⑩
些細な時間がささやかに流れた。その間に日奈の包帯は外された。傷跡は前髪で隠されるようになったが、その隙間から覗くとくっきりと、痛々しく残っていた。
私と日奈は幾つかの時間や場面を共にした。流行りの映画を見に行って。話題のスイーツを食べに行って。ショッピングモールに出かけて、デザインは良いが値段の高いシャツの購入を諦めて。過ごしたのはありふれた出来事の連続が積み重なった時間であった。
それは数える程の回数であった。しかし、確かに以前と同じように流れて、新しく共有する、互いの記憶になった。
日奈は新しい記憶が生まれていくことに満足している様子だった。とはいっても、実際の満足を私が推し量ることは出来なかった。
日奈には一つ一つの出来事や、会話を大切にしまい込んでいるような節があった。ふとした瞬間に、高揚感を身の内に留めるような素振りを見せた。具体的に決まった行為や行動があるわけではなかったが、私はその瞬間を読み取ることが出来た。日奈は今、記憶を象っているのだと察することが出来た。
対して、私の中に定着していく記憶は満足を生まなかった。記憶をしまい込む領域というモノがあるのなら、私の場合はその真ん中には絶えず過去が鎮座していた。
新しい記憶で埋め尽くそうとするほどに、過去は強調され、際立った。私が日奈の笑った顔を覚えていようと記憶にしまい込めば、過去と現在を精査せざるを得なかった。
私は右と左にそれらの二つを置いて、間違い探しをするように二つを見比べた。そうしていると、どちらか一方はまるで贋作に思えた。私にはそれがとても辛かった。
その日は突然の日奈の提案で星を見に行くことになった。とくに予定も無かったので、私は二つ返事で了承した。
向かったのは山間にある小さな駐車場だった。そこは綺麗に星の見えるスポットになっていて、絶縁の以前にも一度訪れたことがある場所だった。その日は、日奈が車を出して運転手を務めた。
山の風景は面白みに欠けた。まして、私は運転することも無く快適な助手席に座っていた。鬱蒼とした木々に囲まれた風景が長く続き、私は助手席で小さな欠伸を零した。
「あ、欠伸」
と運転席の日奈が指摘した。私は思わず掌で包み込むようにして口元を隠した。
「ごめん。でも別に、退屈とかじゃなくて」
私は繕いの言葉を幾つか並べた。そうしながら、以前もそんなやりとりを交わしたことを思い出していた。徹夜で課題を仕上げた日の夜に、同じように日奈に突然、「星を見に行こう」と誘われたことがあった。私は疲労と眠気のピークを迎えていたが、(翌日は一限から必修の講義もあった)その日も了承したのだった。
あの時はどうして、了承したのだったか。日奈にどうしてもと頼みこまれたのだったか。それとも、何か特別な彗星か流星の見える日だったか。私はその理由が思い出せなかった。
「ねぇ、そういえばさぁ…」
と日奈に向かってそのことを尋ねかけた。それは何気ない疑問を、気に留めることも無く口にしようとしただけだった。私は深く考えてなどいなかった。日奈との距離感を、以前のように思い出し始めていたからこそ、取り戻し始めていたからこそ、その疑問は自然に口を衝いて出かけた。
喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、私は寸前の所でその言葉を飲み込んだ。喉の奥の方で焼けるような熱さを覚えた気がした。
「え、なに?」
日奈が質問の続きを促すように口を開いた。私は代用の言葉を懸命に探した。
「いや、ごめん。勘違いだった。何でもない」
私が答えると日奈は不思議そうな顔をした。しかし、特に追及されることも無かった。
「あと十分くらいでつくから。それまで寝ないでよ」
日奈が言うので、私は苦笑いを浮かべながら、大丈夫だと答えた。
山間の駐車場には私たち以外の車は停まっていなかった。そもそも、そこは何十台と車を止めれるような広さではなかった。
私は駐車場を軽く見渡して、目線を正面に戻した。フロントガラス越しでも一面の星空を一望することが出来た。
「ほら、早く降りて」
日奈はいつの間にかシートベルトを外していた。彼女が運転席側のドアを開けると、冷たい空気が車内に入り込んできた。
「うわ、寒い」
私は身を縮こまらせて、巻いていたマフラーに顔をうずめた。運転席から外に出た日奈は車の後ろの方を通って、ぐるりと一周回ってくると助手席のドアを開けた。
「ほら、早く」
日奈は私に向かって手を差し伸べた。私はその手を握り返すことを、どうしてか息苦しいと思ってしまった。
私はいつまで、こうしていればいいのだろうか。
現在の日奈に違和感を覚えながら、それに合わせ続ければいいのだろう。それを選んだのは紛れもなく私であるが。どうして、私一人が些細なやり取りにどうしようもない齟齬や疎外感を感じ続けなければならないのだろう。
どうすればいいのか。という問いの一つが、まるで目の前の星たちのように、無限に広がった。真っ黒なキャンバスの上に、ポツポツと小さな点が増えていく。しかし、私のそれは輝く星などではない。それとは対極にあるようなものだった。
「ねぇ、日奈」
私は差し出された日奈の手もそのままにして口を開いた。
「ん、何?」
日奈は手を差し出したままで答えた。
「日奈は、最近楽しい?」
「もちろん。楽しいよ」
「それは、どうして?」
「どうしてって言われても」
日奈は困ったような表情を浮かべた。少し考えてほしい、と私は言葉を付け加えて、日奈が口を開くのを待った。日奈は私に向かって差し伸べていた手を一度下ろして、その指先を細動させた。
「楽しい理由は色々あるよ。でも、一番は早紀がいてくれるからだと思う」
と、少し恥ずかしそうにしながら日奈が答えた。私は予測の大枠から外れなかった返答に辟易した。
日奈が記憶を失ってからというもの、私は日奈といて楽しかっただろうか。記憶を無くした日奈と再会してからというもの、彼女との時間に楽しいという感情を覚えたことがあっただろうか。笑うようなことはあっても、それは感情の赴くままにそうした形だっただろうか。私は日奈と、同じようにそれらを確かに共有出来ていただろうか。
眩暈がした。私の記憶のどこをどう漁っても、そんな自分はどこにもいなかった。
例えこのまま、二人がハリボテの友人関係を取り戻した所で、もはや私たちは同じ位置になど立ってはいないという事に、ようやく私は気づいたのだった。
私にとって、日奈との会話はまるでマインスイーパーのようだった。常に私の頭の中にあるのは不安や懸念で、いかに地雷を踏まないかという事をどこかで考えて無ければならなかった。そのせいで、会話はどこか作業的な行為に成り下がっていた。
日奈に触れるとき、私は危険物を扱うかのように慎重になった。ゼロ歳児の手を握るように、柔らかに彼女に触れる以外を選べなくなった。二度と失うまいと、絶えず恐怖を抱えながら、彼女と接さなくてはならなかった。
以前のように、思ったことを口にすることなど出来なかった。感情のままに言葉を吐くことなんてあってはならなかった。そうすることで、またいつ二人の関係が壊れてしまうか分からなかった。
記憶を失ったことで、日奈は記憶に囚われたと思っていた。けれどもどうだろうか。本当に記憶に囚われてしまったのは、私の方だったのだ。
日奈はこれからも新たな記憶を楽しみながら作り続ける。そうすることが出来る。彼女は実際にそうし続けるだろう。
けれども、私だけがそれを拒むのだ。その流れを受け入れることが出来ないのだ。私は一人で惨めに過去の記憶に縋り続ける。過去の記憶に束縛され続ける。
私は絶縁の日に二人で抱えたはずの重さを、二人の過去を、これからは一人で抱えていかなくてはならない。そこに日奈はいない。
どうして私にとって最も重く大切なものを共有すること無く、他に何かを共有できると言うのだろうか。考えてみれば、それは当然の事だった。どうして紛いモノの共有が私たちを結びつけることが出来るだろうか。
私の目の前にいるのは、記憶を失った日奈であって、私と絶縁をしなかった日奈ではない。私たちの絶縁による断絶も、日奈の記憶の喪失も、どちらも不変の事実なのだ。不可逆の過去なのだ。何があったとて、それを変える事など出来はしないのだ。
それに気が付いた瞬間に、私は理解した。恐らく、それを日奈が理解する日は来ないように思えた。
私は、なにも日奈と関係を修復したかったのではなかった。関係の修復はあくまで、行動の先に訪れうる結果に過ぎなかった。私が求めていたのは、もっと別のことだった。
私は謝りたかったのだ。彼女がそれを望んでいる如何に関わらず。私の意志で、私の満足のために、日奈に対して謝りたかったのだ。あの日の絶縁を、取り消したかったのだ。
そして叶うなら、謝って欲しかったのだ。日奈にも私と同じように。
そうしてようやく、長い時を経て、二人の復縁は果たされる。裏を返すと、その工程を無くして、正当な復縁は成立し得ない。
私は二人の絶縁について、その出来事について。私が悪かったことについて。日奈が悪かったことについて。その全部を大きなテーブルの上に並べて、誕生日ケーキの蝋燭の火みたく、二人でそれらを消していきたかったのだ。そして、そのうえで笑い合いたかったのだ。
なのに、私が謝りたい相手はもうどこにもいない。その言葉は届かない。私の言葉は行き先を失ってしまった。日奈は姿形だけを残して、何処かへと消え失せてしまった。目の前の日奈はその相手であり、その相手ではなかった。
それは上手く言葉にすることの叶わない認識だった。ただ、私の中には確かな認識だった。
「そっか。そうだったんだ」
気が付くと、私は泣いていた。いろんな感情が渦巻いて交錯していた。それらが胸中で錯綜して、それでも溢れ続けた。完全に何かの栓が完全に抜けてしまったのだと思った。今まではそれが蓋をしてくれていた。
しかし、もう押しとどめるものは何もなかった。私の中から、そうして溜まり切ったもの全てが一気に排出されていく。私はそれを止める術を知らず、どうすることも出来なかった。
日奈は困惑していた。突然目の前で泣き出した私に対して、何をすればいいのか分からないといった様子で、ただ慌てふためいていた。
私は目を伏せた。マフラーに顔ごとうずめるようにして、目を閉じて暗闇を作り出した。暗闇の中で奥歯を噛締めて、ただ涙が過ぎ去るのを待った。どのくらいそうしていなければならないのか見当もつかなかった。それを日奈がどのくらい待ってくれるのかという事も考えるべきだったが、その余裕もなかった。自身の制御で手一杯だった。私は眠る時ように息を細かく整えながら、感情の昂ぶりが収まるのを待った。
少しして、首の横を日奈の手が通っていくのが分かった。日奈の指先の冷たい感触が首筋を伝った。私は肩に手を回されていることを感じ取った。日奈が何をしているのか気になったが、それでも目を開くほどの誘因にはなり得なかった。
そして気が付いたら私は日奈に抱きしめられていた。
「何があったのかは分からないけど、こうする以外に出来ることも無いから」
日奈は声量を抑えて言った。その声は私の耳のすぐ横から聞こえてきた。小さな声がこそばゆく、私の耳をなぞるようだった。私はマフラーから顔を出して、彼女の胸のあたりに顔をうずめた。
頼りなさげに見えた彼女のデコルテは、意外にもあっさりと私を受け止めた。肉付きが薄くやけに骨ばっていて、心地は良くなかった。彼女の腕が、力強く私を包んだ。
「しばらくこうしておく?」
日奈の問いに、私は彼女の背中に回した腕の力を強めることで答えた。彼女を抱きしめていると、不思議と安心できた。それは人の温もりによる安心感に過ぎなかったかもしれない。
日奈は黙って私の頭を撫でてくれた。時折、背中をさすってくれた。一言も言葉をかけるようなことはしなかった。言葉では何も与えられないことを悟っていたのかもしれない。代わりにか、いつまでもずうっと抱きしめてくれていた。
「ごめんね」
と私は日奈の胸に向かって、彼女には聞こえない程に小さく呟いた。その言葉は私が意図した通りに、日奈の耳には届かなかったようだった。
私は涙が止まるとゆっくりと顔を上げて、日奈に向かって微笑んで見せた。それは純粋な部分の一切ない、完全な作り笑いだった。それでも、泣き顔よりは良い表情に思えた。
「もういいの?」
と日奈が聞いた。
「うん、ありがと」
私は答えて、小さく頭を下げた。
日奈は再び私に手を差し出した。それじゃあ、星を見ましょうと私を誘う手だった。
私はその手を強く握った。それじゃあ、星を見ようと答えたつもりだった。
手を引かれて、私は車の外に連れ出された。外は随分と寒かった。季節的な寒さと、夜という時間帯の寒さが混ざっていた。私は泣き腫らした目で星空を見上げた。まだ視界は霞んでいて、朧げにしか景色を捉えることが出来なかった。それでも、それが素晴らしい景色だという事くらいは分かった。
ただ、私は夜空に散らばった星屑の一つ一つの美しさを余すことなく記憶する事など出来なかった。それは私に限った話でなく、人間の記憶力としての限界である。写真のように鮮明に、それらを克明に完璧に記憶は出来ない。
私は星空を眺めながら、その距離を夢想した。骨ばった日奈のデコルテの感触を、撫でられた頭と背中の温もりを強く思い出していた。そしてそれらを、まるで日奈という存在を象る記憶であるかのように、空想の箱の中に大切にしまい込んだ。
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