建康失陥

 蘇峻の脅威が迫る中、年が明け、咸和三年(328)となる。「鍾雅・趙胤等次慈湖、王愆期・鄧嶽等次直瀆。」とあり、趙胤は鍾雅と共に慈湖に、王愆期・鄧嶽(鄧岳)が「直瀆」に駐留したと云う。


 「直瀆」は宋の周應合撰『景定建康志』(卷十九)に「直瀆、在城北隷、上元縣鍾山鄉、去城三十五里。」あり、王愆期等の事にも触れられている。從って、晉と宋の建康城の位置や里程に違いがあるとしても、概ね建康の北である。

 江州から蘇峻迎撃の為に下ったにしては、蕪湖・于湖を通過している事になり、やや奇妙であるが、建康警衛を優先したという事なのであろう。王愆期・鄧岳等が建康に在るという事は、趙胤等が文字通り前鋒であると言える。

 正月丁未(二十八日)、蘇峻は祖渙・許柳等「眾萬人」を率いて橫江から江を濟り、牛渚に上陸する。橫江は歷陽東方の渡河点であり、牛渚はその対岸である。牛渚には慈湖・蕪湖と並び戍(鎮営)があり、趙胤が後年、ここに鎮した事が『宋書』州郡志(以下、宋州郡志)に見える。慈湖に在った鍾雅・趙胤は蘇峻に正対する事になるが、鍾雅傳に「雅以兵少、不敢擊、退還。」とあるので、衆寡敵せず、撤退したようである。


 趙胤等の撤退を受けて、蘇峻は一気に建康を衝くべく進軍する。この時、再び司徒司馬陶回が庾亮に、「峻知石頭有重戍、不敢直下、必向小丹楊南道步來、宜伏兵要之、可一戰而擒」と進言するも納れられなかった事が、その傳(卷七十八)に見える。

 陶回の言の通り、蘇峻は小丹楊から秣陵を経て建康に向かうも、一時は道を失い、万全の進軍ではなかったから、伏兵を配しておけば、「一戰して擒とする」事も叶ったかもしれない。

 庾亮は深く悔やんだと云うが、度重なる判断の誤りは庾亮の執政としての素質をも疑わせるものであっただろう。その庾亮に將として任用され続けている趙胤も、確実な武功は無く、その起用の誤りを疑われたとも思われる。


 そして、二月庚戌(一日)、蘇峻は建康郊外の蔣山に至り、都督大桁東諸軍事・假節とされた領軍將軍卞壼が「六軍」を率いて迎撃に当たる。この「六軍」は卞壼傳では「郭默・趙胤等」とあり、鍾雅も参陣していた事が確認できる。残るは、おそらく直瀆に在った王愆期・鄧岳や、郗鑒が派した劉矩であろう。

 紀睦も含めれば、七名になるが、「軍」としては鍾雅が「監軍」であり、含まれないのかもしれない。或いは、「天子六軍」(『春秋左傳』など)とも云われる様に、官軍を示す慣用句であって、実数ではないのだろう。

 ともあれ、この「六軍」は蘇峻に敗れ、「死傷者以千數」という様で建康城内に退く。丙辰(七日)に至って、蘇峻は建康城を攻め、再び「王師」は大敗する。卞壼はその二子眕・盱と共に戦死し、他に丹楊尹羊曼、黃門侍郎周導、廬江太守陶瞻を始め、「死者數千人」に及ぶ。また、この時、放たれた火によって、「臺省及諸營寺署」が蕩盡している。

 羊曼は先に太山の徐龕征討で触れた羊鑒の一族で、羊祜の兄孫に当る。「任達穨縱、好飲酒」であるが、嘗て溫嶠・庾亮・阮放・桓彝と「同志友善」であったとその傳(卷四十九)にある。周導については不明だが、周顗等汝南周氏の一族であろうか。陶瞻は陶侃の世子であり、その妻は周訪の女であるから、周撫の姉妹の夫である。


 この日、臺城の南門である宣陽門を守る筈であった庾亮は「軍未及陣、士眾棄甲而走。」となり、為す術もなく、「遂攜其諸弟與郭默・趙胤奔尋陽」と、諸弟(庾懌・庾條・庾翼)、及び郭默・趙胤と共に遁走したとある。

 陣を整える間もなく、兵士が逃亡したのは、庾亮への衆望が失われていた故と言える。一方で、庾亮は尋陽に逃亡する際、乗船に乱兵が群がる中で、「不動容」たる様を見せて衆心を安んじている。將としての人望と、彼個人への信望は別であると言える。

 趙胤や郭默は逃走した「士眾」が彼等の麾下であったのか、或いは、庾亮の崩壊・逃走を見て、抗戦が無益であるとの判断から、追随したと考えられる。前者であれば、統率力の不足も疑われるが、諸々の判断の誤りから庾亮の下で盡力する、少なくとも、この時点の建康で奮闘する事を無意味と見做したのであろう。

 彼等が朝廷への「忠」を絶対とする様な為人でない事が窺われる。


 庾亮が逃亡する一方で、王導・陸曄・荀崧等は成帝に親侍している。褚翜傳には、王導が成帝を抱え、褚翜及び鍾雅・劉超が左右に侍立したとあり、荀崧傳には陸曄・荀崧も共に「御床」に登り、成帝を衛ったとある。

 蘇峻の兵が殿内に乱入するも、褚翜が「正立不動」にして叱呵すると、それ以上敢えて侵入する兵は無かったと云う。しかし、それも帝座の周辺のみで、賊兵により「突入太后後宮、左右侍人皆見掠奪。」となったとある。蘇峻傳には以下の如く、百官・百姓が苦しめられた事が記されている。


 遂陷宮城、縱兵大掠、侵逼六宮、窮凶極暴、殘酷無道。驅役百官、光祿勳王彬等皆被捶撻、逼令擔負登蔣山。裸剝士女、皆以壞席苫草自鄣、無草者坐地以土自覆、哀號之聲震動內外。時官有布二十萬匹、金銀五千斤、錢億萬、絹數萬匹、他物稱是、峻盡廢之。(蘇峻傳)


 これによって、「百姓號泣、響震都邑」となったと云い、その中で憂苦した皇太后庾氏は三月丙子に崩じている。庾亮は自ら引き起こした事態の中で、妹をも死なせた事になる。

 因みに、三月には丙子が無く、丙子は二月二十七日或いは四月二十八日となる。彼女は四月壬申(二十四日)に葬られているので、二月丙子と思われるが、三月丙戌(八日)・戊子(十日)・丙申(十八日)・庚子(二十二日)・丙午(二十八日)という可能性もある。何れにせよ、宮城の陥落から二ヶ月未満の内である。


 なお、乱戦の中で蕩盡した「臺省及諸營寺署」の中には、建初寺なる寺院があった事が、『金陵梵刹志』(明葛寅亮撰)・『南朝佛寺志』(清孫文川・陳作霖撰編)など多数の仏教関連資料に見える。これ等は大略同文であるので、編纂の古い梁の慧皎撰『高僧傳』を引用すると以下の如くである。


 至、焚會所建塔。復更修造。西、世不奉法傲慢三寶。入此寺、謂諸道人曰:久聞此塔屢放光明虛誕不經所未能信。若必自覩所不論耳。言竟塔即出五色光、照曜堂剎。誘肅然毛竪、由此信敬。於寺東更立小塔遠由大聖神感。近亦康會之力。故圖寫厥像傳之于今。孫綽為之贊曰:……(以下略)


 ここに「平西將軍趙誘」が登場し、「司空何充」が「復更修造」、塔を再建した建初寺で、「大聖神感」を体験した事に由り、信敬して寺東に小塔を建立したと云う。

 「晉成咸和中」(晉成帝の咸和年間)と云い、「蘇峻作亂」とあるので、咸和三年(328)であるが、趙誘は十年以上前に死去しており、間違いなく故人である。從って、この「平西將軍趙誘」は別人という事になる。

 但し、後に述べる様に、本傳には見えないが、趙胤は後年、平西將軍と為っている事が確認できる。また、「司空何充」はおいおい触れる事になるが、この時点では給事黃門侍郎であり、そもそも「司空」は追贈である。

 つまり、これは両者共に極官を以て称しているのであり、後年であるのは間違いないが、当時司空の何充、当時平西將軍の「趙誘」とは限らない。そして、晉代に平西將軍となった趙姓の人物は「漢」(趙)の趙染を除いて、趙胤のみであるから、この「平西將軍趙」某は趙胤と見て間違いない。

 從って、小塔を建立したのは趙胤であるのだが、何故か父の趙誘として伝わっている。或いは、趙胤が父の名を以て建立したのかもしれないが、建初寺で塔から「五色光」が出で、堂刹を照らしたのを見たのは趙胤だった筈で、奇妙な事である。

 ところで、塔が光明を放つのを実際に見なければ信じないというのは、趙胤の現実・即物的な一面を示していると言える。なお、何充はこの逸話では、趙胤との直接の係わりは無いが、後に見る様に、趙胤の起用に関与した可能性もある。


 二月丁巳(八日)、蘇峻は大赦し、自ら驃騎將軍・錄尚書事と為り、祖約を侍中・太尉・尚書令としている。他に許柳を丹楊尹、前將軍馬雄を左衛將軍、祖渙を驍騎將軍とした事が蘇峻傳に見え、蘇峻の功を称えた弋陽王羕を故の西陽王に戻し、太宰・錄尚書事に復している。

 「改易官司、置其親黨、朝廷政事一皆由之。」と云い、名目上は祖約及び西陽王羕を擁いているが、事実上自らが万機を総裁する体制と言える。

 無論、それが東晉の全土に受け入れられる筈もなく、尋陽の溫嶠や、その下に逃れた庾亮等を中心に反蘇峻の動きが起こり、趙胤もそれに参画する事になる。

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