春の風が吹き抜ける

はれわたる

第1話

「うぅぅぅ……」

 だめだ。まったく書けない。

 俗に言う、スランプが来たのだ。


 俺は今、田舎の中の田舎にある実家で小説を書いている。締め切りは迫ってきているのに、目の前に広がる原稿用紙はそのほとんどが真っ白だ。睨み合いを続けて数時間は過ぎたと思う。俺の右手に握られたペンは、まったく動く兆しが見えなかった。


 小さい時から家の中にいることが好きだった俺は、応募した小説が審査員の目に止まってありがたく受賞したのをいいことに、ずっと実家で暮らしている。今は小説家として、実家で執筆をしている、というわけだ。

 このまま真っ白の原稿用紙と睨めっこしていても埒が明かないので、気分転換でもするかと散歩をしに外に出た。


 田舎の中の田舎、といえど駅は歩いて二十分の場所にあるし、駅の周りはお店も多い。ただ俺の家の周りが田舎すぎる、というだけで不便はない。よくいろいろなものを買いに駅前のコンビニへ出かけている。

 外は、ほんのりと春の匂いがした。でも、もう春も終わるのだろう。柔らかい空気の中に少しだけ、夏の頭が見えたのが分かった。ふ、と街の様子を見れば、桜は散り始めている。早い木は、もう葉をつけていた。

 少し寂しいような、でも嬉しいような。そんな気持ちで俺は街を歩いた。

 道の途中の、次の角を曲がろうとした時。ふ、と視界に影が重なった。人がいる、と気づいたのにも関わらず、咄嗟の判断ができなかった俺はそのまま進んでしまった。

 ドン!

「いったた……」

 なんと典型的なぶつかり方だろう。まるでどこかの漫画のようだ。反対側から来ていた人とぶつかってしまった。

 俺は崩れた姿勢を急いで直し、相手の方へ向き直る。

「すみません! 怪我はないですか?」

 慌てて謝ると、相手は爽やかな笑顔で答えてくれた。

「こちらこそごめんなさい。僕は大丈夫です。お兄さんはとても優しい人ですね」

 なんという好青年だろう。綺麗な黒髪をちょうど真ん中で分けていて、サラサラとなびかせている。それが彼の清潔感と爽やかさを表していた。瞳は彼が男性であるということを忘れてしまうくらい大きく、とても澄んでいた。その透明感が、艶のある綺麗な黒髪と相まって彼の魅力を引き立たせている。

 そうやって彼のことをまじまじと見ていると、どこかで見たことがある気がしてきた。


 ……あれ、どこで見たんだろう……?

 そんな俺の思考と目の前の青年の声が重なった。

「……お兄さんのこと、どこかで見たことある気がするんです」

 まさか、同じことを考えているなんて。俺の思考と、目の前の彼の言葉がシンクロしたことに驚きを隠せない。

 驚きでうまく言葉を紡げずにいると、青年は慌てたように付け加えて言った。

「あっ、僕はここ出身の夏久節なつひさふしめといいます」

 その名前を聞いた瞬間、風が吹き抜けるようにぶわっ、と過去の記憶が蘇ってきた。思い出した、同じ高校の二個下の後輩だ。しっかりとした関わりこそなかったが、廊下でよくすれ違っていたことや、彼が進学先の大学で一躍有名なランナーになったことで名前も顔も覚えていたのだ。

「あの夏久くん⁉ 知ってるよ。今すごく有名だよね!」

 彼が有名なことは同じ高校出身の者はもちろんのこと、地元の人なら誰でも知っていることだ。なんなら、駅伝に出場していたことで全国的に有名になっている可能性だってある。

 彼が夏久くんだったことに驚いて、そして喜んでいた俺は自分の自己紹介がまだだったことを思い出した。

 慌てて、俺は続けて言う。

「えっと、俺は笹倉愛音ささくらあいねっていいます」

「えっ! 笹倉先輩⁉ 僕、知ってますよ。小説家のアイネさんですよね!」

 夏久くんが驚くのと同時に、俺も驚く。なんと、俺のことを知ってくれていたらしい。

 目の前の夏久くんは続ける。

「この間、記事で取り上げられてたのを見たんですけど、そこで同じ高校の先輩だったって知ったんです。そういえば、よく廊下ですれ違ったなって!」

 さっきから、まさかの連続だ。

 こんな風に俺たちが出会えたことは、きっと偶然であり必然だったのだろう。そう考えると嬉しくてたまらなくなった。


「夏久くんは今ランニング中?」

 夏久くんはランニングウェアと思しき服に身を包んでおり、動きやすい格好で目の前に立っている。ランナーである夏久くんのことだ。きっとランニング中なのだろうと思ったのだ。

「夏久でいいですよ。そうです、気晴らしに、と思って」

「気晴らし? 練習じゃなくて?」

 思わずそう聞くと、夏久の顔が一瞬曇った。聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうか。

「……練習は、最近うまくできてなくて。スランプ、です。笹倉先輩は? どうしてここまで来たんですか?」

 びっくりだ。夏久もスランプだったなんて。

「俺も、愛音でいいよ。アイネと同じで分かりやすいだろうから。……実は、俺も最近筆が乗らなくて。一緒かな。気晴らし、だね」

 スランプキツいよね、と続けると、彼の表情は安心したような表情に変わった。

「……よかった。同じ境遇のヒトがいると安心しますね」

 出会いは一瞬だったが、俺たちはみるみるうちに共感し合い、同じ境遇のお互いを仲間だと思うようになっていった。

 それから、俺たちはスランプの苦しみ、辛さなどを話し合った。


「書きたい! って気持ちだけはあるんだけど、うまく筆が進まないというか……」

「分かります! 走りたいとは思うのに、全然自分の中の理想の走りができてなくて」

「そう! そうなんだよ! 俺が書きたいのはこれじゃない〜! みたいな気持ちになって!」

「ですよね⁉ 理想のタイムとすごく離れてて、全然タイム伸びなくて、悔しくて」

「うん。悔しいよね。すごくもどかしい」

 ひとしきり話して、共感し合ったあと、夏久が口を開いた。

「愛音さんが共感してくれて、僕、すごく嬉しいです。ありがとうございます」


 書きたい気持ちはあるのにうまく筆を進められないこと。思うように執筆できなくてもどかしいこと。自分の理想の走りができないこと。タイムが伸びなくて悔しいこと。

 それらの全ては、俺たちを結びつけるには十分だった。


 夏久と話していて分かったことがある。それは、夏久がとても才能と運のある人間だということ。夏久は、全ての偶然を味方につけたような男だった。

 具体的には、彼が大学のランナーになったきっかけだ。高校の部活で走っていたところを偶然大学の監督に見つけてもらい、大学で選手になるまでに至ったそうだ。運も実力のうちというが、彼はそれを具現化したような人物だった。

 極めつけは彼の発言だ。「今までは走れば走るだけ速くなったのに」と言っていたことを聞いて俺は悟った。ああ、この男は天才なのだ、と。

 努力が、努力した分、もしくはそれ以上になって返ってくるタイプなのだ、と。

 でも、彼が天才だとわかったとしても、同じ高校出身の一人として負けていられない気持ちは強い。仮にも、俺は先輩で夏久は後輩だ。後輩がここまで頑張っているのに、先輩である俺が頑張らなくてどうするのだろう。負けていられない、という思いが強くなっていった。たとえ彼が凄まじい才能の持ち主だったとしても関係ない。俺は、夏久と同じ土俵で戦っているような気持ちでい続ける。


 夏久はオフシーズンのため地元であるこの町に帰ってきたようで、ずっとここにいるわけではないそうだ。ちなみに大学は東京にあって、普段は大学の寮で暮らしているんだとか。

 東京といえば、俺と編集さんがよく打ち合わせをする場所だ。編集さんとの打ち合わせは基本オンラインだが、ごく稀に東京で行われる。といってもその頻度は年に二、三回と少なく、その時だけ遠出をするという生活を続けていた。

 そんなことを考えていたからか、夏久の言葉が俺の思考に重なった。

「……愛音さん、僕と東京に行きませんか」

 なんだか真剣な顔をしているな、と夏久の方を見ると、そう言われた。彼は続ける。

「僕がスランプになったときに決まって行っている場所があるんです。スランプがどうしようもなく苦しいのは僕も分かるので、愛音さんの苦しさを少しでも取り除くお手伝いがしたい」

 彼の瞳と言葉はまっすぐで、そして澄んでいて、驚くほどすんなりと俺の心に染みわたっていった。

「……そこまで言ってくれるなら、連れて行ってほしい」

 俺が答えると夏久は顔を綻ばせた。

「じゃあ、今から行きましょう! 荷物まとめられますか?善は急げ、です。……でも、ごめんなさい。急でしたよね。無理そうなら遠慮なく言ってください」

 先程までの笑顔だった夏久の顔は、言葉を進めていく毎に悲しそうな顔になっていった。彼がもし犬だったら、垂れ下がる耳と尻尾が見えたことだろう。いつもテレビで見る彼とは違って、表情が豊かな人、というのが実際の夏久の印象だ。テレビではもっとクールな印象を受けたから、なんだか意外だった。夏久のリアルな姿が見られて、嬉しかった。

 現在の時刻はちょうど十三時あたり。春の終わり頃特有の心地よい生ぬるさがあたりを包んでいる時間だ。

 急すぎないか、と多分いつもの俺なら思っていただろう。だけど今の俺は、急すぎるというツッコミをするよりも先に返事をしてしまったのだ。

「うん。すぐ荷物まとめて駅に行くね!」

 きっと、彼の切なそうな表情にやられてしまったのだろう。

 でも、後悔なんて一ミリもしていない。むしろ、行き詰まった俺を引っ張り出してくれた彼に感謝しているのだ。

 こうして、俺たち二人の旅が始まった。

 

 田舎の駅から電車に乗って、この地域の中枢都市へと向かう。そこからは新幹線を使って東京へと進んだ。

 東京に着いた時には太陽がだいぶ傾き始めていて、あたりはオレンジ色に包まれていた。高層ビルが、夕陽に照らされて光っている。夕陽のあたるところは彩度が一段と高くなっていた。まるくて大きい、赤色の太陽が今にも溶け落ちそうなほど光って、沈もうとしている。

「愛音さん、こっちです!」

 東京に行くまでは俺も慣れているのでなんてことなかったが、着いてからは夏久に引っ張ってもらうことしかできなかった。

 夕暮れの中を、夏久に手を引かれながら走る。立ち並ぶビルも、行き交う人々も、俺たちとは違うもののように感じた。まるで俺たち二人だけが別の世界にいるかのようだ。

 ランナーである夏久のことだからきっと俺に合わせて走ってくれているのだろうが、それでも夏久は速くて息がどうしてもあがってしまう。

 肩で息をしながら辿り着いた場所は高台になっていて、眼下にはビル群が広がっていた。

「僕の秘密の場所なんです。間に合って良かった」

 そう言って笑う夏久を風が撫でる。心地よいぬるさを孕んだ、優しい風だ。

 間に合った、という言葉通り日が落ちるより前に着くことができたようだ。夕日がビルに当たって、マンションをオレンジ色に染めて、どこもきらきらと輝いている。

 宝物みたいだ。

 直感的にそう感じた。目に焼き付けて帰らなければならない、とも。心が、奥の奥から浄化されるような心地がした。

「……きれいだ」

 結局、言葉にできたのはたったそれだけ。でも、夏久に伝わるには十分だったようだ。

「喜んでくれて嬉しいです。この景色があなたの気晴らしになってくれたのなら、良かった」

 そうやって言う夏久は、優しい春のような微笑みを浮かべている。それにつられるようにして、俺は口を開いた。


「俺、夏久が活躍してる、ってニュースで見た時、同じ高校出身の一人として負けてられないなって思ってたんだよ。後輩がこんなに頑張ってるなら俺も頑張らなきゃなって。その時から、夏久は俺を励まして、助けてくれてたんだ。今日、俺を連れ出してくれたみたいにね。ありがとう」

 気づいたら、俺は思いの丈を夏久に語っていた。きっと、夏久の柔らかな優しさを見たら伝えたくなってしまっていたのだ。夏久は、真摯に俺の言葉を受け止めてくれた後、ゆっくりと口を開いた。


「僕の方こそ、あなたにお礼を伝えたい。僕のことを対等に見てくださって、ありがとうございます。僕は、天才と呼ばれて、距離を置かれることが多かったんです。天才と張り合っても無駄だ、なんて思われて勝負はしてもらえないことがほとんどでした。僕が何かを言っても、『天才だから』で片付けられてしまって共感もしてもらえた記憶が少ないです。だから、愛音さんが共感してくださったことが嬉しかった」

 夏久は続ける。

「ちょうどさっきだって、対等な一人として僕のことを見てくれました。『負けてられないな』って言ってくださったことが、すごく嬉しいんです」


 天才と呼ばれることを悲しんでいる夏久の言葉で、俺は高校時代に彼の部活姿を見たことを思い出した。夏久は、目の奥に燃え滾る情熱を宿してタイムを追い求めていた。なんでもそつなくこなすような天才とは違って、着実な努力を重ねていく姿がそこにはあったのだ。「走れば走るだけ速くなったのに」という言葉は単に彼の努力を表していただけなのではないか。

 そうか。夏久は、彼は、天才ではないのだ。確かに才能はあって運も味方につけている。だけど、それ以上に努力量が凄まじいだけではないのだろうか。それに気がついた瞬間、俺は夏久に謝りたい気持ちでいっぱいになった。

「ごめん! 実は、俺も夏久のこと天才だって思っちゃってた。でも、違うんだ。夏久は、天才じゃないんだね。ただの、もの凄い努力家だ。でもやっぱり、俺は夏久に負けてられないなって思う。たとえ夏久の努力量が凄まじかったとしてもそれは変わらないよ。俺だって、いっぱい努力するから」

 そこまで言いきってから、俺は一呼吸おいて続ける。

「改めて、ここまで連れてきてくれて、スランプの解消を手伝ってくれて、ありがとう。夏久」


 いつのまにか日は落ちていて、ゆっくりと空の色が濃く染まり始めていた。ここの景色は夜もまた綺麗で、あたりの明かりが優しく、それでいて煌々と俺たちを照らしていた。 その風景だけ切り取れば、なんてことない日常になるだろう。でも、今は違う。夏久に励まされて、頑張りたいと思うことができた俺には、その風景がとてつもなく綺麗に見えたのだ。


「なんか、周りに対するアンテナが低かったんだなってここに来て思った。いつだって俺たちの周りには綺麗なものでいっぱいなのにね。ここで綺麗な景色見て、やっとわかった」

 ぽつり、と呟くように俺は言葉を落とす。

「そうですね。僕もここに来ると気持ちが新しくなるんです。初心を思い出すというか。ああ、走りたいなって思える」

「俺も。今、書きたくて書きたくてたまらない。この気持ちを、想いを、感動を、文章にして誰かに伝えたいって思う!」

 少し強い風が俺たちに吹きつける。かと思えば、その風は散りかけの桜の花びらを運んできてくれた。

「俺、スランプ解消できた、と思う! 夏久はどう?」

 俺はそう言って夏久を見る。

「僕もです。もし解消できてなかったとしても、それでも走りたいって思えるほどには、回復してます!」

 夏久は、顔いっぱいに笑顔を浮かべていた。


 もうすぐ春が終わる。俺たちは、次の季節、その次の季節へとこれからも進んでいくのだ。周りにある綺麗なものに気づけるような、高い感受性を忘れないようにして。

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