会同

 蘇峻打倒には、廣陵の車騎將軍郗鑒と連携した、吳國內史庾冰(庾亮弟)、彼が會稽に奔った後、後任に任じられた蔡謨、吳興太守虞潭、會稽內史王舒、王導の命で持節權督東軍として丹楊の義軍を督した行征虜將軍張闓、及び振威將軍陶回、同じく郷里(吳)で義兵を挙げた前義興太守顧眾、及びその從弟の護軍參軍顧颺といった「三吳」とも称される揚州東部でのものがある。

 これに蘇峻は韓晃や「別率」とされる張健、管商・弘徽を以て対処させている。また、後に郗鑒は晉陵郡の曲阿縣北、大業里に壘を築き、これを郭默に守らせている。

 これ等の動きも、当然、重要なのだが、趙胤との係わりは少ないので、折に触れるのみとして、江州方面の動きを中心に見ていきたい。


 さて、尋陽に奔った庾亮や彼に随った趙胤等を受け入れたのは、同地に入っていた溫嶠である。溫嶠は素より庾亮を「欽重」しており、崇敬を改めず、彼を「都統」、盟主として難に当らんとする。

 だが、庾亮もそれを受ける程厚顔ではなく、辞して溫嶠を推している。結局、溫嶠の從弟溫充の「征西位重兵強、宜共推之」という言に從って、「征西」、乃ち荊州の征西大將軍陶侃を盟主とする事になる。

 だが、陶侃は自身が顧命に与らなかった事を恨んでおり、当初、溫嶠が王愆期等を遣って共に「國難」に赴くべきを説かせても、肯んじなかったと云う。溫嶠は陶侃無しで進む事も考えるが、參軍毛寶の「凡舉大事、當與天下共同、眾克在和、不聞有異。假令可疑、猶當外示不覺、況自作疑邪」という言を受け、再度説いた事で、陶侃も諒承する。

 ただ、尚も陶侃は督護龔登を遣るのみであり、溫嶠が更に書を遣り、世子陶瞻が殺された事などを挙げて説くと、妻龔氏の勸めもあって、漸く陶侃自ら出征したと云う。

 なお、『通鑑』には王愆期が「蘇峻、豺狼也、如得遂志、四海雖廣、公寧有容足之地乎」と説いた事で、陶侃は感悟し、「即戎服登舟」したとあるが、管見の限り、その出典は不明である。


 溫嶠の平南参軍である毛寶は先に少し触れたが、陶侃の杜弢征討末尾に「進克長沙、獲其將・高寶・梁堪而還。」と見える毛寶と同一人物かと思われる。

 毛寶傳に杜弢に係わる記述は見えないが、その冒頭は「毛寶字碩真、滎陽陽武人也。王敦以爲臨湘令。敦卒、爲溫嶠平南參軍。」と、司州の滎陽陽武を本貫とする毛寶が突如、王敦によって湘州長沙の臨湘令とされた事を記すのみで、その経緯が不明である。

 時期や地域を考慮すれば、この間に杜弢の將となり、陶侃に降り赦されて、王敦の下で臨湘令と為ったとするのは不当ではない。ただ、その場合も毛寶と杜弢の結び付きは不明となる。


 毛寶の年齢は不明だが、杜弢が平定された建興三年(315)、遅くとも、王敦が死した太寧二年(324)には成年であろうから、太康(280~289)末から元康(201~299)年間の生まれと推定される。

 概ね、趙胤と同年輩からやや年長となる。咸和三年(328)時点では凡そ三十代であろうか。彼は後に陶侃に「年少」と称されており、文字通りの「少年」という事ではなく、壯年以下という事と思われる。

 第四品である右衛將軍から、三品と推定される冠軍將軍に遷っている趙胤に比べ、毛寶は故臨湘令(六品?)の平南參軍(七品?)でしかない。他の軍号を有している可能性もあるが、同年輩以上であるにも拘らず、趙胤より遥かに格下である。尤も、杜弢に係わっていたならば、それも妥当と言うべきであろうか。

 また、彼は父祖の名が見えず、寒門であるか、少なくとも家系的な背景を有していないと思われる。「早孤貧」・「寒宦」とされる陶侃は三十代の頃、つまり、元康年間には武岡令(縣令:七品?)となった程度で、まともな官に就けていない。

 であれば、毛寶の地位は相応であり、趙胤に父の遺光があると言うべきだろうか。なお、武岡縣は地理志に見えないが、宋州郡志の湘州邵陵に「武剛」がある。ついでに言えば、王導が武岡侯に封じられている。


 余談だが、陶侃の督護龔登は「侃妻龔氏」の親族と思われるが、その関係は不明である。隱逸傳(卷九十四)に武陵漢壽の人、龔玄之の傳があり、その「父登、歷長沙相・散騎常侍」は彼の事と思われる。

 ついでに言えば、校勘記では「商榷:舊本作襲玄之。襲是僻姓、不學者妄改爲龔。斠注:水經沅水注有晉徵士漢壽襲玄之墓銘。水經注刊誤曰:宋本晉書作襲玄之。通志氏族略、晉有隱士襲玄之。」として、「龔」は「襲」の誤りとしているが、この龔登や、『宋書』宗室傳臨川王義慶(卷五十一)に「奉朝請武陵龔祈」が見える事からすれば、一概に誤りとは言えないのではないか。


 ともあれ、庾亮、溫嶠、陶侃が一堂に会し、東方の郗鑒等と共に、反攻の態勢は一先ず整ったと言える。これに先立ち、溫嶠は四方征鎮に布告を発しており、その文中に趙胤の名も見える。該当する、冒頭及び末尾を引用すれば以下の如くである。


 賊臣祖約・蘇峻同惡相濟、用生邪心。天奪其魄、死期將至。譴負天地、自絕人倫。寇不可縱、宜增軍討撲、輒屯次湓口。即日護軍庾亮至、宣太后詔、寇逼宮城、王旅撓敗、出告藩臣、謀寧社稷。西瞻〔。逆賊肆凶、陵蹈宗廟、火延宮掖、矢流太極、二御幽逼、宰相困迫、殘虐朝士、劫辱子女。承問悲惶、精魂飛散。嶠闇弱不武、不能徇難、哀恨自咎、五情摧隕、慚負先帝託寄之重、義在畢力、死而後已。今躬率所統、爲士卒先、催進諸軍、一時電擊。西陽太守鄧嶽・尋陽太守褚誕等連旗相繼、宣城內史桓彝已勒所屬屯濱江之要、乃心求征、軍已向路。

 (中略)

 群公征鎮、職在禦侮。征西陶公、國之耆德、忠肅義正、勳庸弘著。諸方鎮州郡咸齊斷金、同稟規略、以雪國恥、苟利社稷、死生以之。嶠雖怯劣、忝據一方、賴忠賢之規、文武之助、君子竭誠、小人盡力、高操之士被褐而從戎、負薪之徒匍匐而赴命、率其私僕、致其私杖、人士之誠、竹帛不能載也。豈嶠無德而致之哉?士稟義風、人感皇澤。、得有資憑、且悲且慶、若朝廷之不泯也。其各明率所統、無後事機。賞募之信、明如日月。有能斬約峻者、封五等侯、賞布萬匹。夫忠爲令德、爲仁由己、萬里一契、義不在言也。(溫嶠傳)


 庾亮に続いて、相次いで至った將領の一人として、「冠軍將軍趙胤」が見える。彼に続く、「奮武將軍龔保」は龔登、或いは、その近親かと思われるが不明である。また、これまでに名を挙げてきた人物のほかに、「征を求め、軍 已に路に向」かうという「江夏相周撫」も見えている。

 そして、「帝之元舅」たる「護軍庾公」、乃ち庾亮に率いられた「郭後軍・趙・龔三將」というのは、後將軍郭默・趙胤・龔保である。趙胤が庾亮麾下の將として認められていた証と言える。


 斯くして、陶侃・溫嶠等は建康に進軍し、五月丙午(二十九日)、石頭城に至る。『通鑑』ではこれを「丙辰」としているが、丙辰は閏五月の九日であり、何らかの混同があると思われる。

 溫嶠傳に依れば「戎卒六萬、旌旗七百餘里、鉦鼓之聲震於百里。」とされる錚々たる進軍であるが、石頭城自体には乙未(十八日)に蘇峻が入っている。この時、蘇峻は成帝を伴っており、倉屋を以て宮と為し、その強引な様に「宮中慟哭」すと云う。

 王導・荀崧・陸曄・褚翜・荀邃・華恒・丁潭・劉超・鍾雅等がこれに從い、殊に雨中を「步從」した劉超・鍾雅が成帝に親遇される様になる。対して、陶侃・溫嶠等は石頭城の周囲に布陣している。


 なお、この時、建康に参集した諸將の中には、征西大將軍・荊州刺史陶侃、平南將軍・江州刺史溫嶠、護軍將軍庾亮の他に、平北將軍・雍州刺史魏該も含まれており、車騎大將軍・兗州刺史・領徐州刺史の郗鑒も都督揚州八郡軍事に進められ、撫軍將軍王舒・輔國將軍虞潭等を節度下に置き、参会している。

 東晉の治下にある諸州では揚州や遠隔地の廣州・交州・寧州、祖約が刺史である豫州を除き、兗・徐州、江州、荊州、雍州の刺史が参会しており、梁州は不明だが、参じていないのは湘州刺史の卞敦のみである。

 卞敦は「擁兵不下、又不給軍糧。」であり、数百人を率いた督護荀璲を随わせたのみであったので、「朝野莫不怪歎」と云う。異心を疑われても仕方がない行為であり、後に陶侃によって「阻軍顧望、不赴國難、無大臣之節」と上奏され、王導によって宥赦されるも、結局、愧恥から憂死する事になる。

 事態を観望しようとした、という点では郗隆の末路に似る。変事を生じなかっただけ、卞敦はましであったと言うべきかも知れない。


 趙胤は当然、庾亮等と共に建康に至っている筈であるが、彼の名は暫しの間、見えなくなる。

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