御伽話についての備忘録
瀬乃 菊実
御伽話についての備忘録
僕が合流したとき、彼女は映画のスタッフロールを見るような目つきで、巨大なスクリーンよりさらに大きい水槽をじいっと眺めていた。
「遅くなって本当にすみません……。年間パスの期限、今月までだと思ったら先月までで、チケット売り場の列も長くて……」
「大丈夫、私も先週くらいにそれやっちゃったし」
彼女はふんわりと微笑んだ。長く黒い髪と臙脂色のワンピースが揺れる。その儚さからは、彼女が電車とバスで1時間かかるこの水族館に、毎週のように通うほどの猛者だなんてことは全く想像できない。
「何をそんなに熱心に眺めてたんですか? あそこにいるでかいサメとか?」
「ううん、ほら、左奥にサンゴがあるじゃん」
「え? あ、あれのことですか……?」
水槽の隅に、大きな魚の陰に隠れたサンゴがあった。目聡いなあ。
「でね、さっきまでそこのかげに小さな魚が隠れてたの」
「あ、もしかして今あそこにいる魚のことですか?」
「そうそう」
こうやって、物事の隅々まで、優しい眼で観察する彼女の姿勢が、僕はすごく好きだ。
その鋭い観察眼があるから、彼女は心温まる物語を書けるのだろう。そしてさらに、観察したものをそのまま書くなんてことはせずに、子どもたちをわくわくさせるようなファンタジーを織り交ぜる。そう、彼女は、葉月さんは根っからの絵本作家なのだ。
「そろそろ次のコーナーに行こう、湊くん」
水族館特有の淡い光でできた影が、葉月さんの表情を隠した。
「あれ、いつもみたいにじっくり見なくてもいいんですか? まだ10分くらいしか経っていませんが」
「うん、今日はいいかな」
葉月さんはいつも、一つの水槽を最低でも30分、長いと1時間半くらいかけて眺める。イワシのように群れている魚も一匹一匹ちゃんと見たくなってしまうから、と教えてもらった記憶がある。なぜ今日はいつもよりすぐに動いたのだろう。いやいつもが異常なだけかもしれないけど。
疑問は先へと進む葉月さんと、視界の端を流れていく水槽、そして魚を見て他のお客さんが交わしている言葉によってかき消されてしまった。
僕らの通う水族館は、入り口の近くにいきなり目玉となる大水槽があり、その次に世界各地の海にいる生物、続いて淡水魚、そしてなぜか最後の方にクラゲのコーナーがあるという作りだ。順路がわかりやすいのは魅力の一つだと思う。規模のわりに設備が充実しているし、もっと宣伝すればいいのに。
海の魚のコーナーの、ちょうど中間くらいまで見てから、僕はカバンに入れてきたスケッチブックの存在を思い出した。前に来た時忘れていて後悔したんだ。同じ失敗はしてたまるか。
人のいない、水槽の端の方に寄って、スケッチブックを取り出し空白のページを探す。
そして、ちょうど目の前にいた色鮮やかな熱帯魚を描いた。絵の具に白色を混ぜず、原色で塗ったような魚の色がちょっとまぶしい。魚が小さなひれをチロチロと動かしているのを見て、自然に口角が上がってしまった。
「やっぱり湊君の絵はきれいだね、水彩画だけじゃなくて、スケッチもうまいなんてすごいや」
だいたい描き終えたところで、さっきまで別行動だった葉月さんに声をかけられ、驚きのあまり間抜けな声が出てしまった。小さな男の子がこちらをじいっと見ていて、恥ずかしい。
「わわっ、いつからそこに? 確かあっちの混んでるあたりにいませんでしたっけ」
「ああ、あそこでやってたワークショップに参加してたんだ。今ちょうど終わったところで」
「あれ、前来たときそんなのありましたっけ」
「先週から始めたんだってさ。前は定員オーバーで参加できなかったから、つい」
彼女のフットワークの軽さにはびっくりだ。
「で、どんなワークショップだったんですか?」
「これがね、『深海魚の不思議な生態について学んでみよう』って」
「わあ、いかにも葉月さんの好きそうな……。この間絵本も書いてましたもんね、メンダコとデメニギスのやつ」
「……ああ、あのときはきれいで、なおかつかわいい挿絵を描いてくれてありがとうね。私は絵はからっきしだから……」
心なしか歯切れが悪かった気がする。疑念が確信に変わった。
――葉月さんは今日、何かで思い詰めている。言葉通り、絵で悩んでいるというわけではない気がする。でも悩みの原因は、十中八九、創作についてのことだ。
そうだとしても、葉月さんはどうして悩んでいるのだろう。僕の挿絵に不備があったとかだったら申し訳なさ過ぎる……。ほめてもらったけどお世辞だったり、とか? それとも物語作りで行き詰まっているとかだろうか。それとも他の人の作品と比べたり……は、無いな。葉月さんは他の人の作品を結構読むらしいけど、いい描写は嫉妬するんじゃなくて吸収しているイメージがあるし。実際比喩の方法とかそれで試してたし。
ぐちゃぐちゃの頭でそうこう考えているうちに、淡水魚コーナーにたどり着いた。
温暖な地域に住む魚が多いらしく、室内はじんわりと蒸し暑かった。秋だから良いけれど、夏にここをゆっくりと見ていると、絶対に水分不足になってしまう。
小さな子供を連れた家族と、カップルらしき男女が通り過ぎた。
水槽の近くを歩いていると、たまに魚と目が合う。ひときわ大きな魚と目が合ってしまい、なぜか気まずくなった。幸いにも向こうが目をそらしてくれて、にらめっこは終わった。
葉月さんは海水魚のコーナーが好きなようだが、僕は淡水魚のコーナーの方が好きだ。水槽に陸地が作ってあって、そこから手に乗りそうなサイズのカニが顔をのぞかせている。脚をせわしなく動かす姿がかわいかったから、思わずスケッチブックを取り出した。
「……そういえば、葉月さんが魚以外のお話を書いてるの、見たことないな」
未発表なだけかもしれないけれど、僕が挿絵を描いた物語は、エイにクマノミに、金魚と鯉、最近だとメンダコにデメニギス。だいたい主人公が魚で、たまにタコとかイカとかの軟体動物がいるくらい。舞台はすべて水辺だった。
じゃあ彼女の悩みは、思いつく限りの水辺の生物を書き尽くしてしまったこと、とかだろうか。でもさすがに彼女でも、この水族館中の200種類を超える生物をすべて書けるわけはないだろう。
見ると、先ほど通り過ぎたカップルが何やら話し込んでいた。そうだ、僕がどんなに考えたところで、あんなに世界を美しく見る人の、あんなに価値観の違うであろう葉月さんの考えを完璧に知ることなんてできるわけないじゃないか。
このコーナーを出たら葉月さんと話す。そう心に決めた。
目の前の水槽の小さな魚たちと、その隣の水槽で水草をしげしげと見つめる葉月さんを交互に見て、覚悟を固めた。
水族館の最後のコーナー、クラゲのコーナーにたどり着いたのは、僕が決意を固めてから30分以上後だった。
女子高生もおじいさんも、ミズクラゲのたくさん浮いている、大きな水槽に視線が釘付けだった。その光景がなんとなく怖くなり、僕は目を背けた。
「うわっ」
目を背けた方面には、先ほどのミズクラゲとはうってかわって少しおどろおどろしいアカクラゲの水槽があった。その前には葉月さんしかいない。葉月さんの赤茶色のワンピースが揺らめくのに合わせて、クラゲも傘をすぼめたり広げたりしていた。
「きれいだね、この子」
「そう……ですか? 僕はちょっと、なんというか……、申し訳ないのですが、ちょっと怖くて……」
「もしかして、湊君クラゲ苦手?」
「実はそうなんです」
そう。そしてこれが、僕が淡水魚コーナーに長いこと滞在する理由でもある。
いつもは葉月さんがクラゲコーナーにいる間、ずっと淡水魚コーナーでカニや小さい魚たちとにらめっこをしているが、今日はそういうわけにもいかないが。
一息ついて、さっき思いついた突発的な計画を実行する。
「でも、今日はこうします」
ほんのちょっと、意図的に間を空けてカバンから荷物を丁寧に取り出す。
大切な僕の武器。スケッチブックの紙をつなぎ合わせるリングが、薄ぼんやりとした水族館の照明に照らされてまるで月のように光る。
鉛筆を握り、一気に描き始める。クラゲの模様は血管のようだった。手元を見つめて、自分の青色の血管を見ておどろおどろしさを中和する。クラゲの触手は、絵を描くときの自分の腕のように自由に伸びてゆく。
5分ほどで一息に目の前のクラゲを描き終えることができた。
パチパチ、パチパチ……
「すごいね……いきなり描き始めたときはどうしたのかと思っちゃったけど」
葉月さんは僕だけに聞こえるように小さく拍手をしてくれた。
「あー……すみません。何も言わず描き始めてしまってましたね。でも話しかけてくれたって良かったんですよ」
「それは礼を欠きすぎ。だってさ、何かを伝えようとして描いてたでしょ今」
「語気が強い……。まあともかく、葉月さん」
できる限りの、限りなく不器用な準備をして、本題に入る。
「葉月さんは、このクラゲでどんな物語を書きますか」
葉月さんは、僕がこんな無茶振りをすることも想定していたかのように、うっすらと笑った。
「はあ……。えー……っと。
とある海に、ここからとっても遠い海に、たくさんのクラゲの住む町がありました。 その町のクラゲは、みんな自分たちの美しさをアピールすることに必死でした。
あるクラゲは、自分を極限まで水に近づけて透明になり、ほかのクラゲたちに尊敬されました。また、それとは別のクラゲは、自分の体をピカピカと光らせることで美しさを得ました。
さて、ここにそんなことには興味の無い一匹の変わり者のクラゲがいました……。そのクラゲは太い触手で、他のクラゲの美しさを描いた物語を作ることができるクラゲでした。
物語はクラゲたちの中でたちまち有名になりました。美しいクラゲを、別の視点から見ることができたからです。物語のモデルにしてほしいというクラゲが、毎日のように物書きのクラゲの元にやってきました。
それほど人気になった物書きのクラゲですが、物語を書けば書くほど、悩みが湧いてきました。『物語にすると、クラゲの特徴を書き切れない部分がある』『だからといってそのまま書いてもクラゲの美しさは表現できない』といったように、物語を書きつつもずっとモヤモヤと悩み続けていました。
そんなある日、クラゲの町に……、えっと何にしようかな……。そうだ。クラゲの町に、一匹のハマグリがやってきました。ハマグリは物語が好きでした。それも、ちょっと不思議で幻想的なファンタジーが大好きでした。物書きのクラゲの噂を聞いて、はるばるやってきたのです。
しかし、クラゲの元にたどり着いてみるとどうでしょう。クラゲはすっかりスランプになり、何も書いてはいませんでした。
『一体全体どうしたんですか』と、ハマグリは問います。
『現実をそのまま書くか、嘘を混ぜて綺麗にするかで悩んでいたんだ』
するとハマグリはこう言います。
『どうか、あなたの思う一番綺麗な物を書いてください。嘘でも現実でも、読者、というか僕はさほどきにしません』
クラゲはこれがきっかけで、再び筆を執ることができました。そしてその物語は、一層輝きを増し、より高く評価されるようにもなりましたとさ。おしまい」
15分足らずで、考え込むこともほぼ無く、葉月さんはこれほどの物語を口頭で作り上げてしまった。その姿はまるで、ゲームに出てくる旅の詩人や、道ばたでギター片手に歌うミュージシャンのようだった。お話を作っている間、彼女はワークショップの後とは打って変わって、柔らかく微笑んでいた。
「急にこんな無茶振りをしてすみません、葉月さん。でもちょっと元気みたいで良かったです。何かで悩んでいそうだったので。僕の予想、当たっていますか?」
「ばれてたか……。いや、ちょっとね。さっきのお話の物書きクラゲ君が私だと思ってほしい。お話のリアリティとファンタジーのバランスで少し、いや結構、かなり悩んでたんだ」
「メンダコとデメニギスの絵本の話振ったとき目そらしてたのってそれですか」
「うん、というか原因9割それ。お話としてはよく書けたんだけど、そもそも確かメンダコとデメニギスは生息地違ってて」
「でもすごく優しくて綺麗でしたよ? あの話。それにメンダコの仲間を探すデメニギス描くのめっちゃ楽しかったですし」
「そうだったの!? 私てっきりメンダコのほうが楽しく描いているんじゃないか、デメニギス描くのってすごく大変だったんじゃないかって思ってた。勝手に申し訳なさすら感じてた」
葉月さんはいつもは細い目をぱっちりと開けて驚いた。あそこまで驚いているのは見たことなかった。
「とりあえずスランプ脱したみたいで良かったです。よかったらさっきの話も絵本にしませんか?」
「え、覚えてないしもう一回は書けないよ」
「全文メモってたに決まってるじゃないですか」
つい、スケッチブックの1ページをみっちりと満たす量のメモをとってしまっていた。 メモを鉛筆でとったのは失敗だった。これではこすれて読めなくなってしまうかもしれない。
「びっくりしたよ……。でもメモありがとう。帰ったらちょっと推敲するから、文完成したら絵のほうよろしくね」
とかいいつつ、さっきのメンダコの絵を描いたときの話に比べればそこまで驚いていなかった。普通逆だと思うんだけどな。
さっきミズクラゲの周りにいた他のお客さんはほぼ帰ってしまったようだ。まるで1対1のフラッシュモブのような奇妙な創作をしている間に、クラゲコーナーの客は入れ替わっていた。人数がほぼ変わっていないことが、このコーナーの、特に目玉となるミズクラゲの人気を物語っている。
「葉月さんすみません、ちょっとミズクラゲと、なんといったか……。そうだ、オワンクラゲでしたっけ? 絵本に書くので、ちょっとスケッチしてきます。待っててくれますか?」
「もちろん、いつもは私が待ってもらってるし」
スケッチブックの残りページを確認する。残り5ページ弱。ぎりぎりこのコーナーのクラゲをすべて描けるか描けないかの瀬戸際だ。
頼んだぜ、相棒。あと少しだから描ききらせてくれよ。
いつもは絶対に浮かんでこないであろう、演劇じみた台詞が浮かぶほど、気分も浮かれていた。
水族館を歩き終わって、併設されているカフェとミュージアムショップにたどり着いた。
「この水族館にもお世話になってるし、たまにはグッズ買おうか。今日はなんか気分もいいし」
「いいですね、僕はちょっと文具売り場見てきます。どこで合流しましょう」
「……別行動前提? 今日はちょっと一緒に回りたかったんだけど、いいかな?」
水族館の展示を見て回るとき別行動だったため、うっかりそうしようとしてしまった。
「すみません、さっきまで別行動だったので。一緒にショッピングしましょうか。どこから行きます?」
「さっき湊君文具コーナー行こうとしてたでしょ。そこから行こうよ」
「ああ、すみません、ありがとうございます……」
文具コーナーには、いろいろな海洋生物の描かれたボールペンや、サワガニの描かれたメモパッド、さっき見たクラゲをモチーフにしたしおりなど、いろいろな物があった。
とりあえず、なんとなくほしくなったのでしおりを買い物かごに入れる。
葉月さんはシャープペンシルを一本買っていた。
「あ、そのしおりどこの棚にあった? あとスケッチブックも売ってたよ」
「シャープペンシルの右の棚です。ちょうど目くらいの高さの段にありました。あとスケッチブックどこにありました?」
「それなら一冊取ってきてあるよ」
ちょうどさっきページを使い切ったところだったためありがたかった。ちなみに、クラゲは全種類制覇できた。半年分のクラゲを描いた気がする。もっとも、さっき葉月さんが語ってくれたお話を絵本にするとき、これ以上に、そして今度は水彩絵の具を使ってカラーイラストとして描く必要があるけど。描くのが少し楽しみだ。
「あとお菓子コーナーと雑貨コーナーがあるけど……、お菓子、いる? クッキーとかマシュマロとか売ってたけど」
「葉月さんがいらないなら僕はいらないです。ああいうの、いつも食べきれなくて残ってしまうので」
というわけで、お菓子コーナーをスルーし、雑貨コーナーへ向かう。
「大量のストラップだね」
「はい、淡水魚コーナーのちっちゃい魚もいてちょっと嬉しかったです」
「ちっちゃい……ああ、ハゼのことかな?」
「そんな名前なんですね。生き物のことはからっきしで」
「うふふ」
ストラップもかごに入れてレジに向かった。見ると、窓からはもう夕日が差し込んでいた。
水族館の最寄り駅で葉月さんと別れ、今日あったことを整理する。
葉月さんの悩みの原因になっていた、ファンタジーとリアリティについても考えた。
僕は目に見える物しか描けない。想像で絵を描くのは苦手だ。ファンタジーなんて一生かかっても生み出せそうにない。でも、葉月さんの描く綺麗な水中を絵にしようとすると、自然と幻想的になるのが不思議だ。
そういえば、葉月さんのお話でクラゲに助言をしたのは、なぜハマグリだったのだろうか。柔らかそうなクラゲと、固い殻を持つハマグリの対比だったのだろうか。
悩みを解決する助けにはなれたかもしれないが、僕はまだ葉月さんのことを何も知らないな。
浮かんでは消えていく考え事が、泡のようだと思った。
海水魚のコーナーも、淡水魚のコーナーも、クラゲもお土産も、僕にとっては思い出だが、葉月さんにとっては幻想の源なのだろう。これからも葉月さんのファンタジーを借りられたら幸せだな。
いつも通る道も、少しだけ葉月さんの描く空想の世界のフィルターが乗っているように見えた。
ファンタジーは、物語は、そしてそれに触れる喜びは、そこら中にあるのかもしれない。スケッチブックの表面を風がなでた。
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