第2話 変化といえばこういうの

 まだシャッターの上がりきっていない駅前商店街を通っていく。

 町の北にある自宅から南にある学校は、鶴ヶ峰駅を挟んで徒歩二〇分もせず到着する。ここから主に横浜駅へ向かうであろう人いきれと、列車によって塞がり続ける踏切にだけは気を付けるのがよい。ちなみにターミナルの横浜駅へは、鶴ヶ峰、西谷、上星川、和田町、星川、天王町、西横浜、平沼橋、横浜──九駅分、距離がある。快速なら三駅、好立地と言っていい。

 喧騒を抜け出したら、今度は生活道路である坂を登りに登る。

 校門から昇降口は至近距離で、遠くにあるグラウンドから野球部の痛快な打球音を聞きつつ校舎に入る。僕の入学と共に供用開始となったまだ綺麗な校舎は、小中学校の時のようにツバメの巣が出来ていたりはしない。そんな真っ白な本棟は一足制で、靴のまま階段へ進んでよい。横にはエレベーターもあるけれど、僕と同時に入学した車椅子利用の生徒のために設置したらしく基本使用禁止。

 フロアごとに階段横の柱やエレベータードアの色が違っていて、二年生が使う四階は赤。これもユニバーサルデザインとかいうものだろうか。

 人もまばらなふたつの教室を横目にしたあと、黒板側のドアから入った二年三組の教室には電気が点いていなかった。八時二〇分になろうとしている時計を一瞥する。少々早すぎたのだ、みんな朝礼五分前になってから急に集まるのが常だというのに。

 黒板をぼーっと見る。金曜の放課後に女子グループかなにかがお絵描きをしているらしい流行りの緩いキャラクターが、変なポーズで一夜を明かした様子だった。そのキャラに向けられたフキダシには月曜日の提出物が書かれているが、見ずに帰ってしまっていた。ああ、国語の便覧なら学校に置いたままなので忘れる心配はない。

 視線を下に移すとチョークの粉が粉受のある一か所に集められ、色が混ざった結果、サーモンピンクになっていた。破片が少ないあたり、みんな最後までちゃんと使っているらしい。こういう所から学校の治安や品位が窺える。暇だったので勉強しかしていなかったし、受験は多少力を入れた。

 ますます脱力していると、少し開いた窓越しに打球音が聞こえる。時間的にも、最後じゃなかろうか。

「おはよう」

 ロッカーのある後方から声がして、身体が反射的に震えた。座席は一番後ろ、廊下側。カーストは上から二段目といった具合、なぜか結構仲良くさせて貰っている女子──豊橋真帆の声だ。振り返ると綺麗な目を合わせてきて、それが確定した。若干の栗色がかった髪は軽いシルエット、梳かれて遊びのあるセミロング。身長は本人が嘘を言っていなければ確か一六〇辺りで僕と同じくらい、そこに多少短い程度の丈をしたスカートといういでたち。落ち着きない足の先、茶色のローファーにはヒールがついている。

 早い。そして、いたのか。それが僕の失礼な感想だった。というのは、意図的と推察される遅刻をしがちなサボりの常習犯がどういう風の吹きまわしだ、という意味である。要するに、僕とは正反対だった。

「おはよう。早いね」

 別に失礼じゃない方の感想だけを口にすると、「そう、早いの」と変な返事をされる。カーストからして基本明るいけど、どこかつかみどころがない節がある。そんな彼女は両肘を机について、両手の指を組んでいる。妙にお姉さんの風格がある、と思うのは弟がいるという話のせいだと思った。この学校はクラス替えがないので、この二年間でときたま家族の話を聞かせてもらっている。最近はそんなこと話していいのか、という程に。

 不意に手招かれ、教室に入ってから小休止していた僕の足は再び仕事に戻る。机に向いた後、僕は顔で要件を訊く。それに対して豊橋は座ったまま手を膝に、顔を上目遣いの恰好にして、斜め向きでこちらと対峙。次に聞こえた言葉には、驚いた。

「優しすぎる由比が好き。付き合ってよ」

 優しすぎる声で、そう言われた。

 なるほど何も変わらない日常を平和にこなす、なんてのは容易くないと分かった。たった今からそれを覚えておいておくとしよう。

 付き合ってよ──おおよそ人生で言われたことのない言葉。縁のない言葉。

 彼女の表情に冗談の色を探す。探すけれど、綺麗に手入れされた肌が見えるだけだった。

 いまの僕に言えることはひとつしかない。躊躇うこともなく、けれど人を傷つけない言葉とは何か、未熟な頭のせいで回収に失敗している地雷を踏まないように選んだ。

「自分がまともな人間になれたら、よろしくお願いしますって言えるんだけど」

 これが絞りだした返答だった。やはりひねくれたままだった。アニメとかを見ているとキャッチボールを一問一答のメタファーに用いるシーンがあるけれど、いくつか候補を思い浮かべてから、一番自分らしい変化球を投じたつもりだ。しかし、そこはこのお姉さんなのでたじろぐこともせず、表情も姿勢も変えないまま受け取って、「そっかあ、残念」とだけ言ってくる。

 始球式にありがちな弓なりの軌跡を描いて手に飛び込んできた言葉は、砂粒ひとつ付いていなかった。僕とは、大違いに思われた。

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ブラウローゼンの揺りかごで 和泉光 @sukumochi

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