1章:池の底⑤

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「早く、ここから離れましょう!」

 鈿女ちゃんは、半ば強引に全員を車に乗せると勢いよく口を開く。

 最初こそ自分達を驚かすための冗談とも思ったが、鈿女ちゃんの顔色が真っ白になっており、さらには小刻みに震えていた。一見して、異常事態なのは理解できた。

「逆藤先輩、車を出してください」

「どうしたよ? 鈿女さん。少し落ち着いて」

 窓際の席で身を丸くする鈿女ちゃんを、運転席から様子を窺う逆藤先輩はなだめる。同じ二列目に座る西湖さんも「何か、怖いものでも見たのかい?」と心配そうに覗き込む。

 誰一人、事態を飲み込めずにいた。

 何らかのきっかけがなければ、あれだけ明るく楽しんでいた彼女がこうなるはずもない。確か行きの車中で霊感があるようなことを言っていた。

 しかし、彼女は首を横に振る。

「見てないです。何も見てないから怖いんです」

 静かな車内で、小さな彼女の声は暗闇に消えそうなほどか細い。それでも、その後に口から飛び出した内容は、俺達に衝撃を与えた。

「それなのに、先輩達がいきなり誰かと話しだして、どこかに行こうとしたから……」

 血の気が引いた。誰ともなく「え?」とショックが漏れる。


 彼女曰く、ホタルを見ていたら突然、俺達が大声を上げ、そして誰もいない茂みの方角を見ながら会話するように話した。最初は、ホタルを見つけられない男性陣がふざけていると思ったが、どうにも様子がおかしかったのと、真っ暗な茂みの奥へと進もうとするのを見てさすがに怖くなったのだとか。


「先輩達、一体誰と話していたんですか?」

 そう聞かれても、同年代の男性三人組がいたとしか言いようがない。会話もしたし、実体もあるように思えた。あれだけしっかり見えて、幻覚や幽霊とは思えなかった。しかも、一人が見たならまだしも、逆に一人だけ見えてないのだ。

「私、霊感があるって言いましたよね。『見る』ことは減りましたけど、それでも感じ取ったりはするんですよ。それなのに、先輩達が普通の人間と見間違うほどの存在を、まったく何も感じないことに怖くなったんです」

「非常に興味深いね」

 重く沈んだ車内で、イエシキは前座席に身を乗り出すと目を細めて嗤う。

「見える人間と見えない人間がいる、存在しないはずの三人組。明らかに異質だね。その差異は何か、目的は何か。そして……ホタルは何か」

「ホタルは関係ないだろ?」 

「やっぱり君には見えないのか……こんなにもたくさんいるのに」

「え? なんでこんなに? いつの間に?」

 息を飲む俺達の一方で、鈿女ちゃんだけは窓の外を見てギョッとしている。

「先輩達、ホントに見えないんですか? 車に周り、こんなに飛んでるじゃないですか!」

 そうは言われても、やはり見えない。

 そして、そんな事を気にする余裕もなかった。

 俺の目(おそらく先輩達もだが)には、先ほどの三人組がそれぞれの窓の前に立っていたから。

 中を覗き込むような姿勢で顔を傾けている。別れる前のような気さくな雰囲気はなく、一切の感情が欠如した無表情だった。

「ビックリした。なんなの?」

 逆藤先輩が上擦りながらもかろうじて声を捻り出したタイミングで、運転席側にいる男が無表情のまま窓を激しく叩き出す。

 すると残りの二人も覗き込む窓を叩き出し、そしてもう一方の手をドアの取っ手にかけてガチャガチャと乱暴に引く。

 幸いにもドアに鍵がかかっていたので開くことはないが、安心はできない。明らかに三人の行動は異常だ。

 全身の血の気が引き、背中に嫌な寒気が走る。

 俺以外の男性メンバーも似たようなもので、表情は強張り、色を失っている。

 鈿女ちゃんには、相変わらず三人組は見えていないようだが、それでも窓を叩く衝撃やドアを開けようとする音は聞こえるので、キョロキョロしながら狼狽していた。

「おい、車出せ!」

 ショックで呆けていたが、助手席の望月先輩が逆藤先輩の肩を叩きながら叫ぶ。そのことで、ようやく我に返った逆藤先輩も、震えなのか分からないが小刻みに首肯して、慌ててギアをドライブに入れてアクセルを踏み込んだ。

 タイヤが軋む音を立てて発進する車に、さすがに三人組は付いてこれない。

 駐車場から行きに使った山道へと入り、ホタル池を沿うように車が走る。制限速度なんて気にしてはいられない。外灯が少なく、道が暗くて見えにくくても構わない。

 逆藤先輩はエンジンから火が出そうな勢いでスピードを上げている。そして、誰もそれに文句を言うわけもない。

 いち早く、ここから離れたい。ただ、その一心だ。

「一体、今のは、何だったんだろうね」

 沈黙に耐え切れず西湖さんが口を開く。先ほどのショックがまだ癒えていないようで、平静を装った声だがその手は小刻みに震えている。

 だが、安堵の一息を吐く暇もなく、次の異常現象が俺達を襲った。

 車が何かを引っ掛かけたような衝撃と共に減速し始めたのだ。

「え? なになになに?」

 訳が分からず逆藤先輩が完全にパニくっている。

「どうした?」

「アクセル踏んでいるのに走らなくなったんだよ」

 実際、エンジンは唸り続けているし、タイヤが空転する軋んだ音も聞こえる。つまり、無理矢理ブレーキを掛けられている。

「あ、あの……ホタル、が。車を包み込んでる……」

 消えそうな鈿女ちゃんの声に、俺達も絶望した。

 相変わらずホタルは見えないが、代わりに違うものが見えた。

 全ての窓に、無数の人がこちらを見ている。

 それは両手を窓に押し当て、覗き込むように無表情な顔が暗闇から浮かび上がっている。それは全員男性で、先ほどの三人組の顔もあった。

 もう、悲鳴すら上がらない。情けないが、ヒューと喉から空気が漏れるだけ。

 そして、車がゆっくりと池へと動き出す。それに抗おうと逆藤先輩も必死だが、徐々に車は道路のガードレールの隙間へと引きずり込まれていく。

 その先は木々生えた斜面。さらに進めば小さな崖があり、その下がホタル池だ。

 間違いなく、車は池へと向かっている。

 それを理解して、とてつもない恐怖が全身を巡る。吐き気すら感じて、嗚咽した。

「ああ、ダメだ」と誰かが言った。

「このまま、引きずり込まれたら……どうなるのか。覚悟するしか、ないか」

 西湖さんが小さく息を吐きながら呟く。恐怖で思考が止まったのか、そんなことを言い出すなんてどうかしている。

 だが、解決策がないのも事実だった。

 このまま、俺達は……どうなるんだ? 西湖さんの言うように、諦めるしか……。


「面白くなってきましたな!」



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