冬が溶ける時

はれ わたる

第1話

 俺はご主人様のことが好きだ。優しくて、かっこいいご主人様のことが、大好きだ。


 俺のご主人様は龍人。体はほとんど俺たち人間と同じだけど、立派な尻尾としなやかな角が生えている。綺麗な長い銀髪を一つに結って、いつもスーツをかっちりと着ている。


あい。朝ごはんにしよう」

「はい、ご主人様」


 両親を早くに亡くしている俺は、孤児院にいたところを、ご主人様こと紫苑しおん様に引き取ってもらった。それからの毎日は、まさに幸せの連続。もちろん、孤児院での暮らしも楽しかった。だけど、ご主人様が優しくしてくれる日々の喜びには代えられない。


 今日の朝ごはんのメニューはふかふかのパンと熱々のコーンスープ、サラダとスクランブルエッグにウインナーだ。

 ご主人様に引き取ってもらった後、俺は今日みたいな豪華な食事を毎日食べさせてもらっている。そして広い一人部屋も用意してもらった。これほどない厚待遇だ。


 この「ご主人様」という呼び方は自然と俺の口から出てきたものだ。ご主人様と初めて会った時、自分でも驚くくらいその呼び方がしっくりきていて、それからはずっとそう呼ばせてもらっている。


 出会った時のことは今でも忘れずに覚えている。雪が降るような寒い日のことだった。国の書類や書籍を管理するという、最高国家書物管理官長であるご主人様が仕事の助手を探して俺のいた孤児院に訪れた。外見しか知らないのにも関わらず、俺はその時からご主人様のことが好きだった。

 そしてご主人様は院長先生と話し合った後、俺一人だけを指名した。はじめこそ驚いたものの、ご主人様と関われることが、たまらなく嬉しかった。


 でも最近、ご主人様に避けられることが増えているように感じる。理由はわからない。それに加えてため息を吐いている姿をよく見る気すらする。綺麗な尻尾だって、下がったままだ。

 正直、頭の中は恐怖でいっぱいだった。もしかして俺が何かしてしまったのだろうか。それとも、飽きられてしまったのかな。ご主人様に限ってそんなことはあるはずがないと思いながら、どうしよう、という思考は、俺がさっきまで浸かっていた泡風呂の泡のようになかなか消えていかなかった。

 それでも、お風呂からあがったことを伝えようとご主人様の部屋をノックしようとした時。部屋から大きなため息が聞こえてきた。


 まただ。そう思いながら部屋に入ることを躊躇しつつ、思わず聞き耳を立ててしまった。そんな俺の耳に聞こえてきた言葉はたった一言。

「……やっぱり引き取るんじゃなかったかな」


 あまりに衝撃的すぎる言葉で、自分の耳を疑ってみるもその声は間違いなくご主人様のものだった。

 ……やっぱりそうか。

 ざわざわした心とは裏腹に頭は冷静で、頭の中に浮かんだのはそんな感想だけだった。いずれ来る瞬間が想像より早く来ただけ。そんな思考が俺の脳内を支配していく。

 幸せすぎるとは前々から思っていた。嫌々引き取ってくれたのに俺の気を悪くしないようにしてくれてたところまで、ご主人様はやっぱり優しい。


 でも、やっぱり受け止めきれない心が、つらい、悲しいと泣いている。強く訴えかけるその声はズキン、ズキンと主張をやめない。

 もしかして、一緒にいられる日々を幸せだって思ってたのは俺だけだったの? じゃあなんで、ご主人様は俺を引き取ってくれたの?

 そんなことを考えながら、俺はご主人様についてあまり知らないことに気が付いてしまった。こんな俺だから、きっと愛想を尽かされてしまったに違いない。それなら、ご主人様は新しい助手を迎えるのかな。


 そこまで考えてしまって、巡らせた思考を心の底から後悔した。俺のものだと思っていた、ご主人様の助手、という立場が他の誰かのものになってしまうなんて。想像するだけで耐えられず涙がこぼれそうになってしまった。俺は今、助手の立場があるからご主人様と家族のように暮らせているのに。

 目に浮かんだ涙を拭って心を決めた。気持ちが変わらないうちにここを出ていこう。幸せな思い出のままにしたい。

 そう決めて、早速荷物をまとめようと自分の部屋に戻った。俺一人では広すぎた部屋は未だに広いままで、荷物をまとめるのはすぐに終わった。


 後はご主人様にどう伝えるかということだけだ。書き置きを残すことにして紙を取ろうと部屋を出た瞬間、ご主人様と遭遇してしまった。

「藍。その荷物は……?」

 やはりご主人様は賢い人だ。俺が何も言わなくても、すぐにたくさんのことを察することができる。

「……俺、出ていきます。これ以上ご主人様に迷惑はかけられないです」

「なんで迷惑なんて思ったの? 藍はずっとここにいていいんだよ」

 ご主人様は変わらず優しい態度で俺に接してくれる。でもそれは、俺がいてもいなくても同じだということに他ならないのではないだろうか。

「俺は知ってます。ご主人様が俺から距離をとろうとしていることを。それに最近はため息の回数だって増えてます。俺が何かをしてしまったのなら、俺はご主人様のそばにいない方がいい。……それに、ご主人様が今も変わらず優しくしてくださるのは俺がいてもいなくても同じということなのではないんですか……?」


 そう言い切ると、ご主人様は気づかれていたなんて……という顔をしていた。耐えきれずその場を去ろうとすると、ご主人様は慌てて俺を引き止めた。

「待って! 違うんだ。俺が、藍がいてもいなくても同じなんて、そんなこと絶対にない。俺は、最初の日から藍がいつ離れていくのか、ずっと不安だったよ。もちろん今でもそうだ」

「……じゃあ、『引き取るんじゃなかったかな』ってどういうことだったんですか……?」


「それは、……すごく恥ずかしいんだけど、君のことが好きだからなんだ。でも、藍からしたら家族同然の俺から好意を寄せられるなんて嫌だろうと思って、いつ君を解放するべきか悩んでいたんだ」


「……⁉」

 今、自分の顔が普通である気がしない。ご主人様に俺の気持ちをどう伝えたらいいのだろう。

「あの……っ! 俺も……」

 ご主人様の瞳が至近距離にある。ああ、俺は、この龍である象徴の、瞳孔の長くてかっこいい瞳が大好きなのだ。

 外では、すぐそこにある春の訪れをたくさんの生物が待ちわびていた。

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