第13話 蓮獄れいあと果し状

 高校生となって初めて迎えた夏休みが数日経過したある日。

 僕は連日のアルバイト勤務を終えて、やっとの休息を謳歌していた。

 いくつか同級生やバイト先の友人達との予定があるが、基本的に夏季休暇の大半は空白なので、何事もなければアルバイトと、非人道的ともいえる量が課されている夏季課題の消化に勤しむことになるだろう。

 

 しかしやはり夏休み突入後しばらく続くこの開放感というものはたまらないものがある。それがたとえ仮初のものだとしても、だ。


 とりあえずはこの平穏な休日を享受しておくとしよう。


 買ったはいいがまだページを開くことすらできていない長編小説を一日がかりで読破してしまおうと本棚に手をかけると、僕のスマートフォンから通知音が鳴った。

 画面を確認すると、お馴染みのメッセンジャーアプリに新着メッセージが来ているとのこと。

 メッセージの送り主は、蓮獄れいあちゃん。

 内容は実にシンプルで『郵便ポストを至急調ベヨ』という文言。

 郵便ポスト?


 僕は疑問符を浮かべながら、指示通りに玄関口に設置してある自宅のポストを覗いてみる。

 そこには何通かのダイレクトメールやチラシと共に、一通の封筒が入っていた。

 『果し状』──白地の封筒には、随分達筆な力強い筆文字でそう書かれていた。

 差出人の名は、蓮獄れいあ。

 随分時代錯誤な意思伝達だが、実に興味をくすぐられる。

 僕は自室に戻り、その封筒の封を破った──。


 ◆◆◆◆◆◆◆

 

 空手の“組手”というものはあくまで練習形式の一つであり、いくつかの種類が存在しているものの、今回のこれは勝敗をつけることを目的とした所謂“組手試合”ということになるのだろう。


 体得した技量を、積んできた研鑽を、互いの力量を量りつつ、優劣を決する。

 試し合う場であり、試合は元来“死合”──謂わば殺し合いに他ならない。


 空手は齧った程度だ。だが、挑まれたならば全力を尽くして対峙するのみ。

 親しい間柄だからといって、生半可な気持ちで向き合うわけにはいかない。

 これは彼女と僕、双方の誇りをかけての果し合いなのだ。


 ──なんて、そんな風に格好つけてみたけれど、何故僕とれいあちゃんが炎天下の真夏の休日に組手をするのかというのは甚だ疑問である。


 なので僕は道場で防具を装着するなどの準備をしている合間に、同じく道着姿のれいあちゃんに今回の真意を尋ねてみると、

「別に深い意味なんてないよ。なんか今日は暴れたい気分なんだよね」という物騒な動機があっさりと返ってきた。

「もう理玖も今年で高校生だし、わたしも晴れて大学生。そろそろ真剣にりあってもいいかなーって」

「簡単に言ってくれるなぁ……だからって果し状まで送ってるなんて、随分気合入ってるじゃないか」

「実は憧れてたんだよな。果し状を叩きつけるの。いつも送りつけられてばかりだしさ」

「果し状を受理し慣れてるのはれいあちゃんくらいだよ……」

 ちなみにあの果し状を作成したのは、まもさんらしい。

 れいあちゃんらしからぬ筆跡だと思ったら、まさか果し状作成を委託していたとは……。

 まもさんもよく手間をかけて筆をとったものだ。


「まぁごっこ遊びの延長だよ。勿論組手するからには、鍛錬としてガチでいくけど」

「正直僕なんかが相手になるとは思えないけど……」

「高校生になってバイトばかりで、理玖の身体が鈍ってんじゃないか、わたしは心配してんだよ。まぁ防具もするしお互い怪我しない程度にしとこうな」

「まぁたしかに自分でも運動不足を感じてたところだし、せっかくの機会だ。胸を借りるつもりで挑ませてもらうとするよ」


「胸を借りる!?」


 おっと……。

 まずいワードを発してしまった。

 胸、胸部、バスト、前胸筋、おっぱい、乳房、ブラジャー、発育。

 ここら辺を想起させる言動がれいあちゃんの地雷だということを失念していた。

 高校を卒業して大学生となり、そろそろ十代が終盤に差し掛かり、成長期とはもう別れを告げているであろうれいあちゃん。

 彼女の身長は僕と大体同じくらいで、身長は女性としては長身の部類に入る百七十センチオーバー。

 スラリと伸びた手足も相まって、かなりのスタイルだけれど、残念ながらその成長は胸部に反映されることはなかった。

 まぁ僕からすればそれを気にする必要なんて全くないと言い切ってしまえるほどの些事なのだけれど、女性から──当人からすれば、そこは切実な悩みなのだろう。

 しかしこんな慣用句にまで引っかかるとは予想外だった。


「あ、違っ──」

「む、“胸”を借りるって言われても、こ、困るっていうか……組手といっても、そ、そんなエッチな展開を期待されても! わたしは真剣に空手に取り組んでんの!」


 妙なニヤケ面を浮かべ所在なさげに自身の帯を指で弄っているれいあちゃん。

 僕の知らぬ間に話はもっと予想外な方向へと進展していた。

「れいあちゃん。『胸を借りる』ってのは稽古の相手としてという意味合いだよ」

 僕は極めて冷静に発言の意図を訂正する。

 己の勘違いに気がついたれいあちゃんは、一瞬で顔を真っ赤にして、気恥ずかしいのか俯いて何も言わない──ただ黙って僕を涙目で睨みつけている。

 いや、睨みつけてきても困るのだけれど……。


「ま、まぁ勘違いは誰にでもあるから! 僕だって昔、れいあちゃんのことを男の子と勘違いして色々やったりしたじゃないか! 覚えてるかなぁ?」

 僕は気まずさから、そんな風に過去の失敗談を掘り返してお茶を濁そうとするも、

「──覚えてるよ……わたしと一緒にお風呂入ろうと脱衣所に全裸で突撃してきたりな……」

「あ、あはは! そんなこともあったよねぇ懐かしいなぁ」

 苦笑いしてなんとかやり過ごすとしよう。

 本当は「いやだなぁれいあちゃんのお胸は、僕に貸すほどないじゃあないか(笑)」とコミカルで剽軽な軽い冗談を繰り広げようとも考えたが、それを言ったら本気で殺されかねないので控えておくとしよう。


「さ、気を取り直してそろそろ組手といこうじゃないか。今回も短編で文字数時間に余裕がないんだから!」

 メタ発言も思わず飛び出してしまう。

「そ、それもそうだな! よーし! 殴るぞぉー!」

 やや無理矢理に、空回り気味なハイテンションに切り替わるれいあちゃん。

 さっそく情緒が乱れてるなぁ……。


 空手には技の型を重視し寸止めや防具を用い相手に直接接触をしない“伝統派”と、直接打撃を中心とする実践重視の“コンタクト”という二つの流派が主にある。

 れいあちゃんはコンタクト空手派なのだけれど、今回は僕を慮って防具やグローブを着用しての組手を行う。

 顔を保護する“メンホー”と呼ばれるヘルメットのようなものや腹部を守る鎧のようなボディプロテクターに脛を守る“シンガード”などがそれにあたる。

「あ、わたしはメンホーはいらない。マウスピースつければいいでしょ」

「そう?」

「メンホーつけると視界が曇るんだよね」

 そういうものなのか。

 しかし剥き出しの女性の顔面に、いくら格上相手とはいえ打撃を加えるのは、なんというか少し抵抗を感じる。

「遠慮しなくていいから。殴り殴られには慣れてるし」

 まぁコンタクト空手が主戦場のれいあちゃんからすれば、防具ありという時点で、それはそれで大きなハンディな気はする。

「いっそ、二人とも防具つけずにやろうか?」

「……うーん。理玖がどうしてもそれがいいっていうなら、それでもいいけどねぇ」

「やっぱり殆ど素人みたいな僕にはキツイかな?」

「いや、理玖は根性あるし運動神経も申し分ないから、やればなんとなるとは思うけど──ってのは先に教えておくね」

「……」

 それってグローブつけていても、とんでもない威力の拳なんじゃないのか?

 素人と熟練者とか、高校生と大学生とか、男と女とか、そういった次元じゃなく生物としての“質”が隔絶しすぎだろう。

 ほぼ刃牙シリーズの登場人物じゃないか。

 こうなると、れいあちゃんが僕に合わせて防具をつけるのは、自身の身の安全よりも攻撃を仕掛ける側である僕の心理的負荷を軽減するためだけのものだろう。

「まぁ勿論手加減はするし、防具つけとけば大丈夫だって!」

「……まぁ、お手柔らかに……」


 空手の組手の概要を簡単に説明するとしよう。

 大きく分けると二通りの団体ルールが規定されているのだが、あくまで私的な組手なので、ルールは簡潔な形で独自に取り決めてある。

 まず技は“突き”“蹴り”“打ち”の三つ。

 上段であるくびから上側への突き、胸部や腹部といった胴体部分である中段への突きが『有効』とされ一ポイント。

 中段への蹴りが『技あり』とされ二ポイント。

 上段への蹴り、投げや足払いで倒した相手への突きが『一本』とされ三ポイント。

 先に八ポイント先取した方の勝ちだ。

 また当然コート外に出る場外や相手を掴む行為、有効部位以外への故意の攻撃は反則である。

 まぁれいあちゃんが反則行為に走るわけはないので、僕の意図しない反則に注意しなければ。


 ちなみに今回組手を行うのは、近所にあるれいあちゃんが通っている空手道場だ。

 僕の友人である反安なども通っていた場所である。

 れいあちゃんはたまにここで師範の助手という形で指導役として近所の子供達などに空手を教えているらしく、道場の管理なども時折師範から任されていることから、わりと自由に道場に立ち入って鍛錬などもしているらしい。

 子供達が稽古に来るのは夕方過ぎとのことで、現在道場にいるのは僕とれいあちゃんだけだ。


「さぁ、それじゃあやるか」

「そうだね。僕の準備と覚悟もできた」


 空手は『礼に始まり、礼に終わる』という格言通り、礼節と相手への敬意を何より大事にする。

 僕達は正座の姿勢で向き合い、床に両手で三角を形作るように手をつき頭を下げる。俗に言う“座礼”というものである。

 そのが立ち上がり、握り拳を耳横まで掲げ腕を顎下あたりで交差するように構え、十字を切るように腕を振り下ろし、また一礼。

 

 僕とれいあちゃんは一定の距離を空けて、各々構えをとる。

 対峙するれいあちゃんの放つその威圧感に、僕は思わず身を竦ませる。

 研ぎ澄まされたその鋭い眼光は、僕の一挙手一投足を見逃すことなく、一分の隙もないといった様子だ。

 気安く呼吸することも許されない緊迫感。

 

 勿論知ってはいたが、普段のやや奇天烈なれいあちゃんとのギャップが凄まじい。

 ただそれで動けなくなって縮み上がっていては元も子もない。

 こっちが圧倒的に格下なのだ。様子見していては埒があかない。

 僕はジリジリと慎重に距離を詰めていく。

 様子を探りながらなんとか間合いに近づき──こちらから仕掛ける。

 何はともあれ先手必勝だ。

 見様見真似で、右正拳突きのようなものをれいあちゃんの中段目掛けて放つ。

 だがあっさりと見切られ、れいあちゃんは軽く身を捻って躱し、その後傾した勢いを利用し裏廻し蹴りを僕の左上段目掛けて繰り出してきた。

 いきなりかよ! 僕はすんでのところで左腕で蹴りを受け止める。

 蹴りを防いだ腕に重い衝撃が響く──ガードした上でこの威力なのか。

 僕は軽くよろけるもなんとか右重心で踏みとどまるが、その隙をれいあちゃんは逃さず、軽く浮いた左足を狙っての足払いで僕の体勢を崩しにかかる。

 バランスを乱されるも、苦し紛れに僕は倒れ込みながら手刀で鎖骨周辺への打ち込みを狙うけれど、れいあちゃんはそれを軽くいなし、僕の反撃の手刀はあっさりと空を切る。

 みっともなく床に転がった僕の腹に、れいあちゃんの拳の突きが寸止めで撃ち込まれた。


 ──見事な一本だ。思わず見惚れてしまうほどに。

 健康的に跳ね回る彼女のポニーテールが、とても印象的だ。


 その後の組手も順当に僕が打ちのめされる結果に終わった。

 判りきっていたことだけれども、やはりれいあちゃんは強い。

 だが、僕も男の意地を見せたということは一応ここに明言させてもらおう。

 なんとかれいあちゃんに何本か有効技を当てることには成功した。

 れいあちゃんが僕に繰り出す技を、何度も食らうことで身体で覚えて、なんとか模倣し反撃してみた。

 捨て身の刻み突きが決まった瞬間のなんとも言い難い爽快感。

 組手として、得難い経験をさせてもらった。

 当初の目的はどうであれ実に良い鍛錬となったことには違い。


「なかなかやるじゃないか。いい感じだったぞ理玖」

 組手を終えてれいあちゃんは汗をタオルで拭いながら、屈託のない笑顔を浮かべてそんな賛辞の言葉を送ってくれる。

「いやぁ、やっぱりれいあちゃんには敵わないよ。素人目にもとんでもなかった」

「謙遜するなよ。素人離れしたいい組手だった! 普通に才能あると思うけど」

「そうかな」

 れいあちゃんほどの実力者から褒められると、お世辞でも嬉しい。

「でもかなり楽しかったよ。やっぱり身体を動かすのっていいもんだね」

「でしょ? 武道ってのは『心技一如』──身体だけじゃなくて精神面も鍛えられて、高潔な人格や道徳心も養われるから……興味あれば、わたし教えるけど!」

「それもいいかもね。あすはと一緒に習ってみようかな」

「……ん? あすは?」

 僕の発言を受けて、れいあちゃんの顔が一瞬で曇り怪訝なものへ。

「それってどういうこと、かなぁ……?」

「え? 僕一人だけでれいあちゃんから習うのもなんだし、どうせなら未経験者のあすはも一緒に習えば楽しいじゃないか」

 あいつも共に人間性をより磨いてもらって、より尊い少女へと至ってもらおう。

 何気なくした提案なのだけれど、


「わたしの貧相な身体じゃ殴っても満足できないってこと!? ムチムチでボインボインな巨乳のあすはの道着姿が今から楽しみでたまらないわけ!? 結局身体目当てなの!? わたしで満足しとけよ!」

 

 れいあちゃんのこの熾烈な激情はどのくらいの組手で発散できるだろうか。

 武道で養われた精神性は、あの高潔さはどこへ消えてしまったのだろう。

 

 彼女の愛ある組手はこの後数時間に渡った。

 

 



 


 


 

  






 


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