再び日奈に会ったのは、彼女の退院から数日後だった。退院日が平日で顔を出せなかったという事もあって、私たちは小さなカフェで退院祝いをすることにしていた。

 待ち合わせの五分前に店を訪れると、既に日奈は到着していた。丸いテーブルを真ん中に挟んで、その対面に二つの椅子があった。日奈は奥の方の椅子に座っていた。

「退院おめでとう」

 私は開口一番にそう告げた。かつて、絶縁の前にはどんな温度感で会話をしていたのか、上手く思い出すことが出来ず、その感覚を掴みかねた。馴染みがあるようで馴染みが無い、そんな不思議な感覚に陥った。

「うん、ありがとう」

 日奈は笑顔で答えると、手のひらで対面の座席を指し示し、私に座るように促した。私は示された席に腰を下ろした。

 店内には聞き覚えのある昔の流行曲がオルゴールアレンジでかかっていた。日奈はその曲を鼻歌で口ずさみながらメニュー表を開いて、テーブルのちょうど真ん中あたりに置いた。

 私はコーヒーと季節のケーキセットを、日奈は紅茶とブルーベリータルトのセットを注文した。茶色のエプロンを着たボブヘアの店員は私たちの注文を聞き終えると、わざとらしく笑顔を作ってから、「ごゆっくりどうぞ」と言った。日奈は丁寧に微笑みを返した。

私は仏頂面を崩さぬまま、僅かばかり口角を上げて応えた。店員がテーブルを離れても、付近には微かに甘い香りが残っていた。

 一度黙り込んでしまうと沈黙が続きそうな気がしたので、私は半ば強引に口を開いた。

「それで、退院後の調子はどう?」

「もう、問題ないよ」

「頭の傷は?」

「痛みはない。流石に、傷跡は残るみたいだけど」

 そう言って日奈は額に巻かれた包帯を撫でた。私はその包帯が隠している縫合の跡を想像した。その糸が何かを繋ぎ留め、取り繕おうとしている様を思った。

「まだ、包帯は外せないの?」

「様子を見て、今週いっぱいはつけといたほうがいいって。お医者さんが」

 そうなの、と私は適当な相槌を打った。

実際、その包帯の有無に興味や関心があるわけでもなかった。会話が途切れなければ、天気の話をしていても良かった。

「それで、記憶の方は?」

 私が尋ねると、日奈は少しばかり考えこむ仕草を見せた。数十秒の間があいて、日奈が口を開いた。

「何と言うか、やっぱり変な感じかな。本当に人生のとある一部分がすっぽりと抜け落ちてしまったって感覚。本当、綺麗にその部分だけが足りないの。それって、本来なら崩れ落ちてもおかしくないようにも思えない? それなのに、ジェンガみたいに絶妙なバランスを保っているみたいな」

「何と言うか。そう言われても、想像がつかない」

 そう答えて、私は笑ってみせた。実際、彼女がどのくらい不安定な足場の上にいるのかというのは、想像するより他なかった。

「多分、実際になってみないと分からない感覚だと思う」

「お酒を飲んで、記憶をなくしてしまうような感覚とは違う?」

 私は否定されるとおもって、そんな疑問を口にした。しかし、当の日奈は割に真剣な顔つきになって、私の疑問を肯定した。

「感覚で言うと、一番近いかもしれない。記憶はないけれど、そこに記憶が存在していたことは薄ぼんやりと覚えているというか。何だろう、パズルの空白があって、そこに何らかのピースがあった事は分かるのに、そのピースがどんな形をしていて、どんな色だったかはどうにも思い出せないみたいな」

 日奈はこともなげに言った。薄ぼんやりと覚えているという言葉に、私は息を呑んだ。

一瞬、心臓を掴まれたような心地がした。背筋には冷や汗が流れた。実は、日奈は全てを覚えていて、ただ素知らぬふりをしているだけなのではないか。そんな妄想さえもが、私の頭を過った。

「ジェンガだったり、パズルだったり。なんだか、子供が遊んでるみたい」

「実際、腕白な子供と同じくらい厄介だよ」

 そう言うと日奈は笑顔を見せた。私はその笑顔を他所に、日奈の記憶が戻る可能性について考えていた。事故の折とはいえ、ふと消えてしまうことがあるならば、何かの折にふと思いだしてしまうこともあるのではないか。

私は全てを楽観的に受け止めて、考えようとしていたが、そう上手くいくばかりでもないのではないか。そんな不安が、私の肺の辺りを圧迫していた。

 どうして、記憶なんて曖昧なモノがこれからも消えたままであり続けてくれるなどと信じ切れるのだろうか。思い返せば、私にも忘れてしまった記憶の一つや二つはある。そして、何かの折にふとそれを思い出すこともある。どうして日奈はそうでないと言えるだろうか。

「忘れてること、思い出したいって気持ちはあるの?」

 私は率直に日奈に尋ねた。逆に堂々と振舞うことで、ある種の後ろめたさを隠蔽した。

「どうだろう。思い出したくないとまではいかないけど、絶対に思い出したいとも思えないかな。それがどんな記憶だったのか、見当もつかないし」

 日奈は回答に迷う様子も無く、割と呆気なく答えた。私には、それが適当な回答にも聞こえた。投げやりというか、どこか自身の記憶や存在をおざなりにしているように思えた。

「そんなもの?」

 私は日奈のその回答が気に召さなかった。もっと、日奈は記憶に執着しているのではないかという想像をしていた。そのどことない軽さが腑に落ちなかった。

「うん。例えば、大切なモノを無くしたって分かってるなら、全力で探すじゃん。でも、何かを無くしたかもって疑念だけじゃ、そこまで真剣にはなれないでしょ。大切なモノかも分からない、何を無くしたのかも分かってない。もしかしたら、なくしてなんてないのかもしれない。だったらどうかな。それは、案外どうでもいいモノか、くだらないモノかもしれないでしょ」

 日奈は長々と言った。

記憶が戻ることがあるかどうかは別として、本人にはその意志はない。日奈の言い分からはそう読み取ることが出来た。それは、私にとって都合の良い事のはずだった。日奈が思い出さないことは、私たちの復縁の必須条件だった。両手を掲げて、全身で喜びを表現する必要までは無いが、私は日奈の返答を喜ぶべきであった。

しかし、どうしてか私は日奈に身勝手さに感じた。思い出す必要は無いとはっきり言い切られてしまうことで、私一人が取り残されてしまったと感じた。

絶縁などと称して、無意味な記憶を保持し続ける自分が、あまりにも惨めで馬鹿らしく思えた。日奈の発言自体が、どうにも私を嘲笑っているようにさえ聞こえた。私の中にある、絶縁の痛みを保持していた間の苦い記憶がそうさせた。

「日奈は良いかもだけど、それって他の人はどうなのかな?」

 思わず、私は怒りを吐き出した。どうして自分が怒りの感情を抱えてしまっているのか。それを正しく捉えることが出来なかった。怒りではなく、抱えていた記憶が怒りへと変化してしまったのではないか。少し考えて、私はそう結論付けた。

ただ、既に言葉を吐きだしてしまっていては、どんな感情を理解しても後の祭りだった。

「そりゃ、私だって周りに迷惑かけてることくらい分かってるよ」

 日奈は少し声を沈ませて言った。不貞腐れたような声色だった。

「別に、迷惑なんて話はしてない」

 私は日奈を宥めるように言った。日奈は深呼吸をして、私によく聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。

「ねぇ、早紀。私はこう思うの。私が忘れてしまった記憶は、周りの人が覚えてくれてたらいいって。そしたらそれが、私の記憶になってくれる気がするから」

 日奈はその台詞を口にするとき、真っすぐと私の目を見た。彼女の言わんとする迷惑というのを、私にも背負って欲しいとでも言いたげに見えた。

 早紀の言葉が私にはこう聞こえていた。

(私が忘れてしまった記憶は、早紀が覚えているでしょ?)

 私はそんな歪んだ、ありもしない言葉を受け取った。変貌した言葉は原型をとどめてはいなかった。日奈の言葉を歪めたのは、紛れもない私自身だった。

「他人の記憶は、日奈の記憶じゃないでしょ」

「もちろん。でも、私はそれでもいいと思ってる」

 なおも、日奈はじっと私を見ていた。私も目を逸らせなかった。視線を釘付けされることで、視線に釘付けにされた、という心地だった。

「どうして?」

 私は思ったことをそのまま口にした。

どうして、自身の記憶を他人に委ねれるのか。それは自身の一部を他人に預けることに等しく思えた。なぜ、日奈がそんなことを言ってしまえるのか、私にはまるで分からなかった。彼女の口から正しい回答が欲しかった。

 しかし、私の期待を見透かして裏切るかのように、彼女は言った。

「それって、言わなければ分からないことかな?」

 そして彼女の浮かべた表情は、とても寂し気に見えた。日奈がそういう表情を人前に見せるのを、私は片手で足るほどしか見たことが無かった。

どうして日奈がそんな表情をしているのか分からなかった。なぜ、私はそんな表情をさせてしまったのか分からなかった。

「ごめん、変なこと聞いたね」

 私が言うと、慌てて日奈は表情を造り変えた。チャンネルを切り替えるみたいに、誰かがどこかでボタンを押したみたいに、簡単にそれは変化した。

 日菜はいつもの表情を浮かべて言った。

「なんてね。別に深い意味はないよ。実の所、私も良く分かってないだけ」

 その言葉が嘘だと見抜けたのは、彼女が嘘を吐く時の癖が昔から変わっていなかったからだった。日奈は嘘を吐く時、左手で左耳付近の髪を梳く癖がある。それは特別分かりやすい癖という訳でもない。だけれども、私はそれをよく覚えていた。そして、その仕草がはっきりと目についた。

 嘘だと指摘する気は起きなかった。仮にその嘘を明らかにしようとした所で、それを証明することも出来なければ、真実を引きずり出すことが出来るわけでもない。仮に真実を引きずり出した所で、それが私の望む形であるとも限らない。私が日奈を疑ったという事実だけが残るのみなのだ。

 もし真実が正しさを伴っていたとしても、それが常に最良であるとも限らない。その場合、真実を明らかにすることは、正しさを得るだろうか。

私はそれらをとても大切に考えた。そして、かつての日奈との絶縁も、そういった側面を抱えていたことを思い出した。(思い出したというよりは、私は常にそのことに無自覚であろうとしていた)

もう真実の解明などという事は、浅はかで無意味な行為に思えた。

「そっか。なんかごめん。私もよく分かってなくて」

 私はわざとらしく朗らかな声を出した。日奈がそうしたのを真似るように表情を作った。日奈が不安にならなくて済むように。彼女が望むのならば、その形に合わせればいい。仮に彼女の形が変化していようとも、今の彼女という形に、私が合わせれば済むのだ。その為なら、私は甘えた声でも涙声でもなんでも出す所存だった。

日奈は私を見て、少し強張った笑顔を見せた。

「あのさ。長い時間はかかるかもだけど、新しい記憶を作ろうよ。これからの記憶をさ。私が忘れてしまった分を、取り返す訳じゃないけどさ」

 そう言って、日奈は自分と私を交互に指さした。

「二人で?」

 私が聞くと、日奈は小さく頷いた。

「そう。確かに早紀の言う通り、私の記憶は私の記憶だし。早紀の記憶は早紀の記憶だよ。でもね、それが同じ記憶だったら、私はこの上なく嬉しい」

 そう言うと、日奈の笑顔から強張りが消えた。私はそれこそが唯一の真実だと思った。

翳りも虚勢もない、正しい笑顔だと思った。私はその表情を、ありのままの形で正しく記憶していたいと思った。

ただ、その日奈のはにかんだ表情を、私はどこか罪悪感を持って見つめざるを得なかった。私の中の記憶が、その正しさを誤りだと主張していた。それは、やはり私の眼前に存在していていいモノではないのだと、記憶が警鐘を鳴らした。私の中の絶縁の記憶が、それを否定していた。

「それは、もちろん。日奈がそれでいいなら」

 仄かな罪悪感を打ち消すかのように、私は口にした言葉を頭の中でリフレインさせた。繰り返している内に、徐々に罪悪感が薄れていくようにと願った。

 日奈がそれでいいのなら。

 それは相手を思いやる優しい言葉のようで、単なる他責思考の表れであった。

そこに、私の意思は無い。あなたが望むならという言葉の意味や意図は、自身の行為の重責を他者に押し付けているだけに過ぎなかった。

そんな自分自身の愚かさに嫌気がさした。唯一、日奈が笑ってくれていることだけが有難かった。私はそれを大義名分にすることが出来た。私が自分を嫌いになっても、それで日奈が笑顔でいれるのであればと思うことが、私の原動力になる。

けれど、その笑顔が私を救ってくれるかというのは、また別の話だった。

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