フルアウトでどうぞ

@Kirikoshi_0619

第1話

 「次もどーせセンターは律でしょ。」

 小馬鹿にしたような女子特有の鼻につく声だった。今更のことなので聞いたところでどうというわけでもない。センターで踊りたいなら練習して自分の魅せ方というものを学んだらどうなんだと思わないでもないが、彼女達にはそれほどの熱量もないことは随分と前に承知していた。

 ダンスをいくら続けていても上手くならない奴は上手くならない。根本的な体の使い方がわかっていないんだ。体が柔らかい、体幹がしっかりしている以前の問題としてどう動いたら綺麗か、どう踊りたいのか。要は意識だ。何年やってもインスタやYouTubeで流れてくるような半端な踊りしかできないのは、その半端な踊りに満足しているからだろう。まぁ、趣味程度で続けている彼女達にとやかく言う権利を私は持ち合わせていないわけだが。腹の中で思うくらいは許してほしい。


 ダンスは好きだ。周りの視線を集めることができた時の高揚感と想いのままに体が動いた瞬間の興奮は何度味わっても新鮮な気持ちになる。人前に立つのが恥ずかしいと言う人もいるが、私はどちらかというと見て欲しかった。この人は上手いと思ってもらえることが何よりの楽しみだった。


 高校に進学して三ヶ月。部活としてダンスを続けることも考えたが、私立の、それも全国大会常連校ともなると個人のプライドも相当なものだった。どのジャンルをどれくらいやってきたのか。仮入部では自慢大会かと思うほどだった。何よりここの専門はチアダンス。未知の領域に足を踏み入れようとするほどの情熱も勇気も今の私は持ち合わせていなかった。


 『帰りにコンビニ寄ってきてくれる?』

 自転車を駐輪場から出していざ漕ぎ出そうとしたところで響いたLINEの着信音は母からだった。ケチャップを買い忘れたという趣旨のメッセージの次に送られてきたのは、猫だか犬だかよくわからない生き物が、涙で顔をぐちゃぐちゃにしているスタンプだった。今日の夕飯はオムライスかな。そんなことを考えながら自転車を走らせていると公園の端の方で立ち尽くしている男の子が目に入った。 高校生くらいだろうか。不思議には思ったが通り過ぎようとしたその時だった。

 何かスイッチでも入ったかのようにパッと開かれた瞼、それに合わせてキレ良く出される手足。思わずブレーキをかけた。きっとイヤホンでもしているのだろう。こちらには聞こえていないはずなのに、音楽が響いてくるようだった。

 

 “この人上手い。”


「おかえりー。」

「ただいま」

「ケチャップありがとね。すぐご飯できるよ。」

「うん、先に着替えてくる。」

 階段を駆け上がり自室に入るとターンをひとつ、またひとつ。制服のスカートがそれに合わせて形を変える。

『あー踊りたい‼︎』

 こんな気持ちは久しぶりだった。今ならいい振り付けが浮かんできそうだ。いやそんなことよりただただ、この言い知れない興奮に身を委ねて踊っていたかった。公園の彼のダンスはゴリゴリのヒップホップというよりジャズに近い雰囲気だったよな。体のしなりやウェーブだって女子のそれより完成度は高かった。相当練習したんだろう。彼は自分の魅せ方をわかってる人だ。

「ああいう人と練習できたら楽しいだろうなぁ。」 

 ベットに倒れ込んだと同時に吐き出された私の呟きを受け止めてくれるのは、年季の入った天井くらいのものだ。



 翌日の放課後、いつもよりも自転車のタイヤの回転数を少しだけあげて、たどり着いた先は昨日例の彼を見かけた公園。日の傾きかけたその場所に人影はなく、赤く錆びついた遊具がひどく寂しそうだった。

 今日は来ないのかもしれない。昨日はコンビニに寄るためにいつもとは違う通りをたまたま通っただけ。彼が毎日ここで練習しているとも限らないのに、私はどうするつもりだったんだろう。彼がいたとして、声をかけたのだろうか。もう帰ろう。そう思って止めておいた自転車にむかって歩き始めた時、

「あの、」

私を呼び止めたのは制服を纏った男の子で、眉尻を下げ、いかにもオドオドと言ったような様子だった。

「私ですか?」

彼は頷いて続けた。

「昨日…ここでダンスをしていた彼と、お知り合い、だったり、します、…か?」

「え」

 この人も彼を探しにきたのか。段々尻すぼみになっていく問いに私がなにも発さないままだったからか、目の前の彼はそれを否定の意だと捉えたらしく、すみませんでしたと、か細い声で告げるとくるりと方向を変えて歩き出した。私がハッと気づいた時には背中が先ほどよりも一回り近く小さくなっていて、慌てて声を張り上げる。今度は私が彼を呼び止める番だった。

「あの!…知り合いじゃないけど、私が探してるのもたぶんその人です。」



 ナヨナヨとした彼は幸(さき)君というらしい。1週間ほど前にここで例の彼を見かけたのだという。

「来るたびに声をかけようって、でもなかなか話しかけられなくて…。今日こそはと思ってたんですけどね…。」

彼はそういうとははと乾いた笑いを漏らした。

「それで綾瀬さんは、」

「あ、さんつけなくていいよ。言いにくいだろうし。あと敬語もなしで。」

「…わかった。じゃあ、あやちゃんは、」

いきなりちゃん付け?しかもあやって…。さっきはどもってたくせにそこんとこの飲み込みは早いな。別にいいけどさ。敬称をつけるなって言ったのは私だけどさ。

 彼が“あやちゃん”というたびに、そこにはなんとなくこそばゆい感覚があった。

「どうしてあの人のことを探してるの?」

私が心の内でついた悪態が届くはずもなく、彼は淡々と続けた。

「うーん…、一緒に踊れたら楽しそうだなーって。」

「あやちゃん、ダンスやってるんだ。」

「うん。……幸君は?どうして?」

私の問いに彼は少し考え込んで、

「あんなふうに踊りたいって思ったから。」

澱みなく答えた。真っ直ぐな瞳は私のそれよりもひどく眩しいように思われて、目を逸らしたいのにそらせない、そんな不思議な一瞬だった。

「何かを極めるってきっとああいうことなんだって。どんな気持ちなのか知りたくなったんだ。楽しいのか、嬉しいのか…。もしかしたら苦しいのかもしれない。それがわかるくらいになれば、何か見つかる気がするんだ。」

 なんとなく彼の言いたいこともわかる気がした。自分の持たないものを持っているというのはそれだけでキラキラと輝いて見えるもの。私も特別なものを例の彼に感じて、もしかしたらと何か期待している部分があったのかもしれない。

「あ!ごめん、なんか今すごく恥ずかしいことを言った気がする…。」

最後に聞こえてきた忘れて、というか細い声に私は首を横に振って答えた。

「変わりたいって思ってても口に出したり行動したりってなかなかできることじゃないよ。」

私の言葉に彼は眉尻を下げ、はにかみ、そしてしばしの沈黙が訪れる。私はこういう空気感があまり好きではない。次の言葉を頭の中で考えなければならないという義務的な感じがどうも合わず、沈黙も特段気にしないという人の感覚が私にはいまだによくわからない。

 これ以上ここに止まる理由もないのだし、さっさと帰ろう。そう思って発した私の「じゃあそろそろ、」と幸君の「あの、」という単語が重なった。

 お互いに先を譲り合って、少し面倒だなと感じる数十秒だった。私は割とせっかちな質なので、二回目で折れて、帰るねと、ベンチから立ち上がって、もう会うこともないであろう彼に手を振った。

「え?」

振り返って、踏み出そうとした左足は、幸君に右腕を掴まれてそれが叶わなかった。こんなことを言ったら失礼かもしれないけれど、立ち上がり、間合いを詰めてきた彼の表情は、そのいくらか幼さを残した顔つきに似合わず真剣そのものだった。

「あやちゃん、僕に、ダンスを教えてくれませんか。」




 「じゃあこの曲に合わせて、リズムどりから始めよう。」

幸君の少し前に立って、お手本を見せながらレッスンの真似事のようなことを始めた。その場のノリでOKを出してしまった日から何度後悔のため息をついたことだろう。それでも連絡先を交換して、週に二、三回の頻度で、こうして二人で練習するうちに、気がつくと一ヶ月がとうに過ぎていて、この時間も案外楽しいかもしれない。そう思い始めていた。

「だいぶ慣れてきたね。」

「そうかな?」

「うん。だらだらレッスンやってる子よりもよっぽど「律?」

その声に振り返るとしっかりメイクはされていても分かる見知った顔があった。

「珠理。」

「久しぶりじゃーん。何してんの?こんなとこで。」

「あやちゃん、お友達?」

幸君は彼女の勢いに呆気にとられていた。

「昔通ってたダンス教室が同じだった子。」

「あ、君もしかして律の彼氏?」

「いや!彼氏だなんてそんな。僕はダンスを教えてもらっていて、」

幸君のその言葉に珠理は嬉しそうに口角を上げた。

「だよねー。こんな自尊心の塊みたいな子に彼氏なんてできるわけないもん。」

そうだ。珠理はこういう奴だ。もう今更どうとも思わないけれど、彼女は私の気分を逆撫でするような言葉を選ぶのが得意だった。

「え…じゅり、さん?」

「あんた、ぜんっぜん変わんないわね。化粧っけもなくて芋っぽいまんま。」

「珠理こそ、そのよく回る口をもっと有効活用する頭はないわけ?」

 小学生の頃、我慢できなくなって取っ組み合いの喧嘩になったことがあった。どんなにイライラさせられることがあっても、手を出してしまったこちらが悪い。親に散々言って聞かされたその言葉を理解はすれど納得はできなかった。三年通った教室を辞めると同時に珠理に頭を下げた時の屈辱はきっと一生忘れない。

「今がその有効活用の時だと思うんだけど。てか、まだ続けてたんだ。とっくに辞めてるもんだと思ってた。」

「踊るのが好きだからね、珠理と違って。」

「はっ、だっさ。踊るの好きとか聞いてらんないんだけど。あんた才能ないんだし、キッパリ諦めたら?」

珠理は笑いながら続けた。

「それとも自分のこと上手いとでも思ってるの?イタすぎるんだけど。」

「自信を持つことは悪いことじゃない。自分のレベルに限界をつけて、諦めてしまうよりよっぽどマシ。」

「その正論しか出てこない口、どうにかなんないわけ?ほんと昔っから大っ嫌い。」

「あれ、気が合うじゃん。私も昔から珠理のこと大嫌い。」

私と珠理の口争を目の前に、幸君は慌てふためいていた。

「もういいわ。あんたと話してたら、そのキモイ話し方うつりそうだし。君も気をつけなよー。じゃあね。」

珠理は私とは目も合わせず、幸君に手を振ると去っていってしまった。

「あやちゃん…。」

「ごめん幸君。今日は帰るね。」

 ありがとうねという幸君に何か言葉を返す気にはなれなかった。



 

 あやちゃんと最後に練習をしてから一週間が経った。LINEのトーク画面は僕の

“次はいつ練習できそう?”という問いに対して、彼女からの

“分かったら連絡するね”のメッセージを最後に更新されていない。

 いつか見たドラマで『女のまた連絡するねはもう連絡してこないでという意味だ』と俳優が力説していたのを思い出した。今一番聞きたくないセリフに項垂れながらも一人でここへ来て練習する。彼女がいないことなんて承知の上だ。

「あれ、今日は一人?」

 声の方を見ると、公園の入り口には僕に向かって軽く手を振る珠里さんがいた。

目の前まで来た珠里さんは不思議そうに目を丸くして言った。

「律、練習こなくなっちゃったの?」

「うん…。」

「もしかしなくても私のせいだよね。幸君には悪いことしちゃったな。でも、久々に会ったらなんか楽しくなっちゃって。」

 悪いことをしたと言いながらも、珠里さんの顔は愉快そうだった。

「楽しい?」

「そ。律のムキになってるとこ見るの楽しいんだよね。あの子、ダンスじゃ自分以外はみんな馬鹿だと思ってるから。昔からなんか冷めてたっていうかさー。」

珠里さんの瞳から光が消えたような気がした。

「上手くない子達はみんな努力してないと思ってるんだよ。本人は意識の問題だって言うけど、その意識ができないからみんな困ってるのに。いくらやったって上達しない人間だっている。律はそれがわかってない。持って生まれてきたものを自覚してない。」

 今度は今までかろうじて上がっていた彼女の口角も下がってしまった。

「私はね律のそういうところが嫌い。でも上手いから余計に腹が立つ。」

 なんとなく朱里さんの言ってることもわかる気がした。まだ、基礎を教えてもらっている段階でもわかる。あやちゃんと僕が見てる世界は違うと。

「あ、ごめんねー。愚痴聞いてもらっちゃって。」

「あやちゃんに言ってあげたら?上手いと思ってるって。きっと喜ぶよ。」

僕の言葉に朱里さんが軽く目を見開いたのはほんの一瞬のことだった。

「……今さら私が何言ったって、嫌味にしか聞こえないでしょ。」

そう言った彼女は悲しい笑みを浮かべていた。


 朱里さんの背中が見えなくなった頃、ポケットが微かに振動したのがわかった。スマホを取り出して通知を確認すると、青い花のアイコンが目に飛び込んできた。

“あやちゃんだ。”

 内容は連絡が遅くなったことへの謝罪とコンテストに出てみないかという趣旨のものだった。

「コンテスト…?」



 「ほんとにごめん!」

 翌日の放課後あやちゃんと公園で集合した。一週間と一日ぶり。会うとまず、あやちゃんの口から出てきたのは久しぶりという言葉よりもごめんの一言だった。

「大丈夫だよ。そんなに気にしなくても、」

「いや、人としての礼儀だし。そもそも謝らないと私の気がすまないっていうか…。」

 率直に真面目な人だなぁと思った。朱里さんの言っていたようにもちろん才能もあっただろうが、きっと努力の人なのだろうと思わせる、あやちゃんはそんな性格の人だ。

「あやちゃんはすごいね。」

「え?」

「ううん。それでコンテストっていうのは?」

「えっと、これなんだけど…」

あやちゃんは肩掛けのバッグから取り出したスマホの画面を見せてくれた。

「この大会ね、今までキッズダンスがメインで主催されてたんだけど、今年から高校生部門ができるの。最初の年だから出場者も少ないだろうし今が狙い目かなって。」

「でも僕場違いじゃない?始めたばかりだし、それに教室に通ってるわけでもないから……」

 弱気なことを言うと、それを取り払うようにあやちゃんが一歩距離を縮めて言った。

「ダンスはね何年やってるとか、どこに通ってるとか、そういうの関係ないの。ただ技術があればどこまでも上へ行ける。大会まではあと四ヶ月。幸君の今の熱量と練習量なら勝機はある。」

彼女まっすぐ僕を見て言った。こちらが逸らしたくなってしまうほど、瞳は希望の光に満ちていた。

「私は幸君と踊りたい。」

それはたぶん僕が今一番欲しい言葉だった。



 あの日から僕らはほぼ毎日公園に集まって練習するようになった。基礎練習から始まり、あやちゃんが考えてきてくれた振り付けを叩き込まれる。流行りのアイドルの振り付けを覚えるなんてこともしてこなかった僕には、なかなかにハードだった。筋トレも始めた。十六年間生きて、今までも、そしてこれからも通ることはないだろうと思っていた道だったので『リンク送るからそれ見ながらやってね』とあやちゃんに言われた時には絶望しかなかった。そしてあやちゃんにおすすめされた動画は絶対に初心者向けではない。

 大会に向けた練習を始めて自分でも驚くほど体は動くようになったが、やはりあやちゃんには追いつけない。きっと彼女だってもっと実のある練習がしたいだろうに。僕に合わせてくれているんだろうなと感じることが多々ある。並行して教室に通うのもいいかもしれないと思い始めたのは最近のことだった。


 今日は、あやちゃんが通っているダンス教室のレッスン日なので、いつもはしない遠回りをしてみることにした。連日の練習で確かに疲れてはいるが、体は思いのほか軽い。

「あれ?」

 ガラス張りに“SAKAKI ダンススタジオ”と描かれた二階建てのビルを前にして自然と足が止まった。何度か通っているはずなのに気がつかなかった。きっと先入観もあったのだろう。こんな裏路地にダンス教室があるなんて思いもしなかった。

 ベルの音と共にそのにドアが開く。今日は吉日か、それとも厄日か。どちらにせよ、僕が今日この道を通らなかったらこの先の未来はもう少し違っていた。

「幸君?」

「珠里さん…」



 「入って入って。ねぇ恭弥!いるでしょ!降りてきてー‼︎」

 珠里さんは気を遣ってくれたのか僕を教室の中に通してくれた。そんなに物欲しそうな顔をしていただろうか。だとしたらなんだか申し訳ない。

「んだよ、うるせぇな。」

 奥にある階段から降りてきたのは明るい茶色がかった髪色の男性で、ゆとりのあるシャツとズボンは動画でよく見るダンサーのそれに近かった。

「レッスンまで時間あるでしょ。この子のダンス見てあげてよ。」

「はぁ?てか誰」

「律の彼氏。」

「違います!」

なんて雑な紹介の仕方なんだ。そしてそこに事実は一つもないというのがことさら恐ろしい。

「律って……あ、お前に顔面パンチ喰らわせたあいつか!」

「どんな覚えかたよ。まぁあってるけど。」

 顔面パンチ。生きていてアニメや漫画以外にその言葉に巡り合うとは。そしてあやちゃん、なんてタフなんだ。

「最近ダンス始めたんだって。ね?見てあげてよ。」

「ね?じゃねぇよ。見てあげてっつったって…。ジャンルは?」 

「ジャンル?」

「ダンスの種類のことだよ。律に教えてもらってるならヒップホップか、ジャズあたり?」

 珠里さんが助け舟を出してくれたがなんと答えるべきなのか、正解はわからなかった。

「えっと…、」

「ジャンルもわかんねぇでやってたのかよ。てきとーな野郎だな」

「返す言葉もございません……。」

「いじめないでよ恭弥。とにかく見てあげて!私これから友達と予定あるからもう行くね。じゃ、あとよろしくー。」

「おいっ!」

 珠里さんは恭弥さんの静止の声も聞かず、片手をひらひらと振りながら小走りで出ていってしまった。

「あいつ…!」

 こちらに勢いつけて振り返った恭弥さんのこめかみには青筋が浮かんでいた。僕が怖気付いて、その場から動けなくなっている合間にも彼は鏡が張り巡らされた教室の中央へ向かっていく。

「何つったってんだよ。こっちも暇じゃねぇんだ。早くしろ。」

「…え?」

いつも以上に間抜けな声が出た。教えてくれるのか?ゆっくり足を踏み出すと「おせぇ!」と喝を入れられ、スピードを上げて、恭弥さんの目の前まできたところで足を止めた。

「最近始めたんだよな。」

「あ、はい。」

 僕が答えると恭弥さんはスマホを取り出し何か操作し始めた。するとすぐに、天井に備え付けられているスピーカーから音楽が流れ始める。聞き覚えのある洋楽だった。アイソレーションの時にあやちゃんが使っている曲だ。

「基礎練だけだぞ。次からは金取るからな。」

「はっ、はい!」

 二人で練習を初めてすぐの頃にあやちゃんが言っていた。ダンスの上手い下手は基礎練習を見ればだいたいわかると。


“この人は、上手い。”


 思えば鏡を通して自分の姿を見ながら踊るのは初めてだった。ひどい。ひどすぎる。目の前に並んで映し出される恭弥さんと僕。その差は歴然だった。

 何が違う。手の角度は?重心はどこにかけてる?体の向きは?

 ダンスをする人は一度にこんなにいろんなことを考えてるのか。これが本当の練習なんだ。じゃあこの三ヶ月間、僕がやってたことはなんだったんだ。踊っている間、ずっとそんなことを考えていたせいか、楽しいなんて感情はちっとも湧いてこなかった。



「律と一緒に練習してるっつったっけ」

「はい。大会に出ないかって誘ってくれて。」

「なんでお前に?初心者だろ?」

「はい、それが僕もよくわからなくて…」

 お礼を言って教室を出ようとすると恭弥さんに呼び止められた。シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。そういえば制服だったなと思い出したのは練習が終わったあとで、しばらく続いた沈黙を先に破ったのは恭弥さんだった。

「明日律も連れてこい。」

「え?」

 恭弥さんはじっとこちらを見つめるだけで、それ以上は何も言わなかった。


 そして言われた通りに動いてしまうのだから僕はまた自分のことをみみっちいやつだなとつくづく思うのだ。

「ごめんね、着いてきてもらっちゃって。」

「ううん。それはいいんだけど、幸君の言ってたスタジオって……」

「あ、あそこだよ。あの二階建ての、」

「やっぱり。」

やっぱり?あやちゃんはこの教室を知っていたのか。

「ここって有名なの?」

「有名っていうか、朱里の家だし。」

「え⁉︎痛っ‼︎」

 僕が驚きで叫んだのと教室の扉が開いて、額に鈍痛が走るのはほぼ同時だった。

「お、クリーンヒット」

痛む額を抑えながら視線を上げる。扉から顔を覗かせた恭弥さんはほぼ無表情だがその声は至極愉快そうだった。

「いっ…!あ、昨日はありがとうございました。」

「おうよ。てかまじで連れてきたんだな。」

「え、だって…」

「まあとりあえず入れよ。」

 話をまともに聞いてもらえないというのはこんなにも堪えるのか。それは遠慮のない小学校低学年の頃に散々経験したような悪意なき悪意だった。傷ついた。傷ついたぞ僕は。僕はみみっちいやつだから、たぶんこれから先この人と顔を合わせるたびに腹の底で今日のことを恨むんだろう。


 教室へ入ると、昨日と同様に中央へ向かうよう促される。今日は朱里さんはいないようだ。

「お前俺のこと覚えてる?」

「はい。少しなら。」

「あそう。俺にとってのお前の印象はまあ踊れるやつって認識なんだけど、合ってる?」

「…それ肯定も否定もしにくいんですけど。」

あ、否定しにくいんだ。へらへらと言葉を並べる恭弥さんに対して、あやちゃんは凛として答えていた。

「それで、何で今日は呼び出されたんですか?」

「そうそう。お前らコンテスト出るんだろ?」

「はい。」

「見てやるよ。」

「は?」

あんなドスの聞いたあやちゃんの「は?」を僕は初めて聞いた気がする。朱里さんとばちばちやり合ってた時も、もうちょっと敵意を抑えてたぞ。

「そいつほぼ独学ってことだろ?昔のよしみで見てやるって言ってんだ。素直に聞いとけよ。」

「あっ、あやちゃん!せっかくこう言いてくれてるんだし、一回見てもらおうよ!」

まずい。非常にまずい。これ以上彼女の目尻が釣り上がるのを見たくなかった僕は慌てて仲介に入った。渋々ではあるが了解してくれたあやちゃんは無言で曲を準備し始める。


 自分にしては踊れている自信があった。体も、始めたばかりの頃に比べれば思った通りに動かせるようになって。何より、あやちゃんの隣で同じダンスを踊っているということが嬉しくて仕方なかった。恭弥さんがいることも忘れて僕は無我夢中だった。


 それが良くなかったのかもしれない。


 曲が終わると、恭弥さんはスマホを取り出してなにやら操作し始めた。

「お前らが出ようとしてるのって、これ?」

画面を確認したあやちゃんが恭弥さんの言葉に「はい。」と返事をして頷いた。

 そして数分もしないうちに、恭弥さんは椅子から腰を上げて、無言であやちゃんの目の前まで来て言った。

「登録しておいた。お前、一人で出ろ。」

その言葉にあやちゃんは目を見開いた。

「何で!勝手になにしてるんですか‼︎」

「こいつがいたら勝てるもんも勝てなくなるぞ。」

恭弥さんは、こいつと言って僕の方を指さしていた。

 そのあとのことはよく覚えていない。あやちゃんが必死に抗議してくれていたけれど、やっぱりそうか、と妙に納得している自分がいた。



「よっ。おいおいもっとシャキッとしろシャキッと。」

「ゔっ、恭弥さん痛いです。溝落ち、溝落ち入りました。」

手刀で腹を刺された痛みに悶える僕を見て恭弥さんは至極愉快そうだった。

「あいつとは?和解できたのかよ。」

「いや特に進展は…。そもそも喧嘩してるわけじゃないですし。」

あっそと自分から聞いておいて興味のなさそうな返事をした恭弥さん。この界隈の勝手がわからない僕には、その感じの悪い背中の斜め後ろにピッタリ張り付いて、歩みを進める以外に術はなかった。

 会場はこじんまりとした劇場という感じで、手を伸ばせば届くんじゃないかと思うほど舞台と最前列との距離は近かった。恭弥さんは一階には降りることなく、人がまばらな二階の立ち見席で足を止めた。

「こんな感じなんですね。ダンスのコンテストって。」

「大会によるけどな。今回はキッズメインのコンテストだし、比較的ガラの悪そうな奴はいねぇ…てか、ほぼ親しか子ねぇだろ。」

そう言われてみれば一階席はカメラを構える三十代前後の女性と男性が肩を並べて座っているのが大半だった。

「あれ、でも荷物まとめて帰る人もいますよ。これから始まるのに。」

「一部の小学生が終わったからだろ。次は二部。中学生の部門。」

「え⁉︎てっきり最初から見れるもんだと…」

「小学生の見たって何も参考になんねぇよ。てか普通調べてくるもんだろ開場時間ぐらい。」

恭弥さんに指摘されてぐうの音もでなかった。

「上手くなりたきゃ上手いダンスを見ろ。世の中でダンサーって名乗ってる奴らの中にはこんなもんかよって思わせるくらい低レベルな連中が大勢いる。その目利きができるようになりゃ自然と自分の体の魅せ方も分かるようになる。」

「目利き……。」

「ま、お前はまだペーペーなんだし、中学生手本にするくらいで十分だろ。……お、始まるぞー。」

暗転してアナウンスが流れ始める。僕は目の前で繰り広げられるパフォーマンスに圧倒されて、彼らが自分よりも歳下だという事実に恥ずかしさを覚える自分もいた。


『こいつがいたら勝てるもんも勝てなくなるぞ。』

『なんであなたにそんなこと言われなくちゃならないんですか⁉︎』

『じゃあお前なんの為に出んの?勝つ以外に意味なんてねぇだろ。』

『っ……。』

『あやちゃん、恭弥さんの言う通りだよ。僕がいたら足手纏いになるだけだ。』

『なんで怒んないの?怒りなよ。こんなに見下されて幸君は悔しくないの?』

『…怒れないよ。悔しくないわけじゃないけど、事実だし。』

『……もういい。』


 あの時もっと他の言葉を選んでいたら、彼女にあんな悲しい表情をさせずに済んだだろうか。足手纏いになりたくなかったのは本心だ。でもあやちゃんの泣きそうな、呆れたような「もういい」は、心に堪えた。

「次だな。」

「え、」

「なにぼーっとしてんだよ。ちゃんと見とけよな。」

恭弥さんに声をかけられて気がついた。しまった二部の後の休憩明けからの記憶がない。なにをやってるんだ僕は。


”Dクリエイション部門、エントリーNo.6。綾瀬律“


「Dクリエイションって、」

「バカ話聞いてなかったのかよ。自分で考えた振り付けで出場すんだよ。ダンスクリエイション、略してDクリエイション。さっき説明してやっただろうが。」

「す、すみません…。」

 アナウンスが流れ終わると照明がゆっくりと舞台を照らし出し、袖からは白のサテン生地のトップスに黒いスカートのようにも見えるボトムスを合わせた衣装姿のあやちゃんが現れた。自分の唾を飲み込むのさえ憚られるほどあたりは静まり返った。

 一音目とともにそれまで伏せていたあやちゃんの顔がアクセントをつけて勢いよく上げられた。その動作ひとつで僕だけでなく開場中の視線が彼女のダンスに一身に集められるのがわかった。

 自然と涙が溢れた。あやちゃんの邪魔をしたくなかった。足手纏いだと指を刺されるのが怖かった。でも本当は、一緒にあの舞台に立ちたかった。涙は拭っても拭っても溢れてきて、こんなに涙でぐしゃぐしゃになっているのを彼女に見られたくなくて思わず顔を両の手で覆った。きっとこちらの表情なんて見えやしないだろうに。

「目逸らすな。」

「っゔ…うっ…。」

「お前はあんなすげー奴とこれから踊るんだよ。自分とあいつの差をしっかり目に焼き付けろ。そんで…あいつの隣に立てる男になれ。」

 最後にもう一度だけ涙を拭って顔から手を離した。もっと早くダンスに出会っていたらどうなっていただろう。今頃あの舞台に一緒に立てていただろうか。いや、きっとそうじゃない。今こんなにも胸が熱くなっているのは、あの日彼女に出会えたからで、涙が溢れて止まらないのは、彼女からダンスの楽しさを教えてもらえたからだ。きっと彼女に出会わなかったら僕はこんなに胸が熱くなることも、悔しくて涙を流すなんて経験もできなかっただろう。今出会ったことに意味があったんだと、そう思いたい。これまで辿ってこなかったダンスの時間をこれから僕が辿っていくかもしれない人生の言い訳にしたくない。


 会場に一際大きな拍手が鳴り響いた。その拍手を浴びて舞台に立つあやちゃんは凛としていて、本当に綺麗だった。



 私服に着替え、ロビーに降りてきたあやちゃんを見つけて駆け寄った。その腕の中には盾の形をしたトロフィーがおさまっていた。

「おめでとう!本当に本当にすごかったよ!」

恭弥さんがゆっくりと歩み寄ってきたのが背中で分かった。

「なんで…」

「え?」

「なんで怒んないの…私は、幸君と踊ることより勝つことを選んだんだよ。……なんで怒んないの。怒っていいんだよ、怒りなよ!」

その張り上げられた声はあやちゃんに似合わず、また、今まで聞いたことがないほど弱々しくもあった。

「怒らないよ。あやちゃんと僕が選んだことだ。今回は僕が出ないって、そう決めたんだよ。」

「でもっ……」

「追いつくから。あやちゃんは今のまま走り続けてよ。僕がギアを上げればいい話だ。」

 僕の言葉にギリギリで堪えられていた涙があやちゃんの目から溢れた。最強だと思っていた彼女は年相応の一面も備えていて、その弱さを見せてくれたことがようやく信頼してもらえたようで嬉しくもあった。 

「あやちゃんのおかげでダンスに出会えた。もう少し、もう少しだけ僕の目標にさせてくれないかな?絶対に対等に、隣に立って見せるから。」

「っ、うんっ…うんっ…!ぜったい…、ぜったいだよ…!」

「うん。絶対だ。」


 “絶対”


 それは二人だけの約束で、ある意味呪縛でもあった。けれど、こんな呪縛ならこの身を捧げても構わないと思えるほど幸せで暖かい。


 

 これは僕の人生を大きく狂わせた青春の始まりの話。

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