そこにあって、ない

柳 百之助

兆し

 令和二十三年 九月十七日


 平凡で穏やかな日常が続いている——

とはいえ、この数年の夏は異常なほど暑かった。


 九月も半ばだというのに、依然刺すような陽射しの下、萩野真理はぎのまりはふと駅前の古びた整形外科の看板を見上げた。以前は自信に満ちた笑みを浮かべていた男の顔は、今ではどこかうつろで、未来を諦めたかのような陰りを帯びている。無意識にその表情に引き寄せられた自分に気づき、彼女は軽い戸惑いを覚えた。何かが終わりに向かっているような、漠然とした不安が胸に広がる。

 彼女は幼い頃から周囲の変化に敏感だった。ささやかな兆候にも気づかずにはいられない。友人たちにはどこか風変わりに映ることもあるが、彼女にとってそれは自然な感覚だった。

 だが最近、その観察力で捉えた日常の小さな変化が、心に重くのしかかるようになっていた。退屈ともいえる平凡な高校生活、しかしその裏に潜む微細びさいな違和感が、いつしか心の奥に潜む不安と結びつき始めている。


 家では、母親との二人暮らしが続いていた。父親の記憶は薄れ、残るのは古いアルバムの写真だけだ。母親は何も語らず、父の話題が出るたびにその空気は静まり返る。父の書斎は残されているが、真理はその部屋に足を踏み入れたことがない。まるでその空間自体が、過去の傷痕のように閉ざされているのだ。

「ただいま」

 と言いながら、真理は無言の返事を予想しつつ、自室に戻る。母親との会話はいつも表面的で、深く入り込むことはない。

 今日もまた、真理は現実から逃げるように、VRゲーム「Enbodiesエンボディーズ」の中に没入しようとしていた。親友に半ば強引に始めさせられたゲームだが、今では「なんでも体現できる」その世界に自分の新たな可能性を感じている。仮想の世界は、現実の限界を超えた自由があり、彼女を強く引き込む。ここでは、現実では味わえない解放感があった。

 ログイン後、程なくしてフレンド通知が表示される。だが目の前に現れたのは見知らぬアバターだ。挨拶を交わそうとするも、声をかける間もなくそのアバターは姿を消してしまった。

 間を置かずに亜美が現れる。彼女をこの深い沼に引きずり込んだのは、ほかでもない松原亜美まつばらあみその人だ。

「お待たせ、先に課題終わらせようよ」

 亜美の濁りのない声が仮想空間に響く。しかし、真理は先ほどの見知らぬアバターが妙に気になった。あの表情かおには、どこか見覚えがあったような……。

 思慮しりょを巡らそうと試みたが亜美との会話に気を取られ、すぐに霧散むさんした。

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