⑪
星空を見に行った日から、私は日奈にすべてを話すべきだと考えるようになった。その考えの正誤や善悪については考えるべきだと思わなかった。私は、そんなことはどちらでも良い事であり、或いはどちらでもあることであり、労力を割くべき部分ではないと考えた。
水曜日に連絡をして、週の終わりに花と会う約束を立てた。私は花に短いメールを送った。当日の集合場所と時間と簡単な要件だけを伝えて、話の詳細は記さなかった。
金曜日の夜、私はコンビニの駐車場に車を停めて、その車内で花を待った。長い間待つようなことも無く、花はやってきた。花は駐車場を見渡して、私の車に気づくと、助手席に乗り込んだ。
「それで、話ってなに?」
花は開口一番にそう言った。シートベルトを締めようとしているのに気が付き、私は彼女に、車は動かさないからと、シートベルトを外すように促した。
「別に、大したことじゃないんだけど」
と私は前置きをした。本当は大した話だったが、あえてそう言った。
「日奈の事で話があるって。何、なんかあったの?」
花はスマートフォンの画面に私との会話履歴を表示させ、私の目の前に掲げた。私は自分で送ったその文章を、改めて一読した。
「別に、何かあった訳じゃないよ。ただ、一つ相談事というか、お願いがあって」
私は直線的に会話を進めた。もっと、他愛もない話から入って、回り道をしても良かったのだが、抱えている言葉という荷を早く下ろしてしまいたかった。私は長話をするつもりが無かった。話をする場所になんらかの店を選ばなかったのもそのためだった。伝えるべきことを伝えてしまえば、直ぐにでも解散するつもりであった。
「相談事? 日奈の事で?」
花の問いに私は頷いた。
「全部、話そうかなって思ってるの。日奈に」
全部という言葉を使ったのに特別な意図はなかった。口にしてみて、私はそれが曖昧さを孕んでいることに気付いた。私にとっては、全部という風に表現するしかない事だったのだ。
花は案の定、その全部という範囲を掴みかねているようであった。首をかしげて、眉を顰めながら、私に尋ねた。
「全部って、一体何を?」
私は二人の間にある認識の差を理解した。どういう風に伝えれば、花に自身の感覚を理解してもらえるのかは分からなかった。私は出来得る限りで、とても丁寧に答えた。
「日奈が失くした記憶について。私が覚えていることを。余すことなく全部。もちろん、私たちが絶縁したことも含めて。そして、今度はちゃんと謝りたいの。私たちの絶縁の事を」
私が答えると、花は驚いたような表情をみせた。そしてその表情のまま、テレビのチャンネルを切り替えたみたいに、瞬間的に怒りを感じさせる声色と口調になった。
「なんで。一体、何のために?」
「何のためって。失くしたものがあるなら、戻った方が良いでしょ」
「記憶が戻るのと、早紀が話すのはまるで違うでしょ」
「結果は違わないよ。違うのは手段だけ」
私は出来るだけ無感情な受け答えを意識した。私には花が感情的になることは目に見えていた。であれば、私が感情的になることは、会話の崩壊(もしくは放棄)を意味した。
私にとって、今回の会話の意図は議論ではなかった。意図は正しく説明をして、納得を得ることにあった。花と建設的に会話を行うためには、私が感情的になることは避けなければならなかった。私は感情をどこか手の届かない所まで遠ざけなければならなかった。
「だとしても、それが誰のためになるの!」
花は直情的に声を荒げた。それは威圧的な声にも近かった。しかし、私はそんな彼女を好ましく思った。花は感情的になれる程に、真剣に私たち二人のことを考え、思ってくれているのだ。関心が無ければ、感情を揺さぶられることも無い。感情的になど成りえない。彼女の感情の高まりを通して、私はそこに愛情を見出すことが出来た。
「もちろん、日奈のためだよ。そして、私のため」
「何でいまさらなの。せっかく、二人は元に戻れたのに」
今度は、花は哀しそうな顔をした。表情は感情に合わせて、サイコロのように移り変わった。そして、その賽の目を振っているのは、紛れもなく私であった。
「本当に、そう思ってる?」
と私は花に尋ねた。
「そう思ってるって?」
「私と日奈はさ、本当に元に戻れたって思う?」
私が問うと、花は閉口した。そして、石造のように眉一つ動かさなくなった。花はやがてゆっくりと顔を伏せた。けれども、回答を放棄した訳ではなく、熱心に答えを探してくれているようだった。私にとっては、答えに詰まってしまうという事が一種の答えだった。
十秒待った。花が答えに詰まった際は、そうしようと決めていた。しかし、十秒が過ぎても、それでも花は口を開かなかった。
「質問が悪かったよね。ごめん」
花に向かってそう言う時、私は彼女に向けて突きつけていた銃口を下ろすような気分になった。花が即答してくれていたら。例え強がりであっても、間を空けずに口を開いてくれていれば。そんな仮定は無意味であることを知りながら、私はそう思わないわけにはいかなかった。
「いいじゃん、別に。完全に元通りじゃなくてもさ」
花が哀し気な顔をうかべたまま言った。それが心からの言葉でないことはすぐに分かった。
「私もそう思ったよ。別に、それでも良いかもって」
「だったら何で…」
なぜ。の後に続く言葉のつづきを花は口にしなかった。私はその後に続くべき言葉を考えてみた。与えられた問題文の空白を埋めるように。それを設問として扱ってみた。
しかし、それで花の本心が知れるわけなどなかった。なにも、他人の感情は国語の問題ではないのだ。文章の中に正しい答えが先述されているとは限らない。心情などという形になどならない。言葉でさえ、それを完璧に象ることは出来ないのだ。
だとすれば、長い時間をかけて考えることに大きな意味は無いように思えた。私はそれについて考えることを止めた。
「正しい記憶を正しい位置に戻す。不完全な関係を終わらせて、正しい関係に戻す。本当にそれだけの事なんだよ。でも、それが出来てないと、何処かに歪みが生じる。最初から、そうすべきだったんだよ」
「日奈に、強引に思いださせることは正しい事なの?」
花が私に尋ねた。私は喉元までせりあがってきた感情を、もう一度飲み込んだ。深く、胃の奥底へとそれを追いやった。胃液がそれをドロドロに溶かしてくれるのを願った。
「それは分からない。日奈は、思い出さなくても良いとは言ってたけどね」
「だったら。だったら…多分、それは悪意と大差ないよ」
花が歪めた表情を私に向けた。自分の言動が他人の感情を揺さぶり、よからぬ方向に刺激する。半ば意図的にそれを行っていることに、私は罪悪感を抱いた。けれども、折れることは出来なかった。
「分かってるよ。花の言う通り、私がやろうとしていることの暴力性はどうやっても否定できない。けど、私にとっては日奈が何も覚えてなくて、思い出さないこともそうなの」
私はそう言って、深い息を吐いた。何らかの言葉が返されるまで、花の姿を丁寧に観察した。数分の観察の間に、幾度か花の喉が唾を飲みこんで上下したのを見た。それは、何らかの言葉を飲み込む作業にも思えた。花の身体の一つの器官が正しく稼働して、彼女から言葉を奪っていく様にも見えた。彼女の中で行われる取捨選択に、私が加担することは出来ない。
花はようやく口を開いたかと思うと、今から言う事は、出来れば聞かなかったことにして、なかったことにしてほしい。とそんな枕詞を置いた。
私は力強く頷いて、了解の意を伝えた。
「もし、早紀がどうしてもそうするって言うなら、今度は私が早紀と絶縁する。私がそんな我儘を言ったなら、やめてくれる?」
私はその問いかけを頭の中で一度復唱した。そしてゆっくりと花の目を見た。彼女の目が私の姿を捉えていることを確認してから、数回首を振った。
「そう言われても、花がそうしないって分かるから」
私が答えると、花は小さな声で、そっか。と呟いた。
「じゃあ、もう言うことは無い。早紀の思うようにやればいいよ」
花は私の目を見ずに、窓の外を眺めながら言った。けれども、私は見放されたという気がまるでしなかった。どのような形であれ、彼女が納得に至ったという事が分かっていた。
「日奈のフォローはお願いね」
私が言うと、花は分かったと言って、助手席のドアを開けて外に出た。
「それじゃあ、また今度」と私は言った。
花は振り向かず、手を振って「また今度」と答えてくれた。
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