藤堂こゆ

風が駆け抜けた。

「わたしは桜の花の妖精だよ」

少女はそう言った。艶めく桜の幹に腰かけて。

なるほど確かに、妖精といってもおかしくない美しさだった。

ふわりとした薄い色の髪が春色の風を含んで、肩のあたりで揺れている。白いワンピース。ともすれば死に装束にも似た。

くるりとした瞳が私を見ていた。その表情には自信以外の何ものも含まれてはいない。

陶器のような白い肌という言葉の本当の意味を、私はここに来て初めて知った。

眩いほどの桜吹雪。私は自然と目を細める。

「本当に?」

いぶかしく思いながら訊くと、彼女はふうわりと頷いた。

「また明日も会おうね」

花が咲くような笑み。

「もちろん」

私は頷く。この桜並木の坂は私の登下校路の最中なのだ。

「じゃ、行きなさい」

彼女は白く細い手で私の行く先を指し示す。

私は素直に頷くと、振り返らずに歩いた。いくつかの言葉の本当の意味を知ることができたことに満足しながら。

坂を登りきってやっと振り向くとしかし、彼女が宿っていた樹はほかのものとすっかり見分けがつかなくなっていた。

目を上げると清々しい青空が広がる。春の匂いを嗅いで、私は登校路に向き直った。


次の朝も彼女はそこにいた。

「学校って、楽しい?」

彼女は純粋無垢な、けれどもどこか含みのある笑みで訊く。

「そりゃ、まあね」

私は桜の樹の下に棒立ちになって答える。

「楽しいことも楽しくないこともあるよ」

ふーん、と彼女は鼻を鳴らして、唇を少し尖らして空を見た。

「……」

口を開けるような気配があったけれど、彼女は結局何も言わずに手を持ち上げた。

「行ってよろしい」

私は彼女にちょっと微笑んで見せてから、その場を歩き去った。


雨の日は桜の妖精は現れないようだった。

もうすぐ夏が来る。

桜の花びらはすっかり散りかけて、けれども不思議なことに彼女の樹だけはほかの樹よりも持ちこたえているようだ。それは坂の上から振り返って見るとよくわかった。

私は傘をさしながらうつむいて歩いていた。濡れた石畳に貼りついて踏みにじられた花びらは、果ては排水溝の格子に引っかかって囚人のようにわだかまる。

傘の膜の向こうから声をかける者があった。

私は傘を傾けて右を見た。

彼女が濡れた枝に座っていた。

「いい天気だね」

今までいかなる雨の日にも現れなかった彼女が、白いワンピースをぐしょ濡れにしてそこにいる。

ふわりとした髪は水の重さに引き伸ばされて。

けれどもその頬を伝う水滴は水晶よりも美しかった。

「今日の夜、ここに来て」

彼女は妖しげな微笑みでそう言って、私の道を指した。

私は約束もできず、逡巡した末に笑みを貼りつけながら曖昧に頷いた。そして学校への道を急いだ。

その日は一日、雨音に気を取られていた。


夜。私はなんとか家を抜け出して、あの桜の樹のもとへ向かった。

いつの間にか走り出していた。

雨はやんでいる。夜の闇には雨の残り香が漂うばかりだ。

桜並木が始まる前に一旦足を止め、膝に手をついて荒い息を吐いた。

喉がひゅうひゅう、ぜいぜいと鳴る。

唾をひとつ呑み込んで、重い足を持ち上げて坂道を登り始めた。

痛わしいほど減った孤独な彼女の花は、けれども夜闇の中でぽつりぽつりと光って見えるようだった。

私はようやく樹の所にたどり着くと、石畳を鳴らしてそちらを向いた。その音は誰もいない通りに大きすぎるほど響いた。

白い街灯がじりじりと瞳を焼く。私は目を細める。

彼女はいつもの枝に綱をくくりつけているようだった。

丈夫にくくり終えて縄の端を落とす。その先は、輪になっている。

「来たよ」

そこまで見届けて私が声をかけると、彼女は嬉しそうに笑って私を見た。そして、

「これからわたしがすること、よく見ててね」

そう言った。

「うん」

私は頷いた。止める気はなかった。だって彼女は妖精だから。

彼女は再度縄の端を引き上げて、自らの首にかける。

私たちはただそのときを待った。

桜の花の最後のひとひらが落ちた。彼女はためらう様子も見せずに枝から飛び降りて見せた。

ワンピースが湿気た空気を包んでふわりと膨らむ。しかしそれも一瞬のこと。

彼女の顔色は様々に変わって、そしてついに動かなくなった。

私はその病的に白く細い足首に触れてみた。

温かかった肌はだんだんと冷えていく。

ああ、彼女も人間だったのだな、と思った。

ひとつの亡骸と夏に染まった樹を置いて、私はゆっくりと、来た道を引き返した。


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藤堂こゆ @Koyu_tomato

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