僕は本を書くのをやめた
文星
僕は本を書くのをやめた
人が忙しなく廊下を歩く文化祭前のこの季節。
そんな人々の姿とは裏腹に、僕の手に握られた万年筆は止まっていた。
薄暗い部室の一角で僕は原稿用紙と睨めっこをする。
こんなことになったのは、今日の放課後、さっさと帰ろうとしていた僕に一人の先輩が話しかけてきたからだった。
「文化祭用の原稿、そろそろ出せる?」
「原稿——ですか?」
「ほら、君文芸部でしょ。あと君の原稿だけだからさ。」
文芸部。
どこか懐かしい響きを持つその部活は、夏休みが始まる前、帰宅部は嫌だと思い、適当に入ったものの、案外活動が大変ですぐさま行くのをやめてしまった部活だった。
「あ、後ちょっとです」
「じゃあ、今日部室空けとくからさ、そこ使っていいよ」
そんなわけで、今必死に小説の構想を練っているという訳である。
先輩の手前、つい「あと少し」なんて言ってしまったが、実際は文字を書いているどころか、設定さえも練れていない。
「あーあ、もう無理だ」
万年筆を乱暴に起き、大きな伸びをする。
小説を書いたことのない学生に20ページも書かせること自体がおかしいのだ。
顧問に退部届を突き付ける勇気もないので、椅子から立ち上がり、適当に部室内を探索する。
四角いテーブルを囲むようにして置かれた六個の座席に、スチールデスクが二つ。
動かなくなったパソコンが一台と、角に置かれた大きな木製の本棚。
どこも埃を被っていて、ここ最近使われていたようには見えない。
デスクの上に置かれていたアルバムを開くと、昔の文芸部の先輩と思われる人達の写真が貼り付けられていた。
最初の方はまだモノクロ写真で、白黒の写真の中で男女が笑い合っていた。
写真と同じ部室にいるはずなのに、写真とは対照的に憂鬱だった。
アルバムを引き出しに直し、しばらく部屋内を歩き回った後、本棚のガラス戸を開き、中を物色する。
中には、古い本から最近の本まで古今東西の本が陳列されていた。
時代小説、随筆、論説、思想本、ミステリー、ファンタジー、ラブコメ……
手取り早く内容をパクれるような小説がないかと漁っていたとき、最上段の奥の方の分厚い本に気がついた。
まるで隠すかのように置かれていたその本を慎重に取り出す。
息を吹きかけると、表面を覆っていた埃が舞った。
長年の積が俺の鼻をくすぐる。
「なんて書いてあるんだ?」
ハードカバーのその本は、だいぶ昔のものらしく、題名は掠れて読めなかった。
ゆっくりと表紙と数ページを持ち上げ、中を覗くと中には何も書かれておらず、どれだけ捲ってもそこにはただ白い紙たちが綴られているだけだった。
「白紙?」
指をかけパラパラと捲るが、文字が書かれている気配がない。
不思議に思いつつも、本を閉じようとしたとき、突然パラパラとページが巻き戻り、一ページ目が開かれた。
【ごきげんよう】
疑問に思う点は幾つもあった。
風も吹いていないのに、勝手にページが戻った点。
確かに白紙だったはずの一ぺージ目に文字が書かれていた点。
ただ、気がつけば、左上に指がかけられ、次のページが見えようとしていた。
「——ッ!!」
衝撃のあまり、本が地面に叩きつけられる。
そのページ内では、無数の文字がページ枠に跳ね返され、互いに押し合いながら蠢いていたのである。
恐る恐る本を持ち上げると、そこには文字の集団は既になく、ただキチンと縦に整列した文が書かれているだけであった。
【驚かしたことについては、申し訳なく思うわ】
【ただ、もう少し丁重に扱ってくれるかしら?】
見間違いかと思い、次のページを覗くとやはり文字が飛びあっていた。
「本が——動いてる?」
次のページが勝手に開く。
【当たり前でしょ】
【生きてるんだから】
「……生きてる?」
【そう】
「……なんで、本が生きてるんだよ」
【じゃあ、なんであなた達は生きてるの?】
「本は普通、喋るもんじゃねえだろ」
【私は普通の本じゃないから】
本に対して話しかける度に、それに応えるように文字が縦に並べられ、他の文字は枠外へと散っていく。
「じゃあ喋る本があったとして、どうしてこんな所にあるんだよ」
【さあ、私にも分からないわよ】
夢か何かだと思って、頬をつねるが何も起きない。
本を閉じようとしてもかたく、閉じられなかった。
【まあ、こんな所に来たってことは何か用があるんでしょ?】
「え」
【例えば、文化祭直前なのに小説が全然出来上がってないとか】
図星を突かれ、戸惑う僕を嘲笑うかのように本の中では文字が動いている。
【良い小説は一朝一夕で書けるものじゃないわよ】
【私が言えたことじゃないけどね……】
「本を書いたことがあるのか?」
【それなりにはね】
【書き方を教えてあげようか?】
本の書き方を本から学ぶなんて、どこか矛盾しているようだが、どうせこのままだと一枚も書き終えられないに決まっている。結局俺は渋々と承諾するしかなかった。
結論から言うと、その本の説明は本当に的確なものだった。
基本的な文の形式や構想の練り方から、情景描写の書き方まで。
【初歩的なことしか教えられないけどね】と本は言っていたが、それでも素人の僕にとっては、為になることばかりだった。
あっという間に20枚の原稿用紙を書き上げた僕は、ずっと気になっていたことを本に聞いてみた。
「お前は、昔は生きていたのか?」
自分でも何を言っているのかがよく分からなかった。
本の文字は今までとは違い、ゆっくりと並べられる。
【私は——】
「原稿出来たかー?」
扉から先輩が入ってくる。
制服ではなくユニフォーム姿なので、部活が終わった所なのだろう。
「は、はい」
慌てて僕は原稿用紙を先輩に手渡す。
先輩は原稿だけを受け取り、扉を出ようとしたとき机の上に置かれていたその本に気がついた。
「ああ!その本!」
「え?」
先輩は机の上のその本を指差す。
「読んだか?」
「いや、まあ、はい」
「それ、曰くつきの本なんだよ。昔それを書いた女性生徒が、卒業直前に交通事故で死んだらしいんだよ。そしたら、その本を読んだ人は女の亡霊が見えるようになるみたいな噂が広まってな。まあ、あくまで都市伝説だけどな。それじゃ!」
それだけ言って、先輩は去っていった。
ふと、本に目を落とすと先程までの文は全て消え、通常の小説の文面が並んでいる。
一枚目に戻り、数枚読んだが、やはりただの小説だった。
「——帰るか」
本を棚に直し、鞄を持って部室を出る。
扉を閉め、鍵をかけたとき、ガラス越しに一人の少女が見えた——気がした。
部室に背を向け、歩き出す。
写真の少女を思いながら。
〈完〉
パソコンのエンターキーを押し、ファイルに保存する。
久しぶりにしては、上出来だと思う。
ここ十年、ずっと書こうとも思わなかった小説を急に書く気になった理由は自分でも分からない。
久しぶりに母校を訪れたから。
今日が彼女の命日だから。
彼女の書いた本が出てきたから。
適当な理由をつけようと思えばいくらでもつけられるのだろう。
でも、やっぱり一番しっくり来るのは「なんとなく書きたかったから」だろうか。
そんなことを思いながら、デスク脇の写真立てを手に取る。
彼女がいなくなった後、僕らの距離は広がった。
部室に来る人数は一人、二人と減っていき、部室の扉が開かれることはなくなった。
僕は写真の中の自分を見つめる。
今の自分とは対称的なモノクロ写真の自分が、憎たらしくて、羨ましかった。
僕は本を書くのをやめた 文星 @bunnsei11
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