蘇峻の死

 建康に集結した諸將だが、即座に決戦には至らず、これに先立って郗鑒が溫嶠に示した「今賊謀欲挾天子東入會稽、宜先立營壘、屯據要害、既防其越逸、又斷賊糧運、然後靜鎮京口、清壁以待賊。賊攻城不拔、野無所掠、東道既斷、糧運自絕、不過百日、必自潰矣」という策に從って、「營壘」を築く。言わば持久策であり、陶侃傳では「當以歲月智計」と称されている。


 壘を築いたのは、建康(石頭城)周辺では「白石」であり、庾亮がこれを守っている。白石は『建康実錄』に「(白石陂)今在縣西北十二里、石頭城正北、白石壘即在陂東岸。」とあり、石頭城の北である。後に、蘇峻の「步兵(步騎)萬餘」が攻め来るが、庾亮が「激厲」して死戦し、撃退している。趙胤はこの白石壘に在ったと思われる。

 また、この頃、王舒・虞潭等の戦況が不利であったので、郗鑒が東方の丹徒(京口)に還り、大業・曲阿・庱亭の三壘を築いて、郭默が大業(壘)に入っている。なお、郗鑒等を東に配すべきという進言を為したのは、陶侃の下に投じ、その長史となった孔坦である。


 余談だが、孔坦傳には「驍將李閎・曹統・周光」に郭默と協力させたとあり、この「周光」は周撫の弟だろう。李閎は「(郗鑒)參軍」・「蘭陵太守」・「督護」などとあり、郗鑒麾下の將で、後に顧眾の下で庱亭(壘)を守った事が顧眾傳に見える。

 いま一人の曹統は別人の可能性が高いが、惠帝の女臨海公主に尚した「宗正曹統」であるかもしれない。この曹統は『藝文類聚』・『太平御覧』に引く『晉中興書』では「譙國曹統」とあり、魏の曹氏の裔である。但し、この頃、系譜不明の曹氏は散見するので、曹統もその一人であろう。或いは、「糹」が共通する郗鑒傳に見える「參軍曹納」と同一人、又は近親であるかと思われる。

 なお、王舒・虞潭は一時、節を返上しようとするが、陶侃は王舒を「監浙江東五郡軍事」、その子王允之を「督護吳郡・義興・晉陵三郡征討軍事」、虞潭を「監揚州浙江西軍事」として、東方の軍権を分掌させている。


 陶侃等が持久策を採った事で、各壘での攻防は行われるが、全体としては膠着する事になる。そうした中、六月に入り、宣城で抗戦を続けていた內史桓彝が韓晃に敗れ戦死する。

 「年五十三」とあるので、咸寧二年(276)生まれで、趙誘よりやや年少であろうか。因みに、桓彝は羊曼(274生)・溫嶠(288生)・庾亮(289生)・阮放(280頃生)と「同志友善」であったと云うが、羊曼と共に、溫嶠・庾亮とはやや年齢差がある。

 桓彝は趙胤との係わりは無いが、彼の子・孫等は後に東晉の政局に大いに係わる事になる。それは概ね趙胤の死後であるが、乱の渦中に太守(內史)として戦死するというのは、趙誘に通じるものがあり、その子等と趙胤は対比として興味深い。

 なお、桓彝の長子桓溫はこの時、十五であったが、後に父の死に関与した江播の子等に「復讎」し、「時人稱焉」となった事がその傳(卷九十八)に見える。復讐によって世に知られる様になるという点も趙胤と共通するが、韓晃でも、関与した江播でもなく、その子等に対して、というのはより凄絶である。

 また、同月壬辰(十五日)には、平北將軍・雍州刺史魏該が病を得て、歸還する途上で死去している。相次ぐ訃報に、征討軍の意気は、やや阻喪したと思われるが、蘇峻の側でも、建康外で事態が変動している。正確には、蘇峻と言うより、祖約であるが、後の趙胤にも関わってくるので見ておきたい。


 祖約は祖渙・許柳を蘇峻の援兵として送り出した後も、自身は壽春に留まっていたが、この壽春を後趙の石堪が攻めている。この時点では石堪は「淮上」に屯しており、「晉龍驤將軍王國以南郡叛降于堪」と、先に触れた王國が降っている。

 これは四月の「石勒攻宛、南陽太守王國叛、降於勒。」に当たり、石勒載記には「南陽都尉董幼叛、率襄陽之眾又降于堪。」ともあるので、石堪が屯した「淮上」は南陽・南郡東方の汝南周辺であったと思われる。

 なお、宛を攻めたとあるので、王國は南陽太守であり「南郡」は誤り、逆に襄陽は元来は南郡の一部であるから、董幼は「南陽都尉」ではなく、南郡都尉であったかもしれない。また、襄陽には魏該が入っていた筈であるので、董幼は彼の留守であったとも思われる。


 ともあれ、この後趙の軍事行動によって、祖約や、建康に在った魏該は北方から圧力を受ける事になる。或いは、魏該の死は、後方を気に病んでのものだったかもしれない。

 また、祖約を「潁川人」とされる陳光が攻め、祖約は垣を乗り踰えて遁れている。祖約を取り逃がした陳光は石勒に投じているが、この事件により、祖約の諸將は密かに石勒に通じ、内応を約したと云う。

 但し、桓宣傳(卷八十一)にはこの頃に、「邵陵人陳光率部落數百家降宣、宣皆慰撫之。」とあり、潁川郡には邵陵縣があるので、この両者は同一人物と見られる。後に、「廣陵相陳光」・「左衛將軍陳光」が見えるので、これも同一人であれば、陳光は桓宣に降った、或いは一時は石勒に投じたものの、歸参したのだろう。

 なお、桓宣は譙國銍の人で、同龍亢の人である桓彝とは別屬だが、遠祖を同じくする。祖逖の豫州平定に協力し、その功で譙國內史と為っている。祖逖の死後は、祖約が譙城を放棄し壽春に後退しようとする際、或いは蘇峻と結ぶ際などに祖約を諌めるも、聴きいれられず、離反している。


 この桓宣が溫嶠等の策源地である湓口(柴桑)を攻めんとする祖煥・桓撫等の攻撃を受け、初戦の功によって廬江太守と為っていた毛寶がこれを救援している。毛寶は更に軍を進め、六月に「合肥戍」を攻め落している。

 合肥は三國時代、魏の最前線であり、壽春と歷陽の中間に位置するので、祖約と蘇峻の連携を扼する事になっている。そして、孤立した祖約は七月に入り、石聰・石堪が淮水を渡り、壽春を攻めた為、遂に歷陽に奔る事になる。


 壽春まで後趙の勢力が及んだ事になるが、同月、石勒は石虎に關中を攻めさせるも敗れた為、逆に洛陽を包囲される事になる。從って、これ以上後趙の勢力が伸長する事は無いのだが、この時点ではそれを知る由もない。陶侃等に北方を慮る余裕があったかは兎も角、早急に内乱を収める必要は感じた筈である。

 それは蘇峻も同様であり、そして、祖約の敗退は彼にとって外援の損耗を意味する。祖約は蘇峻に糧秣を依存していたらしく、実際にどれほど依拠していたかは不明であるが、毛寶の功もそれを絶った事にある。

 基本的に豫州以外の州は陶侃を盟主として從っており、豫州の失陥により、蘇峻は対岸の歷陽を含む建康周辺に孤立する情勢となっている。從って、蘇峻としても、早急に情勢を打破する必要を感じていたと思われる。

 一方の陶侃も各地の戦況が不利な事や、糧食が乏しい事もあり、撤退も考えるが、溫嶠や毛寶の言により思い止まっている。


 そうした中、九月戊申(三日)、司徒王導が白石に来奔している。

 王導以下大臣等は石頭城の成帝に随っていたが、蘇峻の「心腹」とされる路永・匡術・賈寧等は祖約の敗報を聞き、大臣を悉く殺す事を蘇峻に進言する。王導に敬意を払っていた蘇峻はこれを納れなかったが、祖約の敗退が衝撃であった事が窺える。

 一方で、路永等は先行きに不安を感じ、蘇峻に対して貳心を抱く様になる。王導は參軍袁耽をして路永等を説き、成帝を奉じて脱出しようとするも果たせず、二子及び路永を随えて白石に投じている。


 王導の来奔は兎も角、路永の「歸順」は蘇峻陣営の崩壊を意味し、これを機にと言うには、やや期間が空くが、同月庚午(二十五日)、陶侃は石頭城を攻める。

 成帝紀には「陶侃使督護楊謙攻峻于石頭。、竟陵太守李陽距賊南偏。」とあるが、溫嶠傳では「侃督水軍向石頭、率精勇一萬。」、蘇峻傳では「率步兵萬人、。」とあるので、陶侃自らは水軍を督して、督護楊謙に石頭へ向かわせ、溫嶠・庾亮が白石から「精勇一萬」を率いて南、つまり、石頭城へ進軍している。

 趙胤も出撃しており、溫嶠傳の「(庾)亮」が蘇峻傳で「趙胤」と言い換えられている事からすれば、彼が実質的に庾亮の軍を率いていたのだろう。從来の庾亮との関係が活きている事が判る。

 対して、蘇峻は匡孝(匡術弟)と共に迎撃に出て、その子蘇碩と匡孝に数十騎を以て先行させ、趙胤に迫らせる。趙胤は脆くも敗れ、逃走するが、これが思わぬ事態を引き起こす事になる。


 趙胤の敗走を見た蘇峻は当時、將士を労って酒を振舞い、醉っていたと云うが、「孝能破賊、我更不如乎」と述べ、数騎のみを從えて突出するも、陣に侵入し得ず、騎首を廻らせた所に矛を投じられ落馬し、そのまま斬られている。

 乱の首魁の呆気ない死であるが、杜曾で触れた様に、その身は「斬首、臠割され、其の骨は焚かれ」たと云う。彼への怨嗟の激しさが窺える。

 なお、蘇峻に矛を投じて落馬させたのは「牙門彭世・李千等」とあり、追撃を受けていた趙胤の麾下とも思われるが、陶侃傳に「侃督護竟陵太守李陽部將彭世」とあり、「賊南偏」、つまり蘇峻等の後方を遮っていた李陽の麾下である。蘇峻の突出に從って、追走していたのだろう。


 蘇峻の司馬任讓等はその弟蘇逸を立て、蘇碩等と共に石頭城に籠城するが、大業や庱亭の壘を攻めていた諸將も撤退、或いは撃破され、大勢は決したと言える。しかし、成帝は蘇逸等の掌中に在り、なお暫し、乱が繼続する事になる。

 一軍の將とも言えない蘇峻の死は、醉いがあり、子等の勇戦に興が乗ったとは言え、無様としか言いようがない。これは、彼が王敦の如く、簒奪も視野に入れる様な英傑ではなく、単に風雲に乗じただけの匹夫に過ぎなかった証とも言える。

 結果的に蘇峻の死を導く事になった趙胤も、敗走の結果であれば誇れるようなものでもなく、思いがけない結果に憮然とする他なかったであろう。ただ、強いて言えば、彼が蘇峻の攻勢に絶えた事が、その死の契機となっており、これまでと似た経緯とは言える。

 一方で、相次いで係わる事になった王敦及び蘇峻の死は、彼に己の在り方を考えさせるものになったのではないか。殊に蘇峻は背景こそ異なるが、立場は趙胤と同種であり、この後の郭默の一件と共に、覆轍とすべきものと認識されたと想われる。


 ともあれ、石頭城の包囲が続く中、年は明け、咸和四年(329)を迎える事になる。

 なお、年末の十二月乙未(二十一日)には石勒が劉曜を洛陽に獲えており、北方の戦乱も終熄に向かいつつある。

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2024年12月27日 21:00
2025年1月8日 21:00
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悍將―趙胤と東晉の創基 灰人 @Hainto

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