無整合
令和二十三年 九月十八日
朝の光が
「おはよう」
すでに席に座っていた亜美が、軽く目を上げて真理に挨拶する。亜美の表情はいつも通り冷静だが、どこかしら真理に対して優しい眼差しを向けている。真理は笑顔で返しながら、自分の席に鞄を置いた。
「課題、ちゃんと出せそう?」
「もちろん! 亜美に手伝ってもらったおかげでね」
真理は昨晩のことを思い出しながら、鞄からノートを取り出す。心の片隅にゲームの残像が揺れていたが、今はそれをそっと風に流すことにした。昼休みになれば、クラスメイトたちがきっとその話題で盛り上がるだろう。
授業が始まると、教室の空気は一変し、静寂が広がる。真理はいつものようにノートに視線を落とすが、昨晩ゲーム内で出会った見知らぬアバターのことが頭をよぎり、心はどこか遠くへと漂っていく。あの見覚えのある顔――なぜこんなにも引っかかるのだろう。思考が宙に
真理は自分の席に座り窓から差し込む日差しをぼんやりと眺めながら、クラスメイトたちの賑やかな会話が耳に入っては消えていくのを感じていた。なんだか、まるで自分だけが薄い膜に覆われ遠くにいるような、奇妙な感覚に静かにとらわれる。
ふと、幼い頃のことを思い出す。
あの頃も、真理はいつも何かに夢中になり、時折周りのことが見えなくなるほど集中していた。ある日、彼女は「虫の足って、本当に六本だけなのかな?」という無邪気な疑問にとらわれた。その考えが頭から離れなくなり、気がつけば周りの遊びにも興味を持てなくなっていた。亜美が「今日は何して遊ぶ?」と聞いてきても、真理は上の空で、「ねえ、亜美、虫の足って本当に六本なのかな? 十本とかもっとたくさんのはいないのかな……」と唐突に聞いた。
普段なら、亜美はそんな真理をなだめ、愛想笑いで誤魔化すことが多かった。しかし、その時は違った。亜美は真理の話をしばらく黙って聞いていたかと思うと、突然こう言い出した。
「じゃあさ、探しに行こうよ! いーっぱい足が生えた虫!」
亜美の提案に、真理は驚いた。彼女はいつも慎重で、積極的に行動を起こすタイプではないと思っていたからだ。だが、亜美の言葉に背中を押された真理は、彼女と一緒に虫を探しに裏山へと向かった。探検ごっこと称して、二人でよく遊んだ場所だ。
その日、見つけたのはムカデだった。足が六本以上の虫がいることは証明されたものの、素手で掴んで噛まれた上に、帰りが遅くなりこっぴどく叱られた。しかし、真理にとっては今も良い思い出として心に残っている。亜美が自分のために行動を起こしてくれた、あの小さな冒険――それは、真理にとって大切な瞬間だった。
「真理、聞いてる?」
現実に引き戻された真理は、亜美の声に反応してはっとした。亜美の目が真理を見つめている。冷静な視線には、少しの困惑が混じっていた。
「あ、うん……ごめん、ちょっと考え事してて」
真理が笑いながら言い訳をすると、亜美は何もなかったように課題について話を続ける。しかし、真理の心は
「ねえ、亜美。昨日、ゲームでさ……」
真理が話を切り出そうとした
「どうしたの?」
亜美が先に立ち上がり、窓の外を覗き込む。皆の視線が集まる先で、男子生徒がふらふらと歩いていたかと思うと、突然その場に崩れ落ちる姿が見えた。驚いたクラスメイトたちがざわつき、すぐに数人が外に飛び出していく。
「真理、行こう」
亜美に促され、真理もすぐに後を追った。倒れた生徒は見覚えのある顔だったが、名前までは思い出せない。別のクラスの生徒だということだけは分かった。
「大丈夫……?」
亜美が声をかけるが、彼は反応しない。周囲の人々も、どうしていいかわからない様子で慌てふためく。
「騒ぐなー、お前ら教室に戻れー! おい、大丈夫か」
騒然とする中、先生が到着し慌てるクラスメイトたちを落ち着かせ教室へ帰す。真理も流れに従い、教室に戻ろうとしていたが――ふと、横目に入った男子生徒の姿が、かすかに揺らいだ。
「……え?」
瞬間、真理の足が止まった。生徒の輪郭がぼんやりと揺れていた気がする。だが、それが目の錯覚か、本当にその場で起きたことなのかは分からなかった。立ち去ろうとする周囲のざわめきが、遠くで薄く響く中、真理はもう一度その生徒の方を振り返った。
――彼は、消えていた。
亜美が声をかけたとき返事はなかった。さすがに歩ける状態ではないだろう。ではこの一瞬の間に、先生がどこかへ連れて行ったのだろうか。まるで、最初からそこには誰も存在していなかったかのような、不気味な静けさだけが漂っていた。
「……見間違い?」
そう自分に言い聞かせるしかなかった。今、見たものが現実なのかどうか、真理には確信が持てない。ざわざわとした空気の中、誰も彼のことを気に留めていない様子に、仕方なく真理も教室へ戻った。しかし、妙な違和感が心の片隅にこびりついて剝がれない。
一晩が過ぎてもその感覚は消えず、やはり確かめておきたいと思った真理は、朝早く学校に着くなり男子生徒の事を聞いて回った。しかし、クラスの誰一人として、あの彼のことを覚えている者はいなかった。名前はもちろん、存在そのものが消えたかのようだった。
「ねえ、亜美。昨日男子が倒れたじゃない。あれって結局誰だったんだっけ?」
亜美は、眉をひそめて首をかしげた。
「……倒れたって何のこと?」
その言葉を聞いて、真理の中に不安が膨らんでいく。だが、亜美の顔に浮かぶのは、ただ疑問の色だけだ。
「嘘でしょ……昨日、一緒に見たじゃない。二年の男子生徒が倒れたんだよ。覚えてないの?」
亜美は困惑したように少し眉を寄せる。いつもは冷静な亜美だが、その瞳にほんの一瞬だけ、戸惑いが見えた。
「そんなことあったっけ……? 私は見てないよ」
亜美の言葉に、真理は動揺を隠せない。亜美が心配そうに真理を見つめる。
「ねえ、真理。最近何か変じゃない? 大丈夫?」
その静かな問いに、真理は返事を詰まらせる。一瞬、ここ最近感じていた、漠然とした不安感、そのすべてを亜美にぶちまけたくなる衝動に駆られたが、言葉は口から出なかった。
昨日、確かに一緒に目撃したはずなのに、亜美もクラスメイトも、その記憶を共有していないなんて……。いや、そもそも男子生徒が存在していたことすら、全く認識されていない。そんな事があり得るのだろうか。いずれにしても、しつこく問いただしたところで、不審がられるだけだ。亜美にもこれ以上余計な心配はかけたくなかった。
放課後、真理はいつものように「Enbodies」にログインした。ここは、現実を忘れさせてくれる場所だ。何もかも忘れて理想の世界を探求したい気分だった。しかし、今朝の奇妙な現象が頭に焼き付いて離れず、仮想世界の解放感すら薄らいでいく。
ログインしてすぐ、警告音とともにゲーム画面に一瞬だけ見慣れないアラートが表示された。
真理の心臓が跳ね上がる感覚がした。普段なら何も気にしないエラーメッセージだが、先日の出来事が頭をよぎり、嫌な予感が胸の中に広がる。
C:\Program Files (x86)\Enbodies\objects\scene_data.obj
反射的にスクリーンショットを撮った真理は、保存された画像にエラーメッセージが確かに写っていることを確認した。
「どういう意味……?」
いつものようにゲームを続けようとしたが、気持ちはすっきりしない。メッセージ自体はすぐに消え、ゲームは何事もなかったかのように進行していく。それでも、真理の中にある不安感は拭いきれなかった。仮想の世界で感じていたはずの自由さが、どこかへ遠のいていくように思える。
学校で起きた不可解な現象——誰の記憶にも残っていない男子生徒の存在。真理は、自分もその記憶を消してしまえたら、とさえ思っていた。だが、ゲームの中に逃げ込んでも以前のような解放感は得られない。何をする気も失せ、彼女はヘッドセットを外し、ただ無気力にモニターを見つめていた。
幾ばくかの時間が経過した後、ふいに画面が暗くなる。省電力モードに切り替わったのだろう。
ぼんやりと映し出された自分の顔が、暗くなった画面に映り込んでいるのが見えた。
その瞬間、肝が潰れるほどの衝撃を受けた。
どこかで見た――いや、感じたことのある顔。目の前の映像と、あのアバターが重なっていく。どうして今まで気づかなかったのだろう。あのアバターは……。
動悸が激しくなる。真理は自分の記憶を呼び起こそうと、必死に考えた。そう、父の顔だ。あのアバターからどことなく父を感じ取っていた。真理は、無意識のうちに父の面影を追っていたのだ。
「……気のせい、だよね」
亜美にこのことを話すべきか、考えたが、彼女がどう思うかはわからない。こんなことを話しても、考えすぎだと笑われてしまうかもしれない。
考えることに疲れた真理は、深く息をつき、布団に潜り込んだ。
幼少期、亜美が二人いたと騒ぎ立てる真理を、大袈裟過ぎるくらいに笑い「それは他人の空似だ。」と優しく諭す父の姿が思い起こされた。そうだ、前にもあったじゃないか。そうに決まっている。これは他人の空似というやつだ。そう自分に言い聞かせながら、拭い切れない不安と寂しさの中、真理は眠りにつく。
「————お父さん」
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