完全世界物語第二部

佐賀屋

第八話/終想(ツイソウ)-1

 ゆっくりと──太い指が、腹の辺りを這い回っている。

 胸からへそにかけてを往復する掌の感触が鬱陶うっとうしい。

 逃げ出すような視線を送った先では、濁った窓硝子の隙間から夜が染み出してきているのが見えた。冷気はむき出しになった素肌を絶え間なく刺激する。

 背中越しに聞こえる男の息遣いが荒く、そして速くなっていった。汗の臭いが鼻を突く。狂ったように暴れ回る感触に、耐え難い不快感しか覚えることができない──呼吸を妨げられる衝撃が喉奥まで突き上げてくるたび、込み上げる吐き気を懸命に押さえ込む。

 苦悶に喘ぎながら、全身にまとわりつく悪臭に眉根を寄せる。汗が染み込んでくる感覚に背筋が震えた。

 いやいやをするように首を左右に振るが、それで相手が離れてくれるなどとは思っていない。虚しい本能がのしかかる相手を拒否しているだけだ。

 けた火箸で体内を貫かれるような痛みが、脳裏に火花を散らした。

 じっとされていても耐え難いのに、貫く動きに翻弄され、押し殺した悲鳴が漏れてしまう。身体が引き裂かれるような痛みに、背筋は弓なりに仰け反った。

 体を返され、悲鳴が封じられる。

 唇からくぐもった呻きがこぼれ、言葉を紡げない舌は絡め取られてざらりと触れ合った。粘膜同士が擦れる感触に目を見開き、戦慄する。ねじ込まれる全ての感触がひどく不快だった。

 耐えきれない──そう思っていても口に出すことができず、ひたすら声を殺して唸る。

 愉悦ゆえつに塗れた双眸に映り込む自分の姿を想像し、一層悪寒は強くなった。

 肩口で切り揃えた髪は好き放題に乱れ、細い瞳は外界からの印象全てを拒絶しているようにも見える。数日間風呂にも入っていない肌は汚れ、爪で擦るたびに垢が落ちた。

 手入れすればそれなりに見栄えするだろう容貌は、男の手によって繰り返される陵辱に歪み、嫌悪と恐怖に軋んでいる。

 胸に感じる痛みは噛み傷のせいだろう。矮躯わいくは縮こまり、全身で拒否を訴える。縄の跡が蛇のように絡みつく足首を逸らし、汗に塗れた男の体重から逃れようと藻掻もがいた。

 唇は言葉も吐息も奪われて、呼吸すら詰まる。口腔に入り込む生暖かい舌に背筋を強張らせ、嫌悪感が眉間に深い皺を刻ませた。

 頬の内側をなぞる舌の動きにうなじがざわめく。流し込まれる唾液を吐き出そうとしても、のしかかる男の舌がそれを邪魔した。喉の奥まで無理矢理注ぎ込まれる粘液が、胃を裏返すような吐き気を誘う。

 ──終わって──全部、終わってしまえばいい……。

 硝子の向こうに見えるのは、ひどく冷淡な都市の残骸だった。隣接する建物は壁一面にびっしりと苔が密生し、どす黒い脇腹をさらす。窓辺から滑り落ちた月光が、汚れた室内を撫で回していた。

 悲鳴のように軋むベッドの音も、押し殺した呻きにもまるで耳を貸さず。

 滅びた世界は、物憂げに地表に横たわっていた。

 天井間近に据え付けられた時計が、羊の鳴くような声でゆっくりと十二を打った。時計が狂ってさえいなければもう夜中なのだと、場違いな感想に苦渋の笑みが浮かぶ。

 この部屋に、狂っていないものなど何もない。

 それがわかりきっているからこそ、おかしかった。

 窓枠をすり抜けるように忍び入る風が頬を叩く。死に絶えた都市を潜り抜け、何の意味もなく走り去るだけだったはずの風。背筋が凍るほどに生ぬるい。似たような温度で全身を濡らす汗に視線を落とし、向井原むかいばらあいは苦笑いを浮かべた。まるで冗談のような発汗を前にして、できることと言えば笑うことぐらいのものだろう。

「──……!」

 男が何かを喚いている。しかし藍には何も理解できなかった。遠く離れた国の言葉を聞かされているような心地で、鼓膜へと叩き付けられる音の群をやり過ごす。

 逃げていく時間の後ろ姿だけを視界に収め、強く目を閉じた。

 いっそのこと悪臭を嗅ぎとる鼻も、醜い声を聞きとる耳も、全て閉じることができたらどれほど楽かと夢想する。きつく結んだ唇の端だけが、嘲りの形にねじ曲がっていた。

「──!」

 唐突に──。

 激情した男の振り下ろした拳が、深く顔面に突き刺さった。一瞬で頭の後ろまで貫いた痛みは、拳が引き抜かれると同時に薄らいでいく。

 痛みより強く藍を打ちのめしたのは、突然怒りだした男に対する驚きだった。

 何が起きたのかもわからず、ただ逃げようと手足をばたつかせる。しかし馬乗りにのしかかる男の体重をはね除けるほどの力などあるはずもなく、汚れたシーツを乱すことしかできない。

 噴き出す鼻血が呼吸を妨げる。焦げついた痛みは視界を灼き、目の前に赤い光を明滅させた。

 鈍い音が骨の内側に響く──髪を掴んで引きずり起こされ、顔面から床に叩き付けられた音だった。腫れ上がった目蓋が裂けて、眼球を熱く濡らしていく。

 喉の奥の乾いた場所から、悲鳴にもなりきれない嗚咽おえつがこぼれ落ちた。口の中に鉄臭い苦味が広がる。

 男の張り上げる怒声は、既に言葉ではなくただの絶叫と化していた。鼓膜が音を捉えているはずなのに、思考を放棄した脳はそれを言葉として再生しない。耳の中で大量の羽虫が騒いでいるような感覚だった。

 噛み切った頬肉を呑み込む。生臭いその味は、慣れてしまえばそれほど不快ではなかった──少なくとも、一年近く毎日のように犯され、嬲られ続けることよりは。

 男が大声で叫ぶ。藍が逃れようと身をよじるよりも早く、硬い爪先に腹を蹴り上げられた。重苦しい圧迫が胃を揺らす。黒ずんだ血と唾液を吐き出しながら、彼女は汚物とごみで埋め尽くされた床の上を転げ回った。冷たく硬質なプールに頭から飛び込んだような心地を味わい、動かなくなった四肢をリノリウムの上にだらりと投げ出す。

(……どうして)

 延々と頭の中を巡り続けているのは、出口のない問いかけだった。

 意味などない。この滅びた世界の全てに、意味などあるはずがない。

 わかっているのに、それでも答えを求めてしまう。

(どうして──)

 考えてはいけない。

 問いかけてはいけない。

 微かに残された理性が狂おしく訴えている。

 求めてはいけない。

 探してはいけない。

 望めば望むほど、追い詰められていくのは自分なのだから。

 閉ざされた問いは、閉ざされたままにしておかなければならないのだから。

 開いた扉の向こうにある答えが、幸せに繋がっている保証などないのだから──。

 部屋の中には粘度の高い暗闇が充満している。どす黒く変色した顔を醜く歪め、男がこちらを見下ろしていた。握り締めた拳は、殴りつけたその強さで彼自身の皮膚まで裂いている。

(どうして……?)

 ベッドの上から飛び降りた男が、体の上に覆い被さってくる。

 節くれ立つ指が喉に絡みつき気管を締め上げた。逃げていく酸素を取り戻す暇もなく、熱を帯びる質量に体を貫かれる。

 体を突き上げる動きと皮膚に食い込む指先が、醜悪なリズムを奏でていた。人肉でできた拷問具に腹の中を掻き回され、男の爪が皮膚の奥にまで食い込んでくる。

 体のどこが痛いのかも曖昧になり始めていた。全身が汚染され、激痛を訴えている。

(……どうして……?)

 問いが漏れ出たのだろうか。

 首を絞めていた手が離れ、再び藍の顔面を殴りつける。

 口の中で折れた歯が暴れ、硬く重い衝撃は舌を裂いた。喉の奥に血溜まりが生まれる。

 脳を直接万力で締め上げるような息苦しさに襲われ、心は少しずつ折れ曲がっていった。

 絶望でも悲嘆でもなく、ただ緩慢かんまんに歪み、折れていく。

 澄みきった夜のような感情に意識を支配され、藍は頭の中が呪詛の言葉で埋め尽くされていくのを自覚していた。

(死んじゃえ──)

 死ね、と念じる心だけが体を支える。

 ようやく解放された喉は反射的に大量の酸素を吸ってしまい、藍は口内の血と唾液をまとめて飲み込んでしまった。激しく咳き込み、体を仰け反らせる。

 鮮血混じりの苦悶が虚空を濡らすたび、男の顔面に豚のような笑みが浮かぶ。

 藍が苦痛にのたうつほど、男は深い愉悦を覚えているようだった。陰湿な眼差しに嗜虐の色が滲んでいる──許しを乞えとを強制する癖に、一度たりとて許してはくれなかった男の目付き。

(死んじゃえ──)

 怨念じみた衝動が湧き起こると同時、体の奥深い部分が熱を孕んだ。しっかりと頭まで抱え込まれ、逃げられないように身動きを封じられる。

 懸命に抜け出そうと藻掻くたび、男は薄汚い欲望の塊を最奥に擦り付けてきた。怒りと屈辱で視界が真っ赤に染まる。

 藍は唇を噛んで悲鳴を殺した。

 何度だって絶望してしまう心も、声と一緒に殺すことができたらどんなにいいだろうかと夢想しながら。

(死んじゃえ──お願いだから死んで、死んでよ)

 視線を逸らせば、死に腐れた都市の景観が目に入る。無惨に荒れ果て、朽ちた建造物が連なる街並みは、どうしようもなく今の自分と被って見えた。

 腫れ上がった目蓋の奥から生温い液体が溢れる。砕けた鼻は呼吸もままならず、口の中は唾液よりも鮮血の方が多く溜まっているような有様だった。

(死んじゃえ……死んじゃえ──死ね!)

 汚らしい粘液を絞り尽くして満足したのか、男はようやくのことで醜い体を引き剥がした。全身に刻まれた傷跡を見て、何一つ理解できない言葉を垂れ流す。記憶の中まで男に悩まされるのが嫌で、藍は吐き出される声に耳を閉ざした。

 頭の中を呪詛で満たし、歪んだ視界に闇を映す。

 倒れている藍を助け起こしもせず、男は粘ついた笑い声を残して部屋から出て行った。扉が閉まり、その足音が遠ざかっていく。

 日々繰り返される地獄が、ようやく過ぎ去り──藍は、安堵と共に意識を手放した。


■ □ ■ □ ■


 床に転がったまま嘆息する。

 目蓋まぶたは腫れ上がり、何をしたところで開きそうにない。酸欠気味の肺がいつもとは異なるリズムで呼吸を始め、痛みにも似たもどかしさを感じさせた。

 手足は痺れ、自力で起き上がることなどできそうにもない。肌に触れる床の感触は吐き気を覚えるほどに硬く、安眠という言葉とは相容れないものだった。

 もっとも──世界が滅びてからというもの、藍が心安らかに眠れたことなど数えるほどもないのだが。

(……そうか……私、目が覚めたんだ)

 今更に自覚して。

 覚醒の鈍い痛みと向き合う。

 現実と夢との焦点がぼやける中で、藍は投げ遣りに髪を振り、へばり付いた粘液を払い落とした。

 黒く塗り潰された視界を巡らせ、記憶の中の自室を想起する。

 元々は大学に勤める教官が使用していたのだという部屋は狭く、極度に荒れ果てていた。ベッドがあり、机があり、虚無で満たされたクローゼットがある。病室のような造りの室内には胸をむかつかせる獣臭が漂い、床には無数のごみが散乱していた。

 ごみの多くは藍の食べ残しだ──あの豚のような男の差し金で、藍には誰よりも優先的に《天使》の施しを受ける権利が与えられている。外に出て《キャリー》の脅威に怯えながら食料を探すこともなければ、ホームの中で作業に従事するわけでもない少女に与えられた特権は、醜い嫉妬を掻き立てるには十分過ぎるものだった。

 勿論、誰かが面と向かってあの男──学習院大学跡ホームを統括する《覚醒者》、氷室ひむろ基紀もとき──に抗議をすることなどあり得ない。そんな愚かな真似をしたところで、藍に対する扱いが変わることはないだろう。ホームから放り出される死体が一つ増えるだけのことだ。このホームに生きる人間は一人の例外もなく、基紀に逆らうことの愚かさと無益さを嫌というほど思い知らされている。

 だから。

 氷室基紀には抵抗できないから。

 全ての憎しみと妬みは、藍の小さな体に注がれるのだ。

 藍はこの部屋を出ることを禁じられていた。たった一つの例外を除いて、指先が外界の空気に触れることさえ許されていない。食事は全てホームに暮らす人間が運んでくる。

 最初に感じたのは、ささやかな違和感だった。

 食事を載せたトレイにつばを吐いた跡があった。

 運んでくる途中くしゃみでもしたのだろうかと、呑気なことを考えたのを覚えている。

 小さな悪意の積み重ねは続き、それはいつしか露骨なものへと変わっていった。

 尿の臭いがするコーヒー。

 裁縫針の混ぜられた御飯。

 食べ終えた後猛烈な吐き気に襲われた魚──食器の裏に売春婦用と書かれたこともあるし、食事を手渡すときに死ねと言われたこともある。

 彼らが何より卑怯だったのは、藍が決して誰にも頼れないのを知っていることだった。

 ホームの人間が味方してくれることはないし、基紀に告げ口するわけにもいかない。そんなことをすれば、彼は時間のかかる犯人捜しなど絶対にしないだろう。学習院大学跡ホームに生きる人間は、藍と基紀しかいなくなる。

(……そんな、の)

 ──耐えられるわけがない。

 何十人、何百人という人間の命を背負って生き続けるような強さは、藍には到底望めない。そんな重責を背負って生きていくぐらいなら、自分も一緒になって殺された方が遙かにましだった。

 何より──、

「──あんな奴に」

 ──氷室基紀に泣きつくのだけは絶対に嫌。

 自分を犯し、汚し尽くしたあの豚のような男にだけは、何があっても頼りたくない。

 全てを奪い、嬲ろうとするあの男には、悲鳴の一つすら易々とはくれてやらないのだと誓っていた。

 誓いを破られることはあっても良いが、自分から反故にすることは許されない。たとえ日に三度の食事が全て毒を盛られていようとも、儚い決意に縋るだけの価値はある。

 ──みんな、知ってるんだ。

 自分が誰にも頼れないことを──誰も彼もが、知り尽くしている。

 基紀はただ食事を用意しろと言うばかりで、調理や運搬に関してはまるで無関心だった。だからこそ陰湿な責め苦は未だに続き、藍の精神を少しずつ腐らせている。

(──どうせまた、殆ど食べられないんだろうな……)

 運ばれてくる食事の大半を床に打ち捨てる生活が続けば、自然と体は痩せ衰える。

 空腹に呻くだけの気力も今はなく、雨のように降り注ぐ死の予感に身を任せる機会が増えていた。苦痛はただ苦痛でしかなく、摩耗した神経には響きもしない。

 ──音が……近づいて、くる。

 遮断された視界の代わりに、聴覚は鋭敏に尖っていった。内側に収束していた感覚が外界に向けて解放される。

 最初に自分の鼓動が鳴り、次いで全身を駆け巡る血の濁流、最後に喘ぐような呼吸が聞こえた。

 脳の奥から漏れ出すような痛みを堪えながら、ゆっくりと意識の矛先を自分以外のものへと逸らしていく。

 刹那、数度のノックと、恐る恐るドアを開く音が鼓膜に飛び込んできた。

「──さん、藍さん。大丈夫ですか? もう起きてますか?」

 ──大丈夫なわけない。

 口には出さず胸中でのみ反駁し、汗と精液で固まっていた前髪を掻き上げる。

 ごろりと寝返りを打ち、ドアの方へと向き直った。視界は闇に閉ざされたままだったが、誰が来たのかはわかっていた。

 食事を届ける以外の理由でこの部屋に入ることを許された、基紀以外唯一の人間。

 そして藍にとって基紀の次に憎むべき人間が、室内の惨状に息を呑む。

「こ、んな──藍さん、大丈夫ですか!? ちょっと待って……今、今すぐ治しますから。大丈夫、すぐに痛くなくなりますから──」

 慌てふためく声音が耳を打つ。頑なに相手を拒絶する自分と、今聞こえている声に容易く従ってしまう自分──相反する二つの感情に揺さぶられ、まともに返事をすることもできない。

 藍が呆然としている間に、柔らかい布地と、薄布一枚隔てた掌の感触が頬に触れた。少年らしい幼い声が何事か呟くと同時、五指ごしの先端に仄かな温もりが灯り、吸い込まれるように痛みと熱感が退いていく。

 轟音にも似た激痛が薄れていくにつれ、雑然としていた外界の印象がその輪郭りんかくを露わにしていった。激しい雨音に気付いてようやく、藍は嵐の訪れを認識する。

 腫れが引いた目蓋をこじ開けて、緩慢な動作で視線を巡らせた。

 窓の外には、異能の力を振るうことのできない人間達が暮らす学生棟──《覚醒者》達は家畜小屋と呼んでいるようだった──が、死体のように黙してそびえ立っている。苔とカビに覆われた岩のような建造物を見上げ、言い様もない不快感を覚えた。

 時間の猛威に食い破られた窓硝子は埃にまみれ、物陰には無数の黒い羽虫が棲み潜んでいる。雨に追われたらしい鳩が群がり、やかましく鳴き喚いていた──崩壊した世界のどこに餌があるのか、鳥類の姿がこの近隣で途絶えたことはない。外壁は鳥の糞で汚染され、蜘蛛の巣状に走った亀裂を覆い隠している。

 猛烈な嵐にされ、黒雲は凄まじい速度でその姿を変えていく。

 暗い天蓋てんがいの狭間に走る稲妻を眺めて、藍は無意識に上擦うわずる呼吸を押し隠した。

 隣接する学生棟に陽を遮られ、この部屋に陽光が差し込むことはない。だというのに豪雨と暴風、閃電せんでんだけは執拗しつように精神を圧迫した。とどろく雷鳴に硝子がらすが震え、胃を持ち上げるような衝撃が襲い来る。窓際をじわじわと湿らせる雨から目を逸らし、藍はようやく現実と意識とを結びつけることに成功した。

 頬から離れていく温もりを追うでもなく、瞳の焦点を合わせる。目の前にいたのは、想像した通りの人間だった。

 ブラウンを基調にしたストライプのシャツを着込み、使い古されたジーンズはところどころほつれている。歳は自分よりも二つか三つ上だったはずだが、容貌には拭いきれない幼さが残されていた。両端の垂れた眼差しは柔らかく、しかし落ち着かない挙動で視線をあちこちへと彷徨わせている。

(──こいつも……糞だ)

 ──この少年も、氷室基紀と同じ。

 どれだけ憎んでも足りることのない、悪意の塊だった。

 ──君島きみしま……君島、道隆みちたか

 声にならない声でその名を呼び、次いで脳裏に浮かんだ記憶を再確認する。

 君島道隆──都内最多の《覚醒者》を擁するこの学習院大学跡ホームで、基紀からその存在を正確に把握されている、数少ない《覚醒者》の一人だった。

「藍さん……大丈夫ですか? どこか痛いところ、ありますか? 一応、見える範囲では全部治したつもりなんですけど……」

 臆病な物言いで聞いてくる少年に、藍は言葉もなくただ首肯だけを返す。

 藍の双眸そうぼうに込められた非難の色に気付いたのか、道隆は困惑したような表情でただ苦笑した。

 ──こいつのせいで。

 こいつのせいで、地獄のような日々が絶えることはないのだ。

 自分が倒れるたびにこの少年が部屋に寄越され、幾重に刻まれた傷を跡形もなく消し去ってしまう。

 いっそ裂けて腫れ上がったままの顔なら、あの男も興味を失ってくれるかもしれないのに──心の底から唾棄だきするような心地で道隆を睨み、犬歯を剥き出しにしてみせる。

 優しさにも似た道隆の行動は、ただの保身から生まれたものでしかなかった。彼は基紀に命令されたから従っているだけのことで、藍を特別気遣っているわけではない。

 傷が癒えてしまうからこそ、また新しい傷で上書きされる。

 一瞬でもそう考えたことがあるのなら、何度もこの部屋を訪れるような真似はできないはずだった。

 ──こいつだって、あの男と同じ、糞だ。

 信頼できる相手ではない。

 心を許してはいけない。

 ほんの僅かでも心に隙を見せたならば、必ずつけ込まれることになる。

 気遣わしげな声も不安げな表情も、どうせ上辺だけのものなのだ。かける言葉に迷うぐらいならば、すぐにでも出て行けば良いのにと願う。

 藍の刃物のような視線に気圧されたのか、道隆は怯えたような表情でうつむいてしまった。

 いちいち芝居気を含めないと気が済まないのか、所作の端々に拭いきれない嘘寒さが滲んでいる。しばらく床の上に視線を這わせていた少年は、やがて意を決したかのように顔を上げた。

 悲壮ですらある色を双眸そうぼうに浮かべ、ゆっくりと口を開く。

「──藍さん……いい加減、何か食べた方がいいです。これ以上体を壊したら……本当に、僕が治す前に死んじゃいますよ」

 紡がれた言葉を前に、藍はうなずきすらしなかった。

 この少年の何がここまで嫌悪を誘い、忌み嫌っているのか、はっきりとはわからない。

 だが自分が欲しているものが、かりそめの優しさや、偽善的な感傷から来る何かでないことだけは理解していた──そしてこの少年が施すのは、そういった類のものでしかないことも。

 喉を詰まらせるように笑い、小さくかぶりを振る。

 拒絶の意志が通じたのかどうかはわからなかったが、それきり道隆は無言になってまた俯いてしまった。薄汚れた床の上に立ち尽くし、唇を噛んで沈黙に耐えている。

 腕を伸ばす。ごわついたシーツに指を絡め、藍は渾身の力を振り絞って半身を引き起こした。

 嵐は過敏な神経を追い詰め、激しい閃光と落雷が建物全体を激しく鳴動させる。

 世界を包み込んだ終局の日以降、天候は悪化の一途を辿っているように思えた。既に季節感は薄れ時間の感覚も衰えてはいたが、夏だというのに雪が降り、冬に猛悪な暑気が訪れたのを覚えている。

 学習院大学跡ホームに監禁されてからどれだけの月日が経ったのかはわからないが、少なくとも三度の猛吹雪と熱波を体感していた。短期間に訪れた寒暖の入れ替わりに体は順応しきれず、何度も体調を崩した覚えがある。

 風雨は激しさを増し、時折走る稲妻は空を幾つにも分断しているように見えた。

 窓硝子を開くだけの自由があれば、藍は荒れ狂う自然の猛威に身を晒していたかもしれない。かつてこのホームで落雷に打たれ死んだ人間がいるらしいという噂を聞いてからは、嵐が来るたび自らも雷に打たれてしまいたいという誘惑に駆られることになった。

 ──こいつだって。

 どれだけ道隆の能力が優れていようとも、死に瀕した人間の傷までは癒せないだろう。

 滅びた世界で異能の力に目覚めた者達──《覚醒者》と呼ばれる超人達でも、死者を蘇生させる力の持ち主は見つかっていないらしい。

 ならば藍が求めているのは、精神を救ってくれる唯一の忘却──死だった。

 死ぬことさえ可能であれば、もう二度と陵辱の苦痛に悶えることもない。あの男に死体を嬲って喜ぶ趣味があるかどうかまでは知らないが、意識さえ途絶えてしまえば自分の体がどれだけ汚されようとも構わなかった。

「──藍さん……」

 道隆の呟きを無視して、硬いベッドに背中を預ける。

 律動の安定しない心臓の音に耳を澄ました。萎えた下半身はほとんど言うことを聞かず、まともに立ち上がることもできそうにない。散乱し腐敗した生ごみを小さな両手で払い除け、かろうじて上体を預けるだけの空間を確保する。

 拷問のような刺激臭については、既に嗅覚が慣れきってしまっていた。清浄な空気など望めるはずもなく、ただ緩慢な諦めだけが血管を巡り全身に行き渡っていく。

 座り込んだまま道隆を睨め上げ、藍は口笛のようにがれた息を吐いた。いい加減目の前に立たれたままというのも目障りで、舌打ちを繰り返す。意味するところがわからないわけではないのだろうが、衰弱した藍を放置することの罪悪感にでも囚われているのか、彼は押し黙ったまま身動ぎもしなかった。

 落雷と驚くべき球電の発生により、室内に焼け焦げた臭いが漂い始めた頃には、既に藍は道隆に対する興味を失っていた。どうせ彼がこの部屋に留まることのできる時間は長くない──氷室基紀は歪んだ独占欲の塊のような男であり、自分以外の男性が藍に対し視線を投げかけることすらいとう傾向があった。

 ──あと五分も待たなくていい……。

 確信し、訪れつつある孤独を渇望する。

 恐怖に負けて道隆が部屋を出て行けば、あと数時間は一人だけで心地よい沈黙を味わうことができるだろう。頼りない希望ではあったが、それでもないよりは遙かにましだと思えた。

 シーツの皺に体を埋めるような心地でベッドに背を預け、虫の死骸で黒く染まった電灯を見上げる。

 不潔さのせいか、室内では何かが這いずり、あるいは探し回るような物音が絶えず響いていた。ごみの山を蹴れば羽虫が飛び出し、天井には蜘蛛の巣が複雑に絡んでいる。

 絶え間ない暴力に晒される内に精神は鈍り、藍は不快を不快と感じないようになった。寝ている間に百足が顔の上を這っていこうとも、悲鳴を上げることはない。不潔にすればするほどあの男の足が遠のく気がして、今では半ば故意に食べ残しを床に散らかすこともあった。

 道隆の手がぴくりと震える。

 無視され続けることに耐えられなくなったのか、重苦しい雰囲気をはね除けるように必死な声を発した。

「──僕、知ってますよ……藍さんが、僕のこと嫌いなの」

 息を吸う音はおびえ震えている。

 揺れる音程は、しかし破綻寸前のところで踏み外すことなく、途切れながらも言葉を続けた。

「治されたくないのも、知ってます。嘘をついても仕方ないから言いますけど……多分藍さんが思ってる通り、僕は──基紀さんに言われて来てるだけ……です」

 ──あの男に言われて来ているだけ。

 わかりきった答えを突きつけられ、しかし藍は胸の奥が焼けつくように痛むのを感じた。

 眉を寄せ、言葉もなく鋭い目付きだけで先を促す。時折責めるような口調になりながら、それでも道隆は極力たかぶった意識を押さえ込んで言葉を継いだ。

「でも……言い訳っぽいですけど。それでも、やっぱり……怪我してる人とか見るのって、嫌ですよ。何だか僕まで痛くなります。藍さんは、特に……怪我だけじゃ、ないでしょう? そういうのも……嫌です」

 ──それなら早くどこかに行ってよ。

 きつく告げる心持ちにもなれないまま、淀んだ眼差しを逸らす。

 風雨によって冷やされた空気が室温を下げていた。涼気とも呼べない温度は腐った水を連想させる──濃緑色に変色し、大量の沈殿物を抱えた水槽。落ちたところで死にはしないが、その不快さは極まっていた。

 反応がないことに苛立ったのか、道隆は見えない何かを振り払うかのように右手を振った。明らかに激昂したとわかる表情で口を開く。

「──もうすぐ三好みよし先生も来るんですよ!? 食べ物とかはいいですよ……でもあの人のことは、基紀さんに言えば何とか──」


 ──黙れ。


 最初──その声が誰の発したものなのか、本当に理解できなかった。

 しわがれ、枯れて、感情も理性も擦り切れてしまった声音。

 表面はざらつき、空気と摩擦を起こして熱を帯びる。

 虚ろな生気のないその声が自分の喉を震わせたものだと認めた瞬間、藍はたまらなく可笑しくなった。ここ数日、基紀が感情を爆発させることが多くなったように感じていたのだが、その理由がはっきりした──苦悶の呻きも耐え難い悲鳴も、こんな老婆のような声ではさぞかし興が削がれただろう。

 道隆は露骨に怯え、後じさっていた。今目にしているものの全てが真実だと認識できていないかのような表情でかぶりを振り、ひきつるような呼吸を繰り返している。

 ──黙れ。

 繰り返し、藍は双眸そうぼうに静かな拒絶の意志を込めた。

 基紀に命令されて嫌々従っているだけの人間の言葉など、最早鼓膜の奥にすら届かない。退廃した世界に紛れて消えていくだけだ──猛烈な勢いでホームを打ち据える嵐の中で、藍は密やかに笑っていた。

 氷室基紀に、道隆に、ようやく意趣返しができたことに満足する。

 ようやく手に入れた、絶望そのものとしか形容しようのないこの声こそが、彼らへの迂遠な復讐の一つになった。積極的に願っていたわけではないが、だとすればまさしく天恵ということなのだろう。意図せずして与えられたものに感謝し、亀裂にも似た笑みを深くする。

 三度目の通告は必要なかった。

 部屋から飛び出した少年に追い縋るでもなく、ようやく訪れた静寂と安堵を堪能する。

 道隆が最後に告げていった言葉──三好先生が来る、と言っていた──だけは酷く気がかりだったが、だからといってここから逃げ出せるわけでもない。嗜虐趣味に凝り固まったあの変態医師が何を考えているのかは知らないが、少なくとも自分が生かされ続けることだけは確定していた。

 少なくとも氷室基紀が生きている限り、絶望の淵に叩き落とされたまま生きていかなければならない。

 あと何年、何十年と時間が経ち、老いて醜くなり果てたとき、もしかしたら解放されるかもしれなかった──それすらあの男には関係ないだろうという気もしたが。

 ──どうでもいい。

 何が起きても、何も起きなくても構わない。

 焦がれるように時間の流れを待ち、呼吸と鼓動の音を数える。

 苦痛すら感じなくなるほどの空腹というのは、考えようによっては至福でさえあった。体の奥が空洞になり、中にはみっしりとした虚無だけが満たされる。

 気絶しそうなほどの浮遊感に襲われ、藍は本能が求めるまま素直に目を閉じた。酒を飲んだことは一度もないが、深い酩酊めいていというのはこんな気分なのかもしれない。えぐられ、押し広げられた二箇所から感じる痛みも、何度となく汚濁おだくを流し込まれた喉の粘りも、今はたいして気にならなかった。

 急速に降りてくる闇が部屋を包む──肌で感じる静寂に身を任せ、意識的に呼吸の速度を緩めていった。いっそ肺の収縮すら止めてしまいたいと願いながら、相手もいないままに笑いかける。

 ──僕、知ってますよ……藍さんが、僕のこと嫌いなの。  

 思い返し、呻く。気付いて欲しいと思う反面、悟られたことに対する羞恥心が拭いきれない。

 ──知っているから。

 ──知っているから、大人しく命令に従っているんだ。

 嫌われているから、

 憎まれているから、

 だから──傷を癒す。

 延々と続く暴力を継ぎ足すように、全ての傷を癒していく。

 道隆がこの部屋を訪れる理由に気付き、藍はじっとりと湿り気を帯びた苦笑を浮かべた。敵意を向けられたから、敵意を注ぐという単純さは嫌いではない。危害を加えられるのが自分でさえなかったら大っぴらに笑ってやってもよかった。

 ──命令だけじゃないんだ。

 基紀の命令に諾々と従っていたわけではない。

 彼には彼なりの動機があり、今日もまた精一杯の復讐を遂げていったのだろう。

 閃光が一筋、宵闇よいやみ色の天頂から降り注ぎ、目に見えない大きな力の脈動を滅びた都市に伝える。雷鳴は死にも似た静寂を切り裂き、ホーム全体を土台から振動させた。

 えた四肢を引き寄せ、膝を抱き全身を縮こまらせる。

 他人の悪意など恐ろしくはない。

 本当に恐ろしいのは、死から取り残されることだった。

 この大嵐が、次々と地表を打つ稲妻が、藍の知る全ての人間を滅ぼした後。もし自分だけ生き残ってしまったら──それこそまさに地獄だろうと、怖気を震いながら認める。

 食料を供給する《天使》はなく、他の《覚醒者》達のように日々を生きていくだけの力もなく、浴槽から水を抜くような緩慢さで死んでいく。

 ──無理。絶対無理。

 形容できない寂しさに襲われ、藍は目の奥から湧き出てくる痛みに必死であらがった。

 一人になりたいと願ったところで、孤独に包まれれば容易たやすく他人を求める。自身の甘さは胸をむかつかせ、吐き戻しそうなほどの嫌悪を覚えた。

 ──治されたくないのも、知ってます。

 ──嘘をついても仕方ないから言いますけど……。

 ──僕は基紀さんに言われて来てるだけ……です。

(──それでいい)

 それが良かった──憎んでいて欲しかった。

 忌み嫌って、怯えて欲しかった。

 自分が道隆に求めているのはそういうものなのだ。

 鬱屈うっくつした感情を一人で持て余すのはあまりに哀れで──だから、誰でもいい、同じ目に遭って欲しかった。

 全く同じでなくても構わない。ただ似通った形の絶望に責めさいなまれてくれればそれでいい。歪んだ欲望は結実し、少年の嫌悪を誘っている。

 願いは叶い続けている──今も、そして恐らくはこれから先も。

 嗚咽しながら笑う。耳の奥に流れる血流の音がたまらなく不快だった。気分良く堕落している最中だというのに、生命の気配など邪魔以外の何物でもない。噛みつくような心持ちで歯を食いしばり、意識の奥から次々と湧いては消える妄想に身を委ねる。

 夢よりもはっきりとした輪郭を持つ虚像は、いつでも過去の情景を映し出していた。

 終局宣言が発令される以前の、変わらない日常を信じ続けることができた世界。甘やかな幻想に縋ることの辛さはわかっていても、不意に首をもたげた感傷を殺すことができない。形のない慰めを追い出すように、藍はきつく自分の体を抱き締めた──ありとあらゆる憎悪の矛先となった、惨めな矮躯を。

 全身を埋め尽くす矛盾した感情に胸を焼かれる。いっそのこと、再び終局が訪れてくれればとさえ思えた。

 あの滅びに取り残されたことが、藍にとって絶望の始まりだったのだから。

(──何で、私なんか)

 こんなにも醜い心と体ならば──世界と共に、滅び去るべきだったのに。

 結論に達してしまえば、それはただの自虐でしかなかった。

 どれだけ自身を責めたところで現実は変わらず、道隆の憎悪が──そして基紀の歪んだ肉欲が薄まることもない。彼らが己の罪を悔い改めることもなければ、突然藍が奇跡のような力を得て、何もかもを破壊するようなこともない。

 現実は変わらない。

 変えることも、乗り越えることも、自身が変わることさえ望めない。

 汚されながら生きていく他に道はないのだ。

(……何で、私ばっかり……)

 声に出すだけの余力もなく、背骨が曲がり床に崩れ落ちていく。

 毎日繰り返す無為な思考が終われば、後はただ無気力に支配されるだけだった。

 支えを失った案山子のように倒れ、腐敗したゴミの中に埋もれる。目の前を何か小さな影が横切るのが見えた。虫か、それとも住処を追われた鼠かもしれない──どちらだったにせよ大差なく、このゴミ溜めのような部屋に何が湧き出たところで不思議はなかった。

 びっしりとカビに覆われたパン──中に排泄物が埋め込まれていた──から頬を剥がし、かろうじて呼吸の道だけを確保する。

 どれだけの間伏せていたのか──。

 腐臭の中で、静かにカウントを続けていた。

 数え続ける。

 呼吸と鼓動に飽きれば壁の染みを。

 遠く見上げる窓枠から、外壁に群がる苔の数を。

 ごみに生えた奇妙な菌類を。

 数字が果てしなく巨大に膨れあがったのを自覚しても、今更止めることもできない。原始的な何かが頭蓋骨の中で絶叫し、怒り、吠えたけっている──中断を決して許さないその声に従い、藍はただ数えることを継続した。

 数字が正確であることにこだわりはない。ただ、増え続けていくことには意味があった。つまりはそれだけ、未来を手繰り寄せているということだ──漆黒に塗り潰された、一辺の慈悲もない未来を。

 膨れ上がる諦めに、しかし藍は揺らがなかった。

 感情の振幅しんぷくは失われて久しい。直接的な痛みを与えられるか、それこそ基紀の声を聞くでもしない限り、精神はおろか肉体すら何の反応も返せそうになかった。

 苦痛ではない。むしろ安楽ですらあった。閉ざされた感覚が藍を覆い隠す。

 決して剥がされることのない薄布にくるまれているような錯覚の中、深く静かに意識は沈下していった。睡魔にもよく似た現実の途絶とぜつが、どこか遠い場所から誘っている──抗うだけの気力もなく、藍が静かに意識を手放そうとした刹那。

 数度──扉が、ノックされた。

 返事がないことを訝しんだのか、再度弱々しい力で撫でるようなノックが繰り返される。

 ──誰……?

 急激に現実へと引き戻された不快感に眉をひそめ、首だけを動かし扉の方へと視線を向ける。

 基紀や三好なんとかという変態医師はノックなどしないし、道隆であれば返事を待つ時間はもう少し短いはずだった。何度も何度も扉の表面を叩き、長い逡巡を挟んでからノブがゆっくりと回される。

 恐れるような──それでいて何かを期待するような速度で、軋む扉が押し開かれていった。

 ──食事の時間?

 疑問に思うより先に、小さな人影がお盆を抱えて室内へと入ってくる。

 現れた人影に、藍は今度こそ心の底からの微笑を浮かべた。

 支えとなっていた何かが弾け、かろうじてもたげていた頭を床へと落とす。か細い悲鳴と共に駆け寄ってきた少女に手を振ることもできず、藍はただ静かにかぶりを振った。

 驚くほどに白い肌と、あどけなさを色濃く残した大きな瞳。艶やかな黒髪は肩口で綺麗に切り揃えられ、風を孕んだように柔らかく揺れる。鼻梁は真っ直ぐに高く、唇はいつでも濡れているかのように薄桃色の光沢を帯びていた。

 健康的に伸びた四肢は決して華奢きゃしゃではないが贅肉がついているわけでもなく、農耕馬のような素朴さを感じさせる。もう少しサイズが大きければ靴も選べたのにと、口癖のように愚痴っている小さな足──ぱたぱたと忙しなく動き、しなやかな両腕は倒れていた藍の体を懸命に引き起こした。食事を載せたお盆はベッドの上に放置され、仄かな香りが優しく鼻の奥をくすぐる。

 感謝を伝えようとしても声帯が震えてくれない。

 歓迎の意を示そうとしても目蓋は重く開かない。

 それでも藍は少女の腕に頬を擦り付け、安心させるように小さく頷いた。

 ──大丈夫……。

 ──大丈夫だから……。

 声にならない声で囁き、泣きそうな顔の少女に笑いかける。

 ──大丈夫。

 ──大丈夫だから……だから、あなただけは泣かないで。

 世界でたった一人、心の底から幸せになって欲しいと願う少女だった。

 だからこそ、泣いている姿など見たくはない。

 痙攣しながらも腕を伸ばし、目尻に溜まった涙を指先で拭う。

 その手を握り返す温もりに絆され、藍もまた素直に涙を溢れさせた。閉じていた感覚が解放され、少女の声を聞く──


「──藍さん……大丈夫、大丈夫なのです。お願い、喋らないでいいから──ゆっくり、休んで欲しいのです……このままずっと、側にいるから──」


「──ありがとう、由香」


 ──醜く枯れていない真実の声で……高く澄んだハイトーンで。

 このホームでたった一人、人間として藍に接してくれる少女──香椎由香の名前を呼んで。

 藍は、息を引き取るような穏やかさで眠りに落ちていった。


■ □ ■ □ ■


 忘れていたはずの記憶だった。

 もう何年も思い出したことなどない──思い出そうとしたことさえない。

 車椅子のハンドリムを押して、狭い通路を進む。落ち葉が積もる道には苦労させられるものの、苦労を感じるというほどのものでもなかった。両脇にそびえ立つけやきの木立を楽しむ程度には余裕もある。

 三石みついしデパートホームを離れ、東に一キロほど進んだ先──雑司ヶ谷ぞうしがや霊園には、早春の澄んだ冷気が吹き流れていた。ハイネックのセーターにグレーのダッフルコートを重ねても、肌に染み込むような寒さを感じる。マフラーを巻いてくればよかったかもしれないと悔やみながら、香椎かしい由香ゆかは枯れたけやきの木を見上げた。

 揺れる枝の先端には、小さなつぼみが付いている。終局を迎えた後の世界でも、草花は驚くほどに逞しく生き続けていた。都市が朽ち、街が枯れ、寄り添う命が少しずつ散っていこうとも、自然のサイクルは悠々と続く。気候が荒れ狂うことは珍しくなかったが、霊園の木々が死に絶えるようなことはなかった。

「……いつ来ても、変わらないのです。ここは」

 寒々しい呟きを風に乗せ、立ち並ぶ墓の群れを眺める。

 放置されたままの墓石は大半が薄汚れ、緑す苔に覆われていた。だが幾つかは手入れされた形跡が見える。今更死後の世界など信じたところで何の得もないというのに、かつての日常を無理矢理引き延ばしている人間がまだ残っているのだ。

「世界がこんなになっても、まだ墓参りするような暇人がいたとはな」

 背後からの声に、香椎かしい由香ゆかは不服そうに目を細めて振り返る。

 数メートル離れた位置を歩いているのは、これといって特徴のない男だった。年の頃は三十代後半か、四十になったばかりといったところか。若々しくもあり、老成した気配も窺える。長身痩躯という言葉をそのまま体現したかのような体躯を、元は白だったらしいスーツに包んでいた。双眸は鋭く吊り上がっている──歩いているだけでも空気が軋むほど、研ぎ澄まされた視線を周囲に放っていた。

 弾丸のような男だった。一直線で嘘がなく、ただ一つの機能しか果たそうとしない。

 殺すために生きている。

 三石デパートホームの《覚醒者》、上條かみじょうあきら──狂気ではなく理性によって人を殺せる人種。

 つまるところ、由香と同じ異常者だった。

「暇人じゃないのです。信心深いのですよ」

「終局で神の不在は証明された。《天使》が人を殺して回ったからな。信心など、それこそ暇人の玩具おもちゃだろう」

「そういう意味じゃなくて……」

 ──本当に、弾丸みたいな人なのです。

 胸中で呻き、音にならない吐息をこぼす。

 この男はいつでも単純だった。目に見えるものだけで世界を評価する。無意味な希望に縋ったりはしない──叶わぬ願いに依存することもない。それがどれだけ救いのない生き方なのか、本人が誰よりも理解しているというのに。

 吹き抜ける風に木々が震える。地表を撫でる冷たい空気に体を縮こまらせながら、由香はゆっくりと車椅子を前進させた。振り返ることなく、だが背後の男が言葉を聞き逃すはずがないと確信して口を開く。

「……どこかの宗教の神様とかじゃなくて。もっとふんわりした、ご先祖様が見守ってくれてるとか。そういう意味での信心なのです」

「意外だな。信じているのか」

「私は信じてないのです。でも、信じてる人の気持ちもわかるのですよ」

「それこそ意外だ、香椎由香。てっきりおまえはリアリストなのかと思っていた」

 彰の言葉に棘はなかった。ただの事実確認でしかない。

 だからこそ、由香の胸には鋭く突き刺さる。傷つくことも許されない類の痛みだった。

「学習院大学跡への共同侵攻策。近隣で規模の大きいホームも参加している。断るとは思わなかった──」

 ──氷室ひむろ基紀もときを憎んでいるとばかり思っていたからな。

 乾いた声に全身の筋肉がこわばる。

 アームレストに乗せた手が震えるのを自覚した。

 封じ続けていた記憶──思い出そうとしたことすらなかった憎悪。

 炎よりも心を焦がす感情に襲われ、由香は咄嗟とっさに深く息を吸い込む。激発したところで意味はない。彰も挑発しているわけではなかった。彼はただ思ったことを口にしただけだ。限りなく真実に近く、けれどどこまでも見当外れな予測を。

 車椅子を押す。段差を乗り越え、座面に振動が伝わる。

 泣き声にも似た金属の軋みを聞きながら、由香は小さくかぶりを振った。

「……憎んでいますよ。当然なのです。だからこそ、あいつには二度と関わらない。そう決めたのですよ」

「氷室の狙いがおまえだからか?」

「はい。それが私の復讐なのです。私は今後一生、あいつの存在を認めない──無視して無視して無視し続ける。だから……関わりません」

「いい手段だ。人は大勢死ぬが」

 嫌悪すら浮かべずに彰が応じる。

 皮肉ではなかった。あるいは皮肉さえ交えてはくれなかったと言うべきか。

 肌を撫でる風の行方を見送りながら、彰は感情の抜け落ちた声で続ける。

「氷室を殺せと叫ぶ連中を止めなかったのは意外だった。一年か二年の間、奴らとは適度に馴れ合ってきたはずだ。何の得もない食糧の配給まで続けていたのは、こういうときに言うことを聞かせるためではないのか?」

「……いいえ。こういうときに、逃げられるようにするためなのです」

「おかげで私達は命拾いをした」

 彰の表情は動かない。背骨に直接氷水を注がれたような寒気に震えることもない。

「……上條さんなら、氷室に勝てますか?」

「その質問は馬鹿げている。私が知る限り、あれを殺せる《覚醒者》など存在しない。どうしても排除したいなら《覚醒キャリー》をぶつけるしかないな」

「──たとえ《覚醒キャリー》であったとしても、無理は無理にございましょうな」

 新たな声が加わった。

 立ち並ぶ墓石の影から、一人の男が姿を現す。

 黒衣こくい袈裟けさを重ねた姿。身長は彰を見下ろすほどに高いが、体は枯れ枝のように痩せていた。骨の浮いた腕を体の前で合わせ、深々と一度頭を下げる。髪は丁寧にられていた。

 頬はこけているものの、顔立ちの端正さは崩れていない。歳は二十代半ばといったところか、細い目の奥には瑞々みずみずしい揺らぎがあった。

 合掌したまま超然と見下ろしてくる。男はゆっくりと足を踏み出し、由香達の前に立った。

「香椎様、お久しぶりです。そちらの方は初めまして。拙僧せっそうはここの管理をしております、深谷ふかや宗秋そうしゅうと申します」

「……上條彰だ。初めまして。一つ確認したいことがあるのだが、いいだろうか」

「何なりと」

?」

 ごく自然な、散歩に行くような気軽さで彰の右腕が跳ねた。

 その手に握られた拳銃から、流れるような滑らかさで弾丸が吐き出される。空気を裂く音が鼓膜を叩いた。彰の《さまよえる蒼い弾丸》──銃弾に任意の推進力を与える異能が発現している。

 宗秋と名乗った男は慌てもしなかった。そもそも反応できていたかどうかすら怪しい。だが結果として、彼の眉間に銃弾が突き刺さることはなかった。一滴の血も流れず、飛び散った脳が霊園の通路を汚すこともない。

「──私は……まだ、狂ってはいないつもりなのです。誰が保証してくれるわけでもないですが……」

 翼のようにはためく黒のインバネス。

 純白のシャツに漆黒のズボンとフロックコートで体を覆い、首元には深紅のアスコットタイを飾る。黒のシルクハットに白絹のマフラー、顔の右半分を隠す黄金の仮面──そして、弾丸を受け止める白の手袋。

 香椎由香の《黄金仮面》──終端に至った世界を生き抜くために発現した異能の力。

 触れたものから“意味”を一つぎ落とす──推進力を盗み出された弾丸は、役目を果たすことなく地に落ちた。

 何かを期待していたわけでもないのか、彰は落下した銃弾に視線も向けない。ただ僅かに驚いたような表情を浮かべてみせる。

「正気だとしたら尚悪い」

「裏切りだと思うのですか?」

「違う。最初からおまえがと思うしかなくなるからだ」

「──どちらもこちらも、い悪いなどあるとは思えませんが」

 僧衣の男が落ち着き払った様子で入り込んでくる。二人分の視線を浴びても怯むことなく、宗秋は平坦な口調で先を続けた。

「上條様がいきどおる理由はつまり、こういうことでしょうか」

 どうということもなく。

 今日の天気を語るような気安さで──


「──拙僧が《覚醒キャリー》であるからだ、と……」


 ──言葉が空気を叩き切る。

 寸断された沈黙に差し挟む形で、宗秋は更に口を開いた。

「外見だけ見て、そうとわかるものでもないでしょうに」

「一目でわかる。だからこそおまえ達は《覚醒キャリー》なんだろう。人間と同じ姿で、人間と同じ声で、人間と同じ言葉を話して……だが、おまえ達は絶対的に人間を憎んでいる。憎みきっている。狂気にまで昇華しょうかされた殺意を隠せないし、そもそも隠すつもりもない」

「いかにも。上條様のおおせのとおりです」

 宗秋は仄かに唇の端を持ち上げた。

 微笑みよりも更に軽い、鳥の羽のような笑顔を浮かべる。

「戯れ言でした。確かに《覚醒キャリー》は一目見ればわかる。そしてあなた方とは不倶戴天の敵と言っても過言ではないでしょう」

「……宗秋さん。その言い方では、上條さんが怒るだけなのです……」

「拙僧は嘘を申せませぬ。ですが香椎様、言葉は重ねるものです。ゆえ、上條様にはこうお伝えすることとしましょう。拙僧は《覚醒キャリー》であり、お二方とは決して相容れない天敵。ですが──ということです。見逃すこともありましょう。ひとまず様子を窺うこともありましょうや」

「……様子を窺うとしたら──」

 彰が眼光を絡めて問う。

「──おまえは何を狙っている。目的があるのだろう?」

「死なぬことです」

「何だと?」

「生き続けること。死なぬことです。死ほど恐ろしいものはない。拙僧は何があっても死にたくない。ですので香椎様とは、不戦の約定やくじょうを結んでおります。拙僧はこの霊園を守る。代わりに香椎様は、近隣の情報を定期的にお持ちいただく」

「……黒川恵一が来ていることは?」

「存じております」

「ならば何故逃げない。あれは《覚醒キャリー》を殺すためだけに生きているような男だ。おまえ達に対する殺意なら、それこそ《覚醒キャリー》をもしのぎかねない」

 彰の問いに、宗秋は小さく頷いた。

 果てを越えた先まで見通すような眼差しで空を見上げ、僧衣の男は喉の奥だけで笑う。小さく肩が揺れた。

「《仮借ナキチカラ》は確かに脅威。考えるだけで恐ろしい。ですがあれは目の前の現実を乗り越えるための力──逆に言えばなのです。であれば、ここに来てから逃げても十分に間に合う」

「……対策を立てている、というわけか。それも香椎由香の入れ知恵か?」

「いいえ。噂を聞いてから、何度も想像しました。もし《仮借ナキチカラ》と遭遇したら、どうすれば逃げられるのか。どうすれば死なずにいられるのか。拙僧は《覚醒キャリー》として授かった力の全てを、死から逃げるためだけにみがいてきた──」

 ──拙僧らの力は、磨けば容易く人を超えてしまうのです──。

「──秋葉原ワシントンホテルホームが落ちたのはご存知と思いますが……あれこそ《覚醒キャリー》の王の仕業。壮絶な破壊にございました。あれほどとは言わずとも……あれに類する力を、拙僧らも身に着けておりますので」

 宗秋の言葉を聞いて──。

 彰は納得はしていないようだった。だが嘘を言っていないと確信もしたらしい。拳銃をしまい込み、油の切れたがらくたのような素振りでかぶりを振る──脳内に降り積もった疑念や怒りを振り払うかのように。

「……それだけの力があっても氷室基紀は殺せないのか」

「無理でしょうな。真っ当に殺す手段はありませぬ。ですから──香椎様があれに関わらないと聞いて、拙僧は安心した。巻き込まれるのは遠慮したい」

 ──賢明にございますな。

 うやうやしく頭を下げて、宗秋は鋭くきびすを返した。何か用件があって姿を現したというよりは、単に彰の動向を探りに来たらしい──少なくとも自分を殺しに来たわけではないと確信したのか、用事は済んだと言わんばかりの速度で歩み去っていく。

 その背中を見送るでもなく見送って、二人はしばらく互いの顔を見合わせた。宗秋は本当に行ってしまったらしい。一度も振り返ることはなく、立ち止まる素振りさえも見せなかった。死なないために生きると断言した、潔いまでの浅ましさに言葉もなくす。

 春先の、目覚めの匂いを含んだ風が吹き過ぎて。

 二人はやはり言葉もなく、霊園の通路を進み始めた。木立を横目に見やり、ところどころ亀裂が走り隆起りゅうきした地面を乗り越えていく。由香は沈黙したまま先導し、彰はその道行きを一度も疑うことがなかった。

 伸びる影と沈黙の重さ。

 曖昧あいまいな居心地の悪さを抱えながら進むうち、ようやく由香は言葉を取り戻した。まとまらない意識をかき集め、脳内で何とか言葉として組み立てる。

「……そういえば……さっき上條さんが言っていたことなのですけど」

 ──氷室基紀を殺せる《覚醒者》などいない──。

 壁のように硬く、揺らぐことのない真実を告げる言葉。

「……私も同意見なのですよ。宗秋さんはああ言ってましたけど、柏木かしわぎさんに『関わって得はない』とまで言わせた《覚醒キャリー》なのです。それでも氷室は殺せないと言った。手伝えない、協力はしないと……何度も、何度も断られたのです。だから……どれだけ大勢の人が死ぬとしても。関わらない選択を、したのです」

 懸命につむぎ上げた言葉もそこで途切れる。

 話題を広げたいわけでもなかったのだろう、彰も黙り込んだままだった。一定の歩調を乱すことのない足取りに背を叩かれながら、由香はそれ以上何も語ることができず、ただ車椅子を動かし続ける。

 引き結んだ唇から後悔が漏れ出る。命を見捨てる残酷さには慣れてしまったが、だからといって痛みを感じないわけでもない。

 わかっているのだ。

 何としてでも止めるべきだった──氷室基紀の脅威を説くべきだった。

 学習院大学跡ホームが傍若無人な搾取を繰り返し、近隣のホームから《天使》を奪い取り、懸命に生きていただけの人間を虐殺したとしても。

 復讐など考えるべきではないのだ。どれだけ果敢に立ち向かったところで、何の感慨もなく殺されるだけなのだから。

 わかっていても止められなかった。

 復讐を望む者達の意志が強かったからではない。

 三石デパートホームの住人達を巻き込むことが嫌だったからでもない。

 目を逸らしたかったのだ。氷室基紀という男のことを、二度と思い出したくなかった。

 ──私は……考えたくなかった──。

 言葉もなく距離を越えていった先、他と比べて明らかに手入れされた形跡のある墓石の前に佇んで。

 罪悪感よりも重苦しい羞恥しゅうちさいなまれながら、由香は細く嘆息した。

 配給も終わり、ホームに帰る途中の寄り道だ。彰が同行すると聞いたとき、必ずここを訪れると決めていた。

 現実から逃げたのなら、過去に立ち向かわなくてはならない。どれだけ痛みを伴う記憶であったとしても。

「……一度でいいから、上條さんと来たかったのです」

「感傷だな。拒絶はしない。礼を言う気にもなれないが……」

「別にいいのです。ただの自己満足なのですから」

 敷き詰められた砂利の上を歩き、彰が墓石の前に立つ。その背中を見詰め、由香は瞳の奥から鈍く湧き出る痛みを堪えた。泣く権利をとうの昔に失ってしまったことは、嫌というほどに自覚している。湧き出す思いが悲しみなのか怒りなのかもわからず、由香はただ瞳を閉じて過去を悼んだ。

 かつて失ったもの。

 今尚失い続けているもの。

 香椎由香という愚かな少女の罪を糾弾し続ける墓碑が、そこに建っている。

 小さな墓石だった。何度も丁寧に磨かれ、苔の浸食を退けている。見れば墓の裏側には小さな木札がいくつも立ち並んでいた。風雨に晒され黒ずんではいたが、かろうじて表面に文字が書かれていることは理解できる。

 彰はいくつかの文字を脳内で読み上げたようだった。感傷だなと繰り返し、無責任に青く染まる空を見上げる。煙草があれば火を点けていたのかもしれない──口を開けば叫びだしそうになってしまうから。

「……池袋は、私が来た頃は本当にひどかったのですよ。毎日誰かが死んでいました。私だって何回も死にかけたのです」

「だろうな。さっきの男もそうだが、《覚醒キャリー》の数は相当に多かったはずだ」

「ええ。でも一番辛かったのは、同じ《覚醒者》に襲われること……どんな事情があったって、人殺しは人殺しなのですよ」

 由香は遙か彼方に視線を向けた。

 どれだけの時が過ぎ去ろうと、いつでも心の一部はあの時代に取り残されたままだ。

 気がつけば人が死んでいる。それが当たり前の時代。手を繋いだまま一緒に眠った友人が、目を覚ましたときには大量の血を吐いて死んでいたこともあった。ほんの一瞬目を離した隙に子供が誘拐され、人が犯すべきでない罪によって奪われたこともあった──泣いても喚いても、不幸が洪水のように押し寄せる時代。三石デパートホームが安定し始めるまでの間、どれだけの人命が失われたのか数えるのも虚しい。

 人だったものの残骸が散らばる都市。

 罪を重ねるのは同じ《覚醒者》だった。彼らは《天使》を奪おうと徒党を組み、昼夜となく襲撃を続けた──だからこそ、由香は殺戮の限りを尽くすしかなかったのだ。

「せめて形だけでもお墓を作ろうって、この霊園に死体を集めたのです。私のせいで死んだ人達と、私がこの手で殺した人達のお墓を」

「死体はどうした。焼いたのか?」

「いえ。死体は全部、池袋駅の地下構内に預けたのです。そもそも焼く手段もなかったですし……間宮まみやさんが引き取ってくれたので」

「成る程な。あの死体の山はどこから持ってきたのかと思っていたが」

 得心したように頷き、彰は粗末な木札の墓に向けて手を合わせた。

 宗教を信じているわけではないのだろう。彼は作法そのものに敬意を払っているのだ。連綿と続いてきた先人達の努力に対して。

 そして今、罪を犯そうとしている由香へと、銃口にも似た視線を突きつける。

「──この墓が、また増える」

「……はい」

「馬鹿げた質問を返そう。香椎由香、おまえは氷室基紀に勝てるのか?」

 問われて言葉に詰まったのは、答えがわかりきっているからではなくて。

 心の軋む音を聞いたからだった。

 氷室基紀について思い返すことを、本能が拒絶しているのだ。

 精神の最も奥深い場所に刻まれた傷からは、今も血が流れ続けている。苦痛はないが、だからこそ喪失に気付けない。

 何を失ったのか。

 いつ奪われてしまったのか。

 抗う心を。諦めを踏み越えるための勇気を、変化を拒絶せず迎え入れる意思を。

 根こそぎ盗み出されたのはいつだったのか──。

 思い出すことはできなかった。唇を噛み、鉄臭さを味わいながら答える。

「……無理、なのです」

「では、黒川恵一ならば?」

「──それ、は」

 ──わからない、と言いそうになって。

 慌てて由香は言葉を飲み込んだ。

 希望を託す言葉など、どうして伝える権利があるだろうか。

 空から降る寒気に自身の体を小さく抱いて、由香は細く鋭い吐息をこぼす。黒川恵一。やぶにらみの少年の姿を思い返す。都内最強の存命能力を誇る《覚醒者》──単身で《覚醒キャリー》を狩り続け、今は三石デパートホームに身を寄せている。

 現実を超越していく彼ならば。

 勝てるのだろうか──氷室基紀に。

 あの、悪夢そのもののような男に。

 殺意の刃を心臓に突き立てることが、できるのだろうか──?

「……答えられないならそれでいい。少なくとも悩む余地があるだけマシだからな。さっきの坊主よりは期待が持てる……束になっても勝てる可能性はゼロだと断言されるより、遙かにいいさ」

 彰が乾いた声で呟く。

 その目には深い疲れの色があった。当然だろう。氷室の監視下で暮らし、娘を失い、復讐の刃を振り下ろしても届かなかった。仲間を殺された挙げ句に裏切り者の烙印を押され、それからは半ば居候のような形でホームに避難している。疲れていないはずがない。

 そして恐らくだが、彰もまた同じような印象を由香に抱いている。

 労いや慰めの言葉はない。彰にそんなものを期待したこともなかった。期待したのはもっと別のものだ──言葉にできず、文字でも伝えられない何か。想像でしか共有できないもの。

 それはたとえば、墓石に刻まれた名前と、そこに込められた想いのようなものだった。

「……純子すみこ──まさか墓があるとはな」

 彰が一度天を仰ぐ。目を閉じ、数秒ほど立ち尽くした。

 再び墓石に向き直ったとき、表情はいつもの仏頂面に戻っていたが──微かにだが確かに、涙の気配は残されている。

 由香は車椅子を漕いで前進し、墓石のすぐ近くにまで近付いた。持ってきていたタオルで墓石の表面を擦り、こびりついた汚れを落とす。水があれば掃除も楽になるのだが、生きている人間に回す分さえも不足しがちなこの世界で、死者に手向ける水などあるはずがなかった。

 思い返す。

 忘れていた記憶を。

 忘れたことさえ記憶から抜け落ちかけていた苦い過去を。

 思い返し──悔悟かいごする。

 打ち付けるような時間の重さに。彗星のような軌道で巡ってきた自分の罪に。軋むほどに強く奥歯を噛みしめた。

 墓石をぬぐい、苔と共に沈殿した時間を払い落とす。彰はそこで片目を細めた──腕組みし、怪訝そうな表情を浮かべる。問わず語りの言葉に応じるように、由香は車椅子の背もたれに体重を預けた。溶けた鉄のようなため息を吐き出して、懺悔ざんげするような心地でその名を呼ぶ。

「──このお墓に入っているのは……私が、私のためだけに殺してしまった人達なのです」

 ──上條彰の娘、上條純子と。

 そしてもう一つ、刻まれた名前が風に吹かれる。

「……もう一人は……私が、絶対に忘れてはいけない人。この人のおかげで生きているのです。この人のおかげで氷室から逃げられたのです。この人は──」

 ──世界でたった一人、心の底から幸せになって欲しいと願った──


「──向井原むかいばら、藍……かつて学習院大学跡ホームで暮らしていた、《覚醒者》なのですよ──」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

完全世界物語第二部 佐賀屋 @hibana_sagaya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る