ブラウローゼンの揺りかごで

和泉光

第1話 ルーティンをお見せする

「人と比べて、虫は殺していいんだもんな」

 十月の中ごろ、月曜日、朝七時半。

 残暑を片付けた関東平野、ありきたりの一軒家で居残りを喰らっていた羽虫を見て独りごとを言った。僕──由比はるひのうつ風味の三白眼が、最後に見た人間の目。それだけは同情しよう。

 廊下の大きな窓から、秋の朝らしく澄んだ空気が透過する鋭い陽光を浴びて、雑な深呼吸をした。僕が部屋着にしている中学時代のジャージは、その光のせいか青色が白んで見える。

 家のどこであろうと、電気はついていない。そのせいで仄暗い洗面所に着いて、足を止める前にカランを捻った。まず汚した手をよく洗い、肩まであるミディアムの髪を雑に結んで、それからそばかす顔を水で洗う。飛ばした水滴を拭くのが『心底』面倒だけれど、そのままにしておくとどうせ後から拭かずにはいられなくなるので、ため息の合図ですぐに処理する。洗濯機に突っ込まれたタオルは、こうやって有効活用するのだ。

 上体をしゃんとして、自分専用の新しいタオルで顔の水滴を拭い、結んだ髪をほどいて鏡と目を合わせる。そこには一七年間変わらず見てきた、いかにも不満を塗ったくったような表情の気に食わない奴がいる。いつも三秒くらいは目が合う。

 顔全体は小さく、目元は先述の通り。髪はなかなか切れないけれど、サラサラだねと褒められるので問題ない。あとは可もなく不可もなく、それが僕のルックスに関する情報のすべて。つまり顔まわりに特別な不満があるという話ではないのだ。身長は一六〇センチはあるので健康に成長しているだろう(気に入っているかはさておき)。そんなことを気にしているのではなく、僕の内側、実体のない人格そのものを睨み付けているのだ。三秒間そうして咎める。それから耳と目を閉じて、口もしっかり噤んだ。



 僕は良い季節に半身浴でもするような気分で、まず台所へ行く。

 昨晩レンジの上に置いておいた惣菜パンの袋を開け、五百ワットでまず十秒。そして温度を確かめずにもう十秒加熱。気分を上げたいとき、なんとなく加熱時間を増やす。



 次。ソファにふんぞりかえって、関東甲信越の天気予報を観る。

 横浜は晴れがしばらく続くらしく、これが助かる。僕が住む鶴ヶ峰だけの話でもないけれど、横浜は全体的に坂が多い。だから、まとまった雨が降るともなれば、いともたやすく滝がローファーに襲い来るのだ。饒舌でしぶとい蝉時雨さえも、滝をもたらす秋雨前線の被害者だった。しかし浮気な秋の空といえど心配は不要という降水確率ゼロ表示を見届け、用事が済んだテレビの電源を消す。



 次。毎週月曜更新の、漫画を読めるサイトに行く。

 いくつか追っている作品があるけれど、一番好きなのはモノローグ<独白>が多い『愛、なんぞや』という作品。青春群像劇で、僕のようなひねくれた人間もいれば、爽やかイケメンも、ギャルも、普通過ぎる無キャ女子もいる。好き、という表現に〈勉強になる〉という文言を付け加えるとより正確なように思われた。いわば、教科書である。

「自分のことも好きになれないのに、人を愛せるわけないでしょ~!」

 いかにも恋愛マスターといった風体の一軍女子は、例のひねくれ人間をバシバシ叩きながら説教している。

 自分のことも好きになれないのに、人を。

 前からドラマやアニメで耳にしたことがあった、初めてでもないセリフ。

 それなのに、いやに胃もたれさせてしまった。実際、好きになれるような自分でないのだから無理もないと思う。

 僕はスマホを休ませ、テーブルに置いて制服へと着替えることにした。

 朝のルーティンは、こういった具合だ。普通だろう。そのはずだ。



 自室は、二階の六畳間にある。

 無機質な(好きでこうしている)部屋には、無機質で白いベッド、白いデスク、それと無機質な白い棚がふたつある。ひとつは本棚で、それなりに真面目な書籍と、多少の漫画がある。もうひとつは私服の収納。ここまでの家具が全て白いけれど、かつては黒色で大きなものがひとつ置いてあった。それは祖父の後を追うように部屋から消えた──消してしまった。だから真っ白な部屋なのだ。

 あと目にとまるものといえば、ハンガーに吊るされている県立鶴ヶ峰高校の制服。今年の春から男女共通となり、LGBTと教育現場を絡めた特集でもってニュース番組で紹介されたことがある。というのは女子がスラックス可、という次元ではなく、男子がスカートも可、という意味である。そこまで徹底する高校は県内二校目だと、抑揚のわかりやすいナレーションで紹介していた。

 そろそろ共通のブレザーも着用するような時期になってくるけれど、いまはまだ長袖のワイシャツ。次に足を通すスラックスは、グレーを基調としながら、横浜の海をイメージしたという紺色のアクセントが入った格式高いタータンチェックのデザイン。しかし、横浜の海らしく濁った色だ、という揶揄を生徒教員問わず飛ばしているし、僕もそう思わざるを得ない。こういう時、制服がかわいそうで仕方なくなる。

 いや、好きなのだ。好きなのだ。

 ちなみに僕は肩が狭く、かなりの細身に長髪という訳でよく女子に間違えられる。なんだ、由比だったか、と。ああ、僕で悪かったさ。

 とにかく、そういった経緯でスカートを勧められたことがあるのだ。ぼくはいま二年生だけれど、進級に合わせてどうだ、といろんな人から。なかには「学ランとスカートで合わせて、『ブルードット』のユキちゃんみたいにしてー!」という声もあったし、茶化す人間、真剣な人間という具合に様々だった。そのアニメは見たことがあるが、ウチはそもそもブレザーしかない。

 少し興味はあったが、主に世間体から来る何某かの思案の末、まともな検討はしないまま終わった。

 半年前のそんなことを想起しつつ、着替え終わって自室を出る。

 今日も何も変わらない日常を、平和にこなしてやろうではないか。

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