⑫
私はその翌週の土曜日に日奈と会う約束を立てた。月曜日の夜に連絡をして、何処か行きたい場所はあるかと聞くと、海に行きたいと日奈は答えた。私はそれでいいと答えた。
日奈が海に行きたがる時に、明確な周期は無かった。或いは、その周期やメカニズムを他人が知ることは出来なかった。
しかし、彼女は何らかの起因をもって、選択的に海を訪れている節があった。私たちがまだ友人であった頃、終ぞ私はそれを理解してあげることが出来なかった。可能ならば、私はそれを理解してあげたかった。
昔のことだが、絶縁から一週間程度が経った日に、私は一人で海を訪れたことがあった。いつも日奈と訪れていた海とは逆方向に車を走らせ、三時間超のドライブの末に隣県の端の方まで足を延ばした。
そこには見たことのない海が広がっていた。海そのものが持つ視覚的な特性は、見慣れた海と何一つとして変わっていない。しかし、その場所が持つ非視覚的な特性に、私は打ちのめされた。私がその日まで海と認識していたのは、海という存在の一部にも満たないという事を、目の前の景色によってありありと理解させられた。果ての見えない水平線の向こうまで続く膨大なエネルギ―の塊が、私の存在を些細で矮小なものにしてくれるように感じた。
その海を眺めながら私が考えていたのは、もしかすると、日奈も同じように感じていたのではないかという事だった。それは、私にとって実に都合の良い思考回路によって導きだされた解であった。されど、そうであればいいと願うことの多くは、そうではない。私はそのことを思い出して、その解を水底に沈めた。
約束の通りに、私は土曜日に海へと向かった。約束の時間の三十分程前について、砂浜の上を歩きながら日奈を待った。まばらに属性不明の集団が居て、私はそれらを眺めながら暇をつぶしたりした。
私はほどなくして砂浜に座り込み、波の音と喧騒との和音に耳を傾けた。私の後ろや横を通り過ぎていく人々の銘々な声が断片的に私の耳に届いた。それらが一定数に達すると、波音が全てを飲み込んで、攫っていった。
約束の時間の五分前に日奈がやってきた。彼女は砂浜に座り込む私に気づくと、一目散に駆け寄ってきた。浜風に髪を揺らされ、露わになった額には、まだくっきりと手術痕が残っていた。痛々しさはなかったが、それは明確な痕跡だった。
待たせたかと日奈が聞くので、少し早くついてしまっただけだと私は答えた。
「どのくらい?」と日奈は言った。
「十分くらい」と私は意味もなく指折り数えて、確認するふりをして答えた。
日菜は私のすぐ横に座り込み、海を眺め始めた。私は変わらず波音に耳を傾けながら、視線のみを彼女の横顔へと移した。
日奈の長い睫毛の下にある瞳が、世界をどのように映し出しているのか。
その世界の中で、私はどんな役割を与えられているのだろうか。私の言動は、どんな意味を持って、彼女の瞳や耳に捉えられるのだろうか。私はそういった類の事を考えた。
そうしていると、彼女の瞳に映っていたい。彼女の耳に言葉を届けていたい。彼女の手に触れられたい。という自身の願望を認めないわけにはいかなくなった。そして同時に、日奈という存在を瞳に映していたい。言葉を受け止めたい。この手で触れたい。という欲望も認めなければならなかった。
私はゆっくりと息を吐いた。願望と欲望を自覚した上で、それらを手放すための台詞について思いを巡らせた。私は関係の終わりについて想像しながら、そのための言葉を必死で模索した。すべては日奈の為であり、私の為でもあるはずだった。しかし、もはや私にとってはそれが誰のためであるのかという事はどうでも構わない事だった。ただ、そうしなくてはならないという使命感が独り立ちして、私の手を引いていた。
私はその手に引かれるがまま、ただ歩くだけで良かった。
先んじて口を開いたのは、私ではなく日奈の方だった。海を眺めていた視線を私に向け、晴れやかな笑顔を見せた。
「ほんとはね、怖かったの」と、笑顔のまま日奈は言った。
「それは、何が?」と、私は率直な疑問を口にした。
「記憶を失ってしまった事。そこに存在していたはずの、私の知らない私が」
「自分が怖かったの?」
私が聞くと、日奈は小さく頷いた。
「この前はさ、忘れた記憶なんて大切だったか分からないから、どうでもいいみたいに言ったけど。あれは強がりだった。本当は、正反対の事を考えてた。だって、そこに私の全てがあったのかもしれない。もちろん、なかったかもしれない。けれど、そこで私が誰かと共有していたはずの時間は、確かに失われてしまった。それは、相手には残って、私には残らないという形でさ。これって喪失感なのかな。何か大切なものがすっぽりと抜け落ちてしまっていて。記憶を失ってから、本当の私は空っぽなんじゃないかって思うことが増えた」
私には日奈の言う空っぽというのがどのような状態を指して、表現しようとしているのかは分からなかった。けれども、確かに私は今の日奈に対してそう感じたことがある気がした。
そんなことは無いよ。と私は言いたくなった。私がそう言ってあげることで、少しでも彼女の救いになるのであれば、私はそうしたかった。けれども、私は口にすべき言葉を見つけ出すことが出来ず、ただ黙って日奈の話を聞いた。
「そこに私がいたことを知りたかった。でももし、誰も覚えてくれてなかったら、ぽっかりと自分が死んでしまうみたいでしょ。だから、本当はずっと、それを早紀に聞いてみたかった。私の存在を確かめたかったから。けれど、同じくらい聞きたくなかった。そして、私の事は早紀が覚えてくれていたら十分だと思うようにした。早紀の存在が、間接的に私という存在の証明になってくれていた。なんでもないような時間を早紀と過ごしている間は、そういう不安から解放された。少なくとも、私の中では」
日奈の言葉を私は受け止めた。正面から、その言葉の細部に宿る小さな部分さえも見落とさないように。重要に思える部分を、幾度か頭の中で繰り返した。
「でも、それでも不安になる。私は早紀の重荷になっているかもしれない。時々、早紀の表情が私の知らない人に見えて、怖かった」
日菜はそう言いきると、一度大きく息を吸って、次の言葉を吐いた。
「ねぇ、早紀。私は何か大切なことを忘れてない?」
そう問われて、私は言葉に詰まった。それは紛れもなく、彼女に真実を伝えるべく好機であった。日奈自身が真実を知ろうと能動的になり、行動したのだ。失った記憶を求めているのだ。後は、そこに添えるように私が全てを話すだけでよかった。
日奈の空白を埋められるのは私だけなのだ。自身を空っぽだと形容する彼女に、その内容物を与えればいい。彼女の空白を埋めてあげるのは、私の役割なのだ。彼女のその不安は、私にしか拭えない。
私は頭でそれらを理解できていた。しかし、それを言葉にするというのが、気が遠くなるような、途方もない作業に思えた。
空白を埋めてあげる事こそが優しさだろうか。しかし、日奈は私という存在の喪失を許容できるのだろうか。
私はアンビバレントを抱え、答えのない問いを見つめ続けた。そして、日奈の顔を見つめた。そこには不安の渦巻く表情があった。日奈のその顔を見ていると、私は哀しくなった。そして、確認せずとも、私も日奈と同じ表情をしているのだろうと思えた。考えた末に、私はそれまでの言葉や思考の全てを放棄することにした。
日菜の肩に手を回し、その小さな頭を強引に自分の胸に押し付けた。彼女の背中に手を回し、私の心臓の音が彼女の脳を揺らす程に身体を密着させた。
「何もないよ、安心していい。日奈は空っぽなんかじゃない。大切なことなんて、なに一つ忘れてない。だって、日奈の事は、私が全部覚えてるから」
私はそう答えた。仮に私が真実を伝えれば、彼女は本当に自分という存在を失いかねない。そして何より、もう一度彼女という存在を私は失う。私は自らの手で、絶縁をもう一度この身に与えるのだ。もう一度、日奈を失うのだ。私はそれに耐えられるはずがなかった。
何よりも大切な私の友人。私は自身の腕の中でその温もりを強く感じ取った。私の心臓は脈打っていた。私は、その鼓動のリズムが日奈の鼓膜を揺らす様を想像した。
私が放棄した言葉や思考は、絶えず私の身体のどこかに遺り続けるだろう。やがてそれは私の記憶となるだろう。そして、ふいに目を覚ましては私を苦しめるのだろう。日奈の存在を身近に感じる程に、かけがえないと思う程に。その記憶を、私は呼び起こすことになる。
そして日奈には絶えず空白が残り続ける。記憶が人を象るのであれば、彼女はその輪郭を失ってしまったのだ。私がどんな言葉をかけようとも、彼女はふいにその不安を呼び起こすのだろう。正しい記憶を持って、それを埋めることが出来るのは私だけだ。でも、私はそれをしない。
日奈はその気持ち悪さを、敏感に感じ取るかもしれない。私との会話がかみ合わなかったり、思い出に齟齬を覚えたりする瞬間もあるだろう。
日奈は、自身が空っぽであることに苦しみ続けるかもしれない。私の選択は互いを救わない、愚者の選択だ。しかし、仮にどちらを選んでも私たちは救われなどしないのだ。とうの昔に、私たちの関係は壊れているのだから。
救われるためでも、救うためでもなく、私は選ばなくてはならないのだ。
私は彼女の首筋に鼻先を押しやった。そして深く息を吸った。鼻腔の奥で彼女の存在を感じられるように、深く息を吸い込んだ。日奈も、私の胸で深く息を吸っているようだった。
「これからも?」と日奈が言った。
「これからも」と私は答えた。
もう、日奈が空っぽでもなんでも構わなかった。仮に、互いが伽藍洞になっても、私たちはこうして身を寄せ合う。
日奈が私の背中に手を回して、しがみつくように強く力を込めた。私は答えるように、目一杯の力で強く、強く、壊れてしまう程に強く、腕の中の空蝉を抱きしめた。
空蝉を抱きしめる 糸屋いと @itoyaito
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