第14話 蓮獄まもと純喫茶

 僕行きつけの喫茶店は自宅の近所の商店街通りの裏手にぽつんとある。

 時代と共に店構えが入れ替わり、近隣住民のニーズの変化に合わせてその姿を変えまだまだ活気ある商店街と違って、その店は時代に取り残されたかのように当時の面影を十二分に保っている。

 昭和の香りが色濃く残る古き良きこぢんまりした風体の店舗。

 言い方を選ばなければ、寂れているともいえるけれど、それも周囲の謙遜から逃れるための休息地として実に相応しい。


 その喫茶店の名は『純喫茶ガロ』。

 店名の由来は、かの有名な漫画雑誌である『月刊漫画ガロ』だという。

 僕は未だに強烈な個性を放つ所謂“ガロ系”と呼ばれる作品群を読んだことはない。

 『カムイ伝』や丸尾末広という名をどこかで聞いたことがあるくらいだ。

 マスターはその雑誌をかつて愛読していたらしい。

 もう少し精神が成熟したら僕もぜひ読んでみるとしよう。


 そんなマスターは老紳士のように毅然とした佇まいをした、温和を絵に描いたように穏やかな白髪頭の老年男性で、彼が個人で半ば道楽として続けているような『純喫茶ガロ』に、僕はここ数年足繁く通っている。

 高校受験真っ最中の頃は、この店でないと勉強が捗らないほど入り浸っていた。

 大してお金も落とすことのない学生の僕が長時間居座って勉強に励むのを、マスターは嫌な顔ひとつせず優しく見守ってくれていた。

 時折軽食などもサービスしてくれたりと、まさに至れり尽くせりな環境である。


 此処に集うのは僕のような近所の人たちが主で、長年通っている常連さんも多かった。地域密着型の地元に愛されているお店なのだ。


 高校に入学してからも僕は多ければ週に一回、少なくとも半月に一度はこの店に顔を出している。

 アルバイトを始めて金銭面に幾らか余裕が生まれてからは、これまでの恩返しといったらなんだけれど、出来るだけ多くの品を注文して喫茶店でのゆったりとした時間を謳歌している。


 そんな僕にマスターは「気を遣わないで大丈夫よ」などと軽い口調でそう言ってくれるけれど、純粋に僕にとってはこのお店で飲むコーヒーや紅茶、またサンドイッチやオムライスといった食事を摂ることが、誠に至福なのである。

 特にピザトーストは絶品で、出来ることなら毎日でも食したいくらいだ。


 ある土曜日のバイト終わりの夕方に、僕は勤務終わりの疲労感を抱えながら、喉の渇きと空腹を解消するため『純喫茶ガロ』を訪れていた。

 重厚な木製扉を開くと、馴染みのあるカランコロンというドアベルの小気味いい音が鳴る。

「お、いらっしゃい」と、ベルの音に反応してこちらに顔を向けたマスターがいつもの柔和な笑顔で歓迎してくれた。

「こんにちはマスター。今日もお元気そうでなにより」

「だろだろ? あと五十年は店をやろうと思ってるよ」

 なんて胸を張りながらおどけたように言うマスターだが、実際それもあながち冗談じゃないのではと思えるほど、今日も活気に満ち溢れているご様子。


 挨拶もそこそこにカウンター席に腰掛けようとしたところで、店内の奥に三つある四人掛けボックス席の一角に座る人物と、思わず目が合った。

 店内にいるお客さんは、一人だけだった。


 その人物とは、蓮獄家次女であるまもさん。

 向こうも入店してきた僕に気がついたようで、マスターと僕の方をじっと見つめていた。

 眼鏡姿のまもさんの座るテーブルにはコーヒーカップのかたわらにノートパソコンと一冊の文庫本が置かれていた。

 ──いや、それだけじゃない。

 他に傍に置かれているのは──ジッポーライターと煙草らしき四角い箱、そして灰皿だ。

 よく見るとまもさんの手元にはタバコが添えられていて、煙草の先端から薄く紫煙が立ち昇っている。


 まもさんが喫煙しているという未知の事態に思わず開いた口が塞がらずにいた。

 そんな僕を、まもさんはいつもと変わらぬ平然とした表情で眺めている。

 まもさんはそのまま何も言わずに唇に煙草を挟んで咥えると、しばらくして口元から離して、口をわずかに開いて煙を吐き出した。

 店内に霧散する煙。少しの時間差の後、ツンと僕の鼻腔を煙草の匂いが刺激する。

 

「ん? どうした理玖くん? まもちゃんのこと知ってるのかい?」

 固まったままの僕を不審がってか心配してか、マスターが声をかけてきた。

 その親しげな呼び方からして、どうやらまもさんも店の顔馴染みなようだ。

「えぇ、まぁ……」と簡単な相槌をして、マスターにホットブレンドコーヒーを注文し、僕はまもさんの座るボックス席へと向かった。


「やぁ、奇遇だね。理玖」

「どうもまもさん。一緒してもいいかな?」

「勿論」

 にこやかに応じるまもさんは手にしていた煙草を灰皿に押し当て火種を揉み消す。

 僕はまもさんの対面に腰掛ける。

 普段はカウンターの椅子に座ることが多いので、ソファの弾力がなんだか新鮮だ。


 煙草を扱う際の手慣れた所作をじっと僕が見ているのに気がついたのか、まもさんは少しバツが悪そうにして、

「そういえばわたしが喫煙者だということを、理玖は知らなかったね」

 と言いながら、灰皿を机の端に寄せたりとテキパキ机を片付ける。

「……うん。正直びっくりしちゃたよ」

 そこそこ長い付き合いだが、まもさんが喫煙者というのはまるで知らなかった。


「失望したかな?」

「いや、そんなことないよ。意外には思ったけどね」

 今年でまもさんは二十一歳になるのだし、喫煙するしないは個人の自由だ。

 僕がとやかく言える事ではないし、言うつもりは毛頭ない。

「まぁ家族でも知ってるのは一部だからね。家では吸わないようにしているから」

「そうなの?」

「さゆが嫌がるんだよ。部屋に匂いやヤニがつくのも皆に悪いしな」

「あぁ……なるほど」

 ただでさえ喫煙家は肩身が狭い思いをする昨今である。

 思慮深いまもさんは、色々と気を遣っているのだろう。

「普段から常喫しているわけでもないんだ。仕事の疲れが溜まったりするとたまにこういった店に来て吸っている。まぁだからなんだという話だが」

「そりゃあ僕が知らないわけだ。この店にはよく来るの?」

「まぁ月一くらいかな。しかし、理玖がこの店を贔屓にしているとは、それこそ驚きだったよ。マスターとも随分親しげじゃないか」

「僕はここ数年通っている感じかな」

「そうか。ならもっと早くわたし達が居合わせてもおかしくなかったな」

「まもさんも常連なの?」

「あぁ……中学生の頃から来ているから、もう七、八年になるか」

「お、じゃあ僕より大分常連じゃないか」


「まもちゃんは学生の頃、よくウチで小説読んでたよねぇ。まさに“深窓の令嬢”って感じでさぁ」

 昔を懐かしむように感慨深げな様子で、マスターが僕の注文したコーヒーを運んできてくれた。

「二人ともとても仲良しさん同士じゃないか。差し支えなければ、おじさんに二人の間柄教えておくれよ」

 全く好奇心を隠しきれていないマスターが、剽軽にそう尋ねてくる。

「幼馴染だよ。家が隣同士なんだ」

 僕に代わってまもさんが端的に説明してくれた。

「へぇ! 幼馴染! そりゃあいいね。こんな綺麗なお姉さんが幼馴染なんて羨ましいねぇ理玖くん!」

 隅におけないなぁというように肘で僕を軽く小突く仕草をするマスター。

「まぁね。いいだろ?」なんて僕も返して和気藹々としたやり取りを繰り広げる。

「わたしの容姿を褒めても出てくるのはコーヒーおかわりの催促だけだよマスター」

 男同士の戯れに対してスマートにオーダーを通してみせるまもさん。

「はいはい! じゃあお二人ともごゆっくりー」

 まもさんの分の新たなコーヒーを淹れて戻ってきたマスターは、ニヤけ面を浮かべたままいそいそとカウンターの奥へと戻って行った。


 僕とまもさんは二人して、コーヒーに舌鼓を打つ。

 ──うん。やはりここのコーヒーは間違いないな。


「何か他に注文したい物はないか? 奢るよ」

 まもさんが頃合いを見計らってそんな素敵な提案をしてくれる。

「ありがとう。あとでありがたくコーヒーのおかわりをもらうね」

「そうか。遠慮しないで好きに頼むといい」

「うん──ねぇ、まもさん」

「ん? なんだ?」

「遠慮というなら──煙草、別に吸って大丈夫だよ。僕に気を遣わなくても大丈夫」

 せっかくの自由を満喫できる時間だ。

 僕が同席することでまもさんの休息を邪魔するのは忍びない。

 灰皿の吸い殻を見る限り、まだ二本しか吸っていないようだし、二本目に関しては僕と遭遇したためにかなり早めに吸い終えている。

「僕の父さんも家で煙草吸うし、全然気にしないから」

 身内に愛煙家がいれば、煙草への抵抗というのも生じようがないのだ。

 少し気難しい顔をしたまもさんはしばらく考え込んでいたが、

「……煙草を吸わない人の前では控えるつもりだったんだが、理玖がそう言ってくれてるんだ。厚意に甘えるとしよう」


 まもさんは箱から煙草を一本取り出し咥えて火を着け、じっくりと煙を燻らせる。

 

「まもさんが吸ってるタバコの銘柄って『ユージュアル・サスペクツ』でケヴィン・スペイシーが吸ってるやつだね」

「……ん? あぁ確かに“金マル”を吸っていたな。懐かしい映画だ」

「映画やドラマの小道具として印象深いんだよなぁ煙草って」

「沈黙の間が埋められるし、感情表現にも使えるからな」

「『シャッターアイランド』とかほぼずっと煙草吸ってるよね」

「ディカプリオがな。まぁあれは作中で煙草が明確なギミックとして作用しているわりと稀有な例だが」


 そんな他愛のない雑談をしばらく交わしながら、そのうちの一つとして胸中に抱いていた疑問をまもさんに投げかけてみることにした。


「興味本位で尋ねるんだけれど、まもさんが煙草を吸い始めたきっかけってなんなの? 別に他意はないんだけどさ」

「ん? 喫煙のきっかけか……」

 思考を整理するように顎に手をやり、しばらく熟考するまもさん。

 さっきもそうだが、考え込む姿がいちいち色っぽいんだよなこの人は。


「……男の影響?」

「んん!?」

しばしの沈黙ののちにやっと口を開いたまもさんだが、そのまさかの回答に僕は不意を突かれ思わず口をつけていたコーヒーで咽せ返ってしまう。

「ははっ──冗談だよ理玖。まさかそんな良い反応をしてくれるとはな」

「まもさんが真顔でそんなことを言うもんだから、マジでびっくりしたよ僕!」

 してやったりと満足げな笑みを浮かべているまもさんへ僕は抗議の声をあげる。

「まもさんみたいな真面目な人が意外と……ってことも世にはあるというしさぁ」

「世間ではありがちな話ではあるようだな。わたしには理解しかねるけれど」

「それなら実際のところは?」

「──未知への興味、知的好奇心などと云えば聞こえはいいが、俗にいう“羨慕”──所詮“格好つけて”いるだけさ」

「え?」

 それはそれでまもさんからすれば結構意外な答えだ。ありきたりというか、短絡的というか。

「意外か? だがわたしが思うに、喫煙者の八割の吸い始めの動機は其処に尽きるだろう──それが習慣化して科学的に肉体が依存状態に陥って、当初の動機は薄れ認識に齟齬が生じて、結果的に自己の中で都合のいいように論理が正当化されていくだけさ」

「ん? なんだかわかるようなわからないような?」

「簡単に表現するなら、憧れているスポーツ選手と同じメーカーのシューズを買って身につけたり、尊敬するミュージシャンのシグネイチャーモデルの楽器を購入する──それらと同じようなことさ。重要なのは機能性や価格で普段はそれらを重視するのが真っ当だが、そういう“思い入れ”という付加価値だけで、喜んでそれに傾倒することがあるんだよ」

「そう言われれば、なんとなく理解できそう……かな?」

「煙草でいうならば、たとえば魅力的な人物に憧れて吸い始めたりする──現実や創作物問わずにな。それだけで有害な物質を好き好んで摂取してしまうのさ。健康被害が明るみになり周知され迫害されつつあるこの時代でもな。それ以外でも“大人への憧れ”や“アウトローへの憧れ”などもあるが、大体そんなところが主な動機だろう」

「まもさんもそうだと?」

「あぁ、理玖はわたしのことを過大評価してくれているが、そんな凡庸な人間さ」

「そうかなぁ。まぁでも、僕も煙草を吸っている姿を見て『格好いいな』と思ったことが全くないと言えば嘘になるし、その動機はわりと納得できるよ」

「映画や漫画の影響は大きいかもな。年頃の男の子だと」

「まもさんは何に憧れて吸い始めたの?」

「それは秘密だ」

 自分の趣味をひけらかすのは恥ずかしいからね──と、照れくさそうに笑う。

「だがこれは喫煙を始めてから生じた憧れではあるんだが、“シガーキス”というのには心惹かれるものがあるな。いつかやってみたいものだ」

「シガーキス? それって?」

「……『BLACK LAGOON』を読んでみるといい」

「ん? 漫画の?」

「アニメでもいいさ」

 作品の存在は知ってはいるがまだ未履修だな。

 今度機会があれば読むか、観るかしてみよう。


「まぁ仮に理玖が煙草を吸うようになったら、その時にわたしのその願いを叶えてもらうさ」

「え? 僕が煙草? ……どうだろうね」

「自分で言ってみてなんだが、確かに理玖が吸ってる姿は想像し難いな」

「まぁ僕が吸い始めるとしたら、吸い始めの動機は“まもさんに憧れて”ってことになりそうだけど」

「それはかなり複雑な心境だよ──まさにマッチポンプというやつだな」


 まもさんはそう締めて、新たな煙草に火を着けた。

 その姿は何度見ても、とても様になっていた。

 



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病的に愛してくれる美少女七姉妹幼馴染達が七つの大罪を背負いし悪魔で人生が破滅しそうなんですが!? 熊尾黒雛 @yaki_show

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