追想
令和二十三年九月 二十五日
真理は、あの日以来一度も「Enbodies」を起動していなかった。
この一週間、何度か倒れた男子生徒のことを聞いて回ったが、周囲の反応は冷ややかだった。彼はやはり、最初から存在しなかったことになっている。あれが現実だったのか、ただの幻だったのか。いずれにしても、真理は現実からもゲームからも目を背けたくなっていた。
あのひと、どこにいったのか——きにならないの?
体の奥底から、幼い頃の自分が囁く声が聞こえる。気づかないふりをして学校に通ってはいるが、心の中では絶えず不安が渦巻いていた。あの人とは、倒れた男子生徒のことなのだろうか。それとも……。両方探しに行けばいいじゃない。幼きジェームズ・クックが、母なる海へ出航するように自分を促しているかのようだ。しかし、今の真理にその余裕はない。
亜美も、その変化には気づいていた。
「体調悪いの? 無理しないでね」
授業中、隣の席から亜美が小声で尋ねたが、真理は軽く頷くだけだった。かつては、亜美と共に授業の疑問を話し合うことが日常だったが、今はその好奇心すら薄れてしまっている。
かつて、何にでも興味を持ち、友人たちを巻き込むような活発さを持っていた大胆不敵な萩野真理は、今ではすっかり姿を消していた。今はただ、ぼんやりと窓の外を眺めることが精一杯だ。
窓の外は、いつもと変わらない穏やかな色をしていた。
その日の授業も、いつもと同じ内容を受けている気がした。
数学の授業――何度も聞いたことのある説明が繰り返されているような感覚に襲われる。ノートを見ても、同じ公式が既に書き込まれているが、それが今朝のものなのか、昨日のものなのかさえ分からない。時間の感覚が曖昧になっていく。
「……また」
彼女の視界に広がるのは、まるで定められた動作を反復しているクラスメイトたちだった。時間が進む感覚がなく、教室の空気が淀んでいる気がして息苦しい。隣の男子がノートに鉛筆を落とす。床に触れる音、その後すぐに鉛筆を拾い上げる手の動き――その瞬間が、頭の中で何度も再生される。
視線を教室から外し、窓の外に目を向ける。廊下を歩く3人の生徒が、まるで人形のように同じ歩調で足を運び、同じ角度で頭を傾け、同じ方向に視線を送っている。動きがぴたりと揃っていて、偶然の域を超えているように思えた。
額に
その不安が最高潮に達した時、不意に視線を感じた。亜美がこちらをじっと見つめている。
「ねえ、顔色が悪いよ。大丈夫?」
亜美がそう問いかけた瞬間、彼女の顔がほんの一瞬歪んだ。まるでノイズがかかった映像のように乱れ、瞳の奥で何かが揺らめくのを捉えた気がした。思わず息が詰まる。
体が勝手に反応し、椅子を倒す勢いで後ろに飛び退く。教室が一瞬で遠く感じられ、耳鳴りが頭の中をかき乱す。亜美の
「どうしたの、真理?」
亜美の声が遠くから響くように聞こえたが、その声に耐え切れず、真理は力を失い、その場に崩れ落ちた。恐怖と混乱、そして圧倒的な孤独感が一気に押し寄せ、感情を抑えることができない。
震えながら涙を流す真理を前に、亜美はただ立ち尽くすしかなかった。
放課後、校門を出てすぐのところで、亜美が勢いよく駆けてきた。
「今日は真理の家に泊まるから! いいよね、嫌とは言わせないからね」
いつもの冷静な姿とは違い、少し大胆で強引な態度をとる亜美。彼女がこうなるのは、いつも私を気にかけてくれている時だと分かっているだけに、申し訳ない気持ちが込み上げてきて、真理は力なく頷く。探究心に満ちていた真理の顔からは、もう以前のような光が消えている。その様子に亜美の心配はますます募っていった。
家に戻ると、真理の母親が出迎えた。ぎこちない挨拶を交わし、真理はまっすぐ自室へ向かう。母親の何気ない表情にさえ、どこか作られたような違和感を覚えたが、今は気にかける余裕もなかった。
「ねえ、気分転換にEnbodiesやろうよ。楽しいこと思い出そう! 真理、最近全然顔出さないから、みんな心配してるよ」
部屋で亜美が軽い調子で提案した。真理は一瞬ためらったものの、亜美と一緒なら大丈夫かもしれないという思いが背中を押し、静かに頷いた。
久しぶりに「Enbodies」を起動する。ログイン画面が現れると、少し緊張しながらも、現実の異常から逃れられる場所が目の前に広がっていくのを感じた。
ゲームの中に入ると、彼女は少しずつその世界に引き込まれていった。亜美と共に、久々に訪れた仮想の街を巡り、仲間たちと談笑し、しばしの間現実の重圧から解放される。たった一週間離れていただけなのに、まるで忘れかけていた懐かしい風景に再び触れるような感覚だった。
「やっぱり、真理と一緒だといつもの倍は楽しい」
亜美の微笑みが真理の心に温かく響く。彼女の存在が、どれほど自分にとって大きなものであるかを、改めて実感する瞬間だった。
足を止め、亜美と共に楽しく広場のイベントを見ている最中、真理はふと広場に集まる人々のどこか奇妙な様子に気づいた。一見すると、イベントの告知をする集団のよくある宣伝の光景に見える。けれども、彼ら全員が妙に貼りつけた笑顔を浮かべていた。真理は、彼らの笑顔はどれも不自然に固定され、感情が一切読み取れずまるで仮面をかぶっているようで、なんだか気味が悪いと思った。
ふと後ろから声がかかる。
「……あれ、なんだ、人違いか」
振り返ると、同い年くらいの男の人が立っていた。彼は真理を見て、ぶつぶつと独り言のように何かを呟いている。
「君……えーっと、悪い。友達にそっくりだったからつい」
少しばつが悪そうにしながら、彼は軽く頭をかいた。
「なに? 新手のナンパ?」
亜美がすぐに反応したが、彼は苦笑しながら両手を上げて弁解した。
「ごめん、ごめん、そういうんじゃないんだよ。俺、
「真理、これ絶対ナンパだよね」
亜美が言うと、圭一と名乗る男はまた頭をかいた。
「マジでごめん! でも、君が友達にそっくりなのは本当、それで思わず声かけちゃったんだ。彼女、最近ずっと学校にも来なくてさ、このゲームに夢中になってたの思い出して、もしかしたらと思って探してたんだ」
真理は、彼の弁解を聞いているうちに、妙に真面目な印象を持った。亜美の不信感を隠さない様子とは対照的に、彼にはどこか憎めない雰囲気があると感じていた。
「それで、そのアバター……君はスキャンしたデータそのまま使ってる?」
彼は不意に尋ねた。
「このゲーム、アバターは自分のスキャンデータをそのまま使ってる人が多いイメージがあってさ。まぁ、技術のあるやつは一からモデリングするんだろうけど、君のはリアルっぽいなって思って」
亜美がまた疑いの目を向けたが、真理はふと、彼の質問が興味深く感じた。ゲームの中の自分と現実の自分がどう違うのか、改めて考えさせられた。
考えを巡らせていると、広場でイベント告知をしていた例の集団が目に入る。
「あの人たちって、もしかして……」
「ああ、君も気付いた? 一からモデリングしてると、リアルさを追求しても微妙に人間らしさに欠けることがあるんだよな。特に、表情とかね。ぎこちないと感じる事があるんだ。技術が高ければ高いほど、それが目立ってくるっていうか……。いわゆる不気味の谷現象ってやつだね」
圭一の説明を聞き、ずっと引っ掛かっていた違和感が解けたような気がして、真理は納得したように頷いた。アバターが精巧に作られていればいるほど、現実と仮想の微妙な違いが浮き彫りになり、それがあの不気味さの原因なのだと理解した。
「たしかに、言われてみれば少し不気味かもね。でもいちいちそんなこと気にしてたら楽しめないよ」
亜美が二人の間に割って入りながら言う。
圭一は苦笑しながら、「まあ、ゲームは楽しむためにあるからね」と同意した。
その後、三人はしばらく広場の近くにあるマーケットで、他のユーザーが出品している多種多様なアイテムを見ながら色々な話をした。圭一が新しく始めた趣味や、理数系の学科で学んでいること、真理と亜美がどうやってこのゲームを始めたのか。会話が進むうちに、亜美の警戒心も少しずつ和らぎ、軽口を叩きながら笑い合っていた。真理も、圭一が友人を心配して探しに来たという話に共感し、次第に親近感を抱いていった。
「俺、本当に始めたばっかでまだ慣れないからさ、声をかけたのが君たちみたいな優しい人でよかったよ。『ナンパ男』呼ばわりはされたけど」
圭一の言葉に、亜美も「まあ、真理もいい気分転換になったみたいだしね」と答えた。
「ありがとう」真理も静かに微笑む。
圭一はせっかくだからと二人にフレンド申請をし、再び会う約束を取り付けてログアウトしていった。
それを見届け、真理たちもログアウトする。現実の部屋の空気がひんやりと肌に感じられた。部屋の外から、母親が二人を食事へと呼んでいる。真理は少し緊張しながらも、リビングへ向かった。
今晩のメニューは真理の好きなカレーだった。
「亜美ちゃん、たくさん食べてね」
母がそう言い切る前に、亜美は遠慮せずにおかわりを頼んだ。
「亜美ちゃんが来てくれてよかったわ。真理、最近ちょっと元気がなかったから、おばさん心配してたのよ。」
母の余計な言葉に、真理は少し照れ臭そうに言い淀んでいると、亜美は茶碗を置き、二人に向き直る。
「真理、私たち友達でしょ。困った時はいつでも相談にのるからね。おばさん、真理のことで何かあればいつでも呼んでくださいね! あとおかわりください」
三人の会話は穏やかで、明るい雰囲気に包まれていた。真理は母と亜美の賑やかなやり取りに耳を傾けながら、自分が少しずつ元気を取り戻しているのを感じた。
夕食を終えて、真理と亜美は再び真理の部屋に戻り、ベッドに腰掛けて互いに顔を見合わせ他愛のないことを語り合う。
「なんだか今日は、久しぶりに凄く楽しかったよ」
「私もだよ、なんだかんだ圭一くんも面白い人だったしね。真理も少しは気が晴れたみたいでよかった」
「うん、ありがうとね」
真理は安心したように笑った。
その後も、学校での出来事やゲームの話など、二人の明るい笑い声が部屋に響き、真理の心は癒されていった。
亜美が来てくれてよかった……本当に。真理は心の中でそう呟き、やがて静かな安堵の中で眠りについた。
翌朝、母と簡単な会話を交わした後、亜美と共に登校するため家を出た。真理は少し元気を取り戻したような声で昨晩語り合った話題について振り返り、亜美も安心したように頷く。軽やかな会話が続いていた。
しかし、学校が近づくにつれ、漠然とした不安感が再び湧いてきた。
——さがさなくていいの?
忘れたわけではない。あえて考えないようにしていたが、幼い頃の自分はそれを許さない。何故皆はあの一件を無かった事のように振る舞い、自分だけがその事を鮮明に覚えているのか。知りたくないわけではない。膨れ上がる知的好奇心と、それに比例して膨らむ恐怖心。二つの感情に挟まれ、圧し潰されそうになりながら、真理は、探求すべきか、それとも逃げるべきか葛藤していた。
だが、探求するにしても手掛かりが無さすぎる。他の誰も記憶を保持していない。いや、彼なら……圭一なら、何かヒントを持っているかもしれない。淡い期待が胸の中に湧き上がった。
「ねえ、また圭一くん誘おうよ」
真理は亜美に提案する。
「いいんじゃない?」
そう応じる亜美の後ろに見える光景に、真理は目を疑った。
あのイベント告知の集団が、昨日ゲームの中で見たままの姿でそこにいたのだ。彼らの配置、顔ぶれ、そして貼りつけたような笑顔――すべてが現実の中で再現されている。信じられないという表情で立ち止まる。頭の中で必死に、また『不気味の谷』かもしれないと言い聞かせようとするが、胸の中で急速に膨らむ不安に押し潰されていく。
「あ……亜美! あれ……!」
真理は震えながら亜美に助けを求めた。
「リアルイベントもあったりするし、きっとそれだよ」
状況を察した亜美が動揺する真理をなだめようとしたが、その言葉は真理の耳にはほとんど届かない。全身が震え出し、ゲームと現実の境界が溶け出すような感覚に、すっかり支配されていた。
「なんで……どうなってるの……!」
真理が声を絞り出すと同時に、亜美の声が遠ざかり姿もぼんやりと薄れていった。
「うそでしょ……亜美? ねえ、亜美!」
亜美が何かを訴えかけるように口を動かしているが、その声は聞こえない。
彼女はふと何かに気が付いた様子で走り出す。ひとつの音も立てず、ただ静かに。
「イヤだ! 待って、亜美! 行かないで!」
真理は叫んだが、亜美はまるで霧の中に消えるようにして去ってしまった。
パニックに襲われた真理は、涙を浮かべながら学校へと駆け込んだ。教室へ飛び込み中を見渡したが、亜美の姿はどこにもなかった。
「亜美、どこにいるの!?」
真理が声を上げると、クラスメイトたちが
「亜美って……誰?」
真理は絶望した。
いやに静かな教室に、空調の音だけが耳障りなくらいに響いていた。
そこにあって、ない 柳 百之助 @piro12h
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