向かう。昨年の夏と今年の春に色々あって大分不遜に暮らしているが、これでも僕は年少の新人教師である。教師歴2年目である。礼を失するのは良くない。挨拶ついでに先輩方数人から珈琲を所望された。見るとさっき淹れた分は殆ど空になっている。僕は再び水道の方へ向かった。最近ではこれが日課である。これがそんなに旨いのか、はたまたインスタントではなく本式のドリップをこれ見よがしに淹れている僕に対する先輩方なりの気遣いなのか、僕の側からは判然としないけれど何はともあれ形而上だけでも必要とされるのは嬉しいことだ。

「あ、あの!おはようございます空風先生」

 薬罐に水を注いでいると背後から小さく声がした。振り返るとボブヘアの旋毛があった。もじもじと左右に揺れている。

「おはようございます尾井おのい先生」

 そこにいたのは尾井鰾おのいほばらであった。僕と同時に生月台に入った教員である。歳は1つ上であるが故あって僕と同級なのだそうだ。心配になる程気弱で妙に遠慮がちな女性である。余談ではあるが、この名前にして手の施し様のないカナヅチである。夏場に馬見ケ崎川に出向いた際は水流に流される小枝どころか水底の礫さながらの水没を見せた。

「あの、ちょっとお願いがあるんですけど、いいですか」

「大丈夫ですよ。何かありましたか」

「それがですね。大学時代の知り合いがどうしても先生に相談したいことがあるって言ってて。面談をしてもらえないかなって」

 相談。僕にか。

 新任のぺーぺーの若造にか。

「それは、つまり学業の事でということでしょうか。僕は構いませんが、それでしたら他の先生方の方がよいお話ができるかと思いますが」

 僕以外に頼みづらくて。流石にそういうこともないだろう。

「そうじゃないらしいんです。その、何と言うか」

 態々僕に限定して話を持ちかける格別の事情。

「夏休みの時みたいなことだと思います」

──────────

「息子に猿が憑いてしまった」

 保洲大亜ほすだいあとの2時間に渡る面談は、畢竟その1文に要約できた。どこか居所無さ気に放課後の空き教室で縮こまる眼前の中年女性は、つまりそんな迷信じみた世迷い言を述べるために遥々この生月台小学校までやってきたのだ。大変なご苦労ではあるものの、そこに必然性や意義の類を全く感じないというのが僕の抱いた感想だった。仮にこの世に猿憑きというものがあったとして、それはこんな、僕の様な新人の小学校教員の領分ではない。拝み屋か祈祷師の仕事である。餅は餅屋とは能くぞ言った。小学校の教師に持ってくるならば国語の問題集などにしていただきたい。我が国の初等教育には神学も民俗学も含まれていないのだから。また仮にそんな憑き物なぞ実在せず猿がどうだと言うのがただの錯覚であったとしても、それもまた僕の取り扱うべき事案ではない。そも保洲大亜の息子は隣町の早物小学校の生徒である。なればそこの教員に思う様相談すれば善い。なぜに僕へ話を持ってきたのだ。

「あのう、その、それでですね先生。どうやらウチ以外にも早物町で同じ様な状態の子がるみたいで。そのう」

 保洲氏はまごまごと続けた。早物町というのは件の隣町の名前である。山形県の山間部にある集落でいつぞや僕も立ち寄った。どこまでもどこまでも続く緑の棚田が印象的な町だった。

「先生が!その、以前ことをしか実績をお持ちと伺ったものですから。その、申し上げにくいんですけど」

 いよいよ目が合わなくなってきた。わかってはいたがそういう文脈か。やはりあの様な連中には関わらないに限る。こういうことが起こり得るのだ。

「お力を貸していただきたいのです」

 さてどうしたものか。確かに僕は過去に、巷説に於いて怪談の如くに扱われていた事象を解決した経験がある。しかしそれは、僕になんらか加持祈祷の才があったり霊験灼かな経や札を扱える訳ではない。単に、その巷説が正しく街談巷説で根も葉もない空言だったからこそどうにかなっただけのことである。嘘は善い。理を以て糺せば正しき形に収まるのだから。

「申し訳ありません保洲さん。僕はただの小学校教員です。霊媒師とかじゃありません。猿の憑き物をどうにかしろと言われましても、そんなことは僕には……」

「そ、そうですよね。すみません私何を言ってるんでしょうか。猿憑きなんてそんな……」

 引き下がった。意外だな。てっきりこういう手合いはだらだらと粘ってくるものかと思ったけれど。

「お力になれず申し訳ありません。よろしければ……よろしければお祓いなど受けてみてはいかがでしょうか。何だったら知り合いの神主さんにお繋ぎいたしますが」

「ほ、本当ですか。じゃあお願いしようかしら。すみませんわざわざ」

「いえいえ、こちらこそ。せっかく市内まで御足労いただいたのに、何もできず」

「そんなことありません。本当にありがとうございました。何だか喋っただけでもスッキリしました」

 違う。あなたは何も喋っちゃいない。ただただ1つの論の周りを低徊していただけだ。

「それならよかった。では外までお送りいたします」

 保洲大亜は立ち上がる。僕は教室の戸を開けて彼女を待った。

「こういう言い方も変ですけれど、先生もどうかお気をつけて」

「はい。ありがとうございます」

 生月台小の廊下は異様に長い。各教室がとにかく大きいためである。煉瓦造りの壁に据えられた横幅2mの巨大な2枚窓からしてその特異性は明らかである。西陽が差して全てが朱色に橙に染まっていた。山を降りてから何度も思ったことではあるが、夕暮れの光とは、どうしてかくも赤いのだろう。いや、光の屈折と太陽の位置がどうとか、そんなことは了解している。そうではなくて、もっと原初的というか直感的に……粗雑に言うなら、たかが光の加減で赤く見えているだけの太陽光をどうして人間は斯くも美しいと感じるのか、という疑問である。風流人振りたい男だとか気取りたい年頃だとか、これを読む人がどう受け取ってくれても構わない。ただこうして里の夕日を目の当たりにすると、これを過ぐる日々の平凡な一コマとして見流すことはどうしてもできないのである。

「どうかなさいました?」

「いえ、なんでもありません」

 保洲大亜の後姿はこうして見るとより小さい様に思えた。巨大な窓のせいであろうか。僕と彼女との背丈の差は僅かに10cm弱だと言うのに。だのにそこには幼子と大人程のサイズ比がある様に感じる。

「先生。帰る前に1つ伺いたいのですが」

「何ですか?」

「その。猿やら何やらの憑き物というものについて、何かご存知のことはありませんか」

「申し訳ありません。格別知っていることは……」

「本当に何でも良いんですよ。憑き物でなくても良いんです。ほら海の方だと蛇のせいで病気がどうとか聞きますし」

 蛇。

「蛇」

 蛇と言ったか。

「蛇と言っ、言いましたか」

「え、ええ。ご存知ありませんか」

「知りません。それが海沿いの、一体どの辺りで」

永蒸ながむし町の方です」

 永蒸町。鶴岡と三川と酒田と海と、その4つに丁度囲われた極小の港町だ。確かに冷静に考えれば町の名前から瞭然か。何かあるのは。

 それよりも蛇と猿だと。

「保洲さん。そちらの事案について何かご存知のことはありませんか」

「い、いえ。すみません何も。ただウチの近所で憑き物が流行ったせいでそういう話も流れてくるようになったと言いますか」

 保洲大亜は酷く困惑している。当然だ。僕は今、恐らくまともな貌をしていない。

「そうですか」

「申し訳ないです」

「いえ、それとなのですが」

 赤い廊下。光を浴びてやや目を細める眼前の女性。その表情は既に困惑ではなく僅かな恐怖に警戒が混じったものになっていた。かまわない。今から僕は前言を翻す。

「そういうことでしたら、お力になれるかもしれません」

 僕は可能な限り、表皮の下に脈打つ憤怒を表情出さない様に心がけながら以下の様に続けた。

「猿の憑き物、この空風鈴そらかぜすずが祓いましょう」

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