永久に






 入口で案内役の里長に見送られ、ひとりの少年が神洞に足を踏み入れた。


 まだ頬に柔らかさを残す年若いその少年は、淡く光る洞窟を進む。狭い道を抜けた先には広い空間が空いており、最奥にはまるで測ったかのように真円の大きな泉があった。


(この泉だ)


 泉は不思議なくらいぴったりに、縁までなみなみと水を湛えている。少年はひとり頷いて、履物を脱ぎ泉の縁に揃えた。


(これが、御神水を汲んだ神の泉……)


 帝の居所の一角には、御山に向かって建てられた拝殿がある。拝殿には初代帝が泉から持ち帰った御神水が祀られていた。数百年の時を経て尚、蒸発することなく水器を満たす神の水が。


(ここに来るまで、三年余もかかってしまいました、父上……)


 少年は瑞鶴の息子だった。大御神の巫覡としてお認めいただくために、今日この泉を訪れたのだ。


 瑞鶴が非業の死を遂げて、国の中枢は大混乱に陥った。急遽、まだ年の足らぬ者まで含め帝の候補者たちが一族から掻き集められ、皆で一心不乱に御神水に向かい祈りを捧げ続けてきたのだ。御神水に立ち昇る黄金の光を見た者が、神洞を訪れる資格を得た者だった。


 寝食を忘れる程に、鬼気迫る勢いで祈り続けた。――三年余。ようやく御神水に光を見たのが、候補者の中で一番年若い、この少年だった。


 泉の水は波紋を描くこともなく、ただ静に満ちている。少年は静かに泉に足を踏み入れ、足首程の深さの泉を歩いた。少し進んだ先には円形の台座がある。少年はそこに座し、両手を付き深く頭を垂れ神に祈る。泉が、淡く黄金の光を宿した。


「神の在座ます鳥居とりい伊礼いれ此身このみより日月の宮と安らげくす」


『ああ、来たね』


 祈りに応じた大御神の柔らかな声が少年の耳に届く。少年はますます頭を下げて、お言葉を待った。


『名はなんというんだい?』


「白菊丸と申します」


『幼名だ。随分と幼い』


「お認めいただけぬでしょうか」


『いいや、よく頑張ってくれたね。そなたを我が覡と認めよう』


「有難く、存じます……ッ」


 少年は、白菊丸は目に涙を溜めて、大御神の御前で流したものかと必死に堪える。そのまま御前を辞すものとばかり思っていたが、白菊丸にとって予想外なことに、大御神は白菊丸に話しかけた。


『さて、そなたに頼みがあるのだが、聞いてくれるかい?』


「は、はい。仰せつかまつります」


 驚きながら返事をした白菊丸だったが、しかし大御神が語られた話は、尚いっそう白菊丸に衝撃を与える父の死と飢饉にまつわる真実だった。




 どこか呆然としたまま、白菊丸は御前を辞して神洞を後にする。長い時間がかかったというのに、洞の入口には里長が伏したまま、白菊丸の帰りを待っていた。


「そなた……」


 白菊丸は、なんと話したものかと逡巡する。帝としては、大御神から賜ったお言葉は一度持ち帰り、体制への不満に繋がる点はないか中枢で話し合った上で慎重に外に出さなければいけない情報だと理解している。しかし。


「……面を上げなさい。そなたに大切な話がある」


 帝となるべく育てられた我らこそが担うべきだった責を負って下さった御方に報いねば、と白菊丸は拳を握る。この者には、大御神より賜った言伝を全て正確に伝えねばならぬのだ。白菊丸はそう一人で決断を下し、語り始めた。


 曰く、人の悪しき欲望により怨念が生まれ、大御神に仇なしたこと。神々が深き眠りにつき、そのため此度の飢饉が起こったこと。滅びの危機に際し、ひとりの少女が上天を訪れたこと。


 その少女が神々に祈りと供物を捧げ、神々に目覚めをもたらしたこと。遂には自身も人々から捧げられた祈りを受け取り新しき神として目覚め、神々と力を合わせ怨念に打ち勝ったこと。そして、大御神の妻にと請われ夫婦となったこと。


 今後は大御神のみならず、妻である女神と共に、夫婦神として祀るよう仰せつかまつったこと。


 里長は身体を震わせて、じっと白菊丸の話に聞き入っていた。白菊丸の言葉が途切れると、里長は堪らず白菊丸に問いかける。


「その、その少女の名を、ご存知でいらっしゃいますか」


「八重様、と」


「ああ、あああ……ッ」


 地に伏せ、滂沱の涙を流す里長に、白菊丸は言葉を続ける。


「八重様より、そなたにお言葉を賜っている」


 里長は、聞き漏らすものかと歯を食いしばり嗚咽を堪える。息を潜め、身を縮めて続く言葉を待った。


「『ありがとう、皆が祈ってくれたから、守れたよ』と」


(八重、八重…………ッ)


 里長はそのまま声すら上げられずに、地に額を擦り付けて涙を流す。


 白菊丸は、里長が泣くのを黙って見守り続けた。代わりに払わせた犠牲を、しかと目に焼き付けるかのように。


 里長は、なんとか気を取り直して無礼を詫び、白菊丸を先導して山を下りる。


 里の皆に教えてやらねば。そして帝の御一行より頂いた振る舞い酒を全て開けて、空が白むまで祝い続けよう。天からも見えるように大きな篝火を焚いて、八重の話を皆でするのだ。


 時折天を仰ぎ御山を下る里長により、里にその吉報がもたらされるのは、もう、すぐのこと――――




§




「…………届いたでしょうか」


 御座所から、八重は外を眺めた。視界には美しい町並みと朱塗りの鳥居、そしてその先の雲海が広がっている。


「ああ、きっと」


 白陽がそっと八重に手を差し出す。八重は柔らかく微笑んで、白陽の手に手を重ねた。


 高座に並んで座り、八重と白陽は雲海を眺める。手と手を取り合ってこうして永久とわに見守っていこう、と穏やかな微笑みを浮かべながら。





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上天の巫女は愛を奉じる 紬夏乃 @nachuno0_0

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