1章:池の底⑦

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「逆藤さんが、お前にお礼言ってたよ」

 俺は大学の新食(新食堂)と呼ばれているフードコートで、百円のポテトを摘まみながら正面に座るイエシキに言った。

 彼女はトマトラーメンの麺を一本ずつ啜りながら、「うむ」と気のない返事をするだけ。

 当然、ホタル池の一件だ。

 俺達は車の窓やドアから外へと飛び出し、寸での所で無事脱出できた。イエシキの予想通り、俺達を囲んでいた男達は、触れることもなければ追いかけてくることもなく、落ちる車と一緒に池へと沈んでいった。池に消える瞬間、男達のけたたましい悲鳴のような声が聞こえたが、イエシキや鈿女ちゃんには聞こえていなかったらしい。

 その後は、電波の繋がる所まで歩き、なんとか警察に連絡。駆け付けた警察官にはこっぴどくお灸を据えられたが、車が池に沈んだことについては運転ミスによる事故で不思議とすんなり済まされた。

 ベテランの警察官から「ここは仕方がない。むしろ、よく全員生きてたな」と言われ、何かを知っているようだったが、誰もそのことを深堀しなかった。かなり疲れていたし、これ以上は関わりたくないのがみんなの本音だろう。

「被害もなく済んで僥倖(ぎょうこう)だったね」

「逆藤さんの車が被害に合ってるけどな」

 さすがに池に沈んだ車を前に逆藤先輩はかなり落ち込んでいた。しかし、イエシキは「命が助かったのに、贅沢じゃないかな」と呟き、イヒッと短く笑う。

「そりゃ、そうだけどさ。まぁ、それとこれとはってことでしょ」

 スマホを取り出し、ライングループからアルバムを開く。中には当日、各々が撮影した写真が入れられていた。

 スクロールしていくと風景や俺達の写真が流れる。行きの車内や駐車場に降りた写真では、みんなの表情も明るい。まさか、この後にあれほどの恐怖体験をするとは思ってもない顔だ。最後は遊歩道で俺とイエシキがみんなの歩く後ろでカメラに向かってポーズを取っている写真だった。このすぐ後に怪異が起こるので、以降の写真は誰も撮る暇がなかったのだろう。

 ちなみに、写真には俺達の見た三人組の男も、イエシキ達が見たホタルも写っていなかった。

「しかし、よく分かったな。絡新婦、だっけ? あの池にそんなもんがいるとはな……」

「そうだね。まぁ、嘘の部分もあるけどね」

「え?」

 あまりにもさらりと言ったので聞き逃すところだった。俺でなきゃ、見逃しちゃうね。

「嘘って、どの辺りが?」

「絡新婦のあたりかな」

「全部じゃねぇか!」

「いやいや、僕はあくまでも可能性の話をしただけだよ」

「なら、ホタル池のあれは何だよ?」

「僕が知るわけないだろ。何かがいたのは確かだね」

「じゃあ、俺達はお前のいい加減な話に命を懸けたのか?」

「対策として間違ったとは思っていないよ。あのまま、何もしなくても死んでいたろう。それに、どうして君はあれが絡新婦だと思ったんだい?」

「え……そりゃ、お前が言ったんだろ。それに結局、その通りになったし」

 少し戸惑いつつ答える俺に、イエシキは大きな目を挑発的に細める。

「池に向かう車内でも説明したが、僕が言ったことで君達は共通のイマジナリーを信じたのさ」

 確かに思い返してみれば、そんな気もする。

「イマジナリー……空想ってことか?」

「大切なのは共通の認識を持つことだよ。人間はそうやって古代から発展し、成長し、そして身を守ってきた」

「守って……」

「『奴ら』の存在をまともに認識したら、正気ではいられなくなる。そうなる前に、人間は『奴ら』に名前を与えて、イマジナリーで塗り固めたのさ」

「じゃ、あれは俺達が絡新婦だと思ってたから、絡新婦みたいなものとして現れてたってこと? 全部、妄想だったのか?」

「あの池には、確かに『奴ら』の何かがいた。そして、人間を池に誘っていた。それが事実であり、全てだよ」

 限られた状況下では最善の手だったと、取り付く島もない。

「池の中の奴が何をしたかったのか。食すためなのか、いたぶるためか、もしくは『あちら側』へと連れて行くためか……非常に興味深いが、さっぱり分からない」

 「池の底には何があったんだろうね」と一息ついてから、ラーメンを再び食べ始める。

「最善の手って、嘘なんだろ?」

 釈然としない俺の顔を見て、イエシキは嘆息しながら付け加える。

「逆藤君が話していた過去の事故。彼女さんは池に車が落ちる寸前、外へ放り出されたことで助かった」

「いやただの偶然かもしれんし、仮にそうであっても外でまた襲われる可能性だって」

「あるだろうね」

「あるだろうねって、あっさり言うなよ。結局はリスクの高い賭けだったってことだろ?」

「どうだろうね。少なくとも僕は絡新婦の標的ではなかったし、君はその体質から多分大丈夫だろう。万が一のことも考えられるが……僕らの他にも標的となりうる人間はいたからね」

「お前、先輩達を……」

 それ以降の言葉は飲み込んだ。こいつは、他のメンバー達を囮にしようとしたのだ。確かに、思い返してみれば、車から出るタイミングも何人か逃げた後だった気がする。座席の都合かとも思ったが、先に出た人間が無事逃げられるかを見定めていた……かもしれない。

 イエシキはただ、目を細めてニンマリと笑みを深めるだけで、肯定も否定しなかった。

「いいじゃないか。結果として全員助かった」

「お前、ホントに、怖いぞ」

「君はまだ分かっていないね。『奴ら』に遭遇してしまえば、できることは己の無知と無力さを恥じ、地を這い、首を垂れ、通り過ぎるのを祈り、耐え、潜むしかない」

 「もしくは」とイエシキは手の箸を俺へと向ける。

「ただただ自分が生き残るために、知恵を絞り、脳みそに汗をかいて考え抜き、行動すること。他人を気にするような余裕は、残念ながら人間にはないのだよ」

 挑発的に上目遣いを向けるイエシキに、無性に腹が立ったが言い返すことができなかった。代わりに、口を真一文字に結んで憮然とする。

 彼女の言葉は、実際に『奴ら』なる存在と遭遇した自分にとって、否定できないものだから。

 そんな俺を見透かしたように、イエシキは「イヒヒ」と独特な声を漏らして笑った。

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