帰りたい場所






(私が――)


 八重は空に昇る瑞鶴を見送りながら、微かに手を震わせた。瑞鶴が八重に伝えたかったことはそうではないと分かりながらも、八重には今聞かされた過去が重く伸し掛かった。


(私が生まれた、ばっかりに……)


 怨念は八重が生まれたことを切っ掛けに生じたのだ。上天の眠りも、あの飢饉も。ならば八重は、その責任を取らねばならないのではないか。人の世に戻る方法があるかはわからない。でも、そうすれば人の世を守ることが出来るのだから、他の何を捨てても、責任を。


(――――帝に)


「八重」


 震える手を握りしめ抱え込む八重に、白陽は柔らかく声をかける。


「八重、そなたに責などひとつもない。責を担うべきは私なのだから」


 白陽の声に、八重は痛いものをこらえるような、切ない眼差しを向ける。白陽は、全てを背負うべきは主神である自分だ、と諭すように頷いた。


「そなたのお陰で私は目覚めることができた。だからもう、八重は何一つ背負わなくていいんだよ」


 重い荷を背負わせてしまったね、と白陽は目の前の小さく細い肩を痛ましく思いながら八重を労う。


「瑞鶴も、八重に責を負わせたくて言ったわけではない。あの子はただ、この上なく八重を讃えたかったんだよ」


 帝となるべく生きて、帝として神に仕えることこそ最上の誉だとしてきた男だから。日陰者にするしかなかった妹の功績に、日の下でこの上ない栄誉をとそう思っただけなのだ。


 瑞鶴が八重の幸せを願ってくれていたことは痛い程伝わっていた。彼の心を歪めてはならない、と、八重は握った両手を抱え込みながら何度も何度も頷いた。


 白陽は懸命に頷く八重を慈しみにあふれた目で見つめ、優しく語りかける。


「しかしそなたが望むなら、今ならそなたを、人として望む処へ帰してやれる」


 八重の持つ神力を全て白陽に納めれば。八重に宿った神の力と権能を源に、捧げられた想いが呼ぶ先へ。今をおいて他にない奇跡が起こったのだ。神として存在が定着しきっていない今ならばそれが叶う。


 八重は顔を上げ、目を見開いて白陽を見つめた。望む処がどこを指しているのか、言われずとも分かる。


(――――里に)


 言葉を失い、食い入るように白陽を見つめ続ける八重に向けて、白陽は己の望みを声にした。


「でもね八重、叶うならば、永久とわに私の隣に居ておくれ」


 白陽は八重に手を差し伸べる。八重は泣き出しそうな顔つきで、白陽を見つめ強く手を握りしめる。


 ――――里に、帰りたかった。


 皆に会いたかった。無事を確かめ合って、爺様と婆様を抱きしめたかった。救えなかった命を、共に悼みたかった。人の世が救われた喜びを分かち合いたかった。子どもたちの頭に、約束通り花冠を被せてやりたかった。


 今度こそ雑炊の作り方を教えてとねだって、もう一度、ひとつの鍋を囲みたい。婆様の雑炊が、恋しかった。




 でも、と八重は唇をふるわせる。それを全て叶えた後で、八重が一日の終わりに何をしてきたかと話したい相手は。どちらか一方しか選べないのならば、今、八重が帰りたい場所は。『人の世を守り続ける』という願いを叶えたい処は。


 八重はゆっくりと手を伸ばし、差し伸べられた白陽の手に、震える手を重ねた。


「――ずっと、お側においてください」


 八重は白陽にそう告げて、はらはらと涙を零す。白陽は重ねられた手を握りしめ、愛に溶けた眼差しで八重を見つめた。


「八重、私の守り神。これからは夫婦神として、共に人の世を守っておくれ」


 夫婦、という思いがけない言葉に、八重は理解が追いつかず、涙を落としながら呆けたように口を開けた。巫女として永久にお仕えしようと思い手を取ったのだ。あんぐりと口を開けたまま白陽を見返せば、『愛しい』と雄弁に語る瞳に、真の心を告げられる。


「愛しているよ、八重」


「はい…………ッ」


 八重は顔を見る見るうちに紅潮させ、新たに温かな涙を零し続ける。白陽は八重をそっと抱き寄せ、腕の中に包み込む。八重は身を預け、赤く染まった頬を白陽の胸に押し当てた。






「…………ぐずっ」


 鼻をすする音が響いて、八重は飛び上がるくらい驚き後ろを振り返る。そこには円を描くように座したまま成り行きを見守る守護神たちが揃っている。八重は神々の前でなんということを、と更に顔を赤らめてうろたえた。


「ごめんね、ごめんねぇ、堪らえようとしたんだけど……」


 兎守うのかみは両目から大粒の涙を零し、落ちる涙を追いかけるようにうずくまって泣き始めた。


「よかった、よかっだよぉ゛…………ッ!」


 羊守ひつじのかみがそっと兎守うのかみに近付き、震える背中を撫でさする。兎守うのかみ羊守ひつじのかみに飛びついて、胸に縋りながらわんわんと泣き声を上げた。


「おめでとうございます、巫女殿」


 羊守ひつじのかみ兎守うのかみを抱きとめながら、八重を祝福する。


「……ああ、もう『巫女殿』ではありませんね」


「奥方様であるな!」


 馬守うまのかみ羊守ひつじのかみに同意し頷いた後、嬉しそうな声音でそう言い出す。牛守うしのかみは呵々と笑って大声を上げた。


「まさか白陽様が奥方様を娶られるとはなァ」


「目出度い! ほんに目出度いことだの!」


「祝い酒が必要じゃ」


 足を崩し気怠げにしながら、鶏守とりのかみが、猿守さるのかみが、蛇守みのかみが口々に八重を祝う。


「どれ、祝いに虹をかけようか」


「ははは、そんな力が残っているか? おめでとう、奥方様」


「お前なら認めんことはない」


 龍守たつのかみが、犬守いぬのかみが、猪守いのかみが思い思いの祝福を口にする。皆、笑顔を浮かべて夫婦神の誕生を祝していた。


「やれやれ、それにしたって疲れたねぇ」


「…………疲れた」


 鼠守ねのかみが腰を擦りながら立ち上がる。虎守とらのかみは心底同意するように、足を投げ出して天を仰ぐ。


「さあさあ皆、家の者に無事を知らせてやらないとねぇ」


 鼠守ねのかみはぱんぱんと手を打ち鳴らしてにっこり微笑む。皆はそれを合図に緩慢に立ち上がり、手を上げて笑いながら、各々帰ろうと動き始める。


 帰ろう、家で待つ者に、勝利と夫婦神の誕生を伝えるのだ。皆で揃って盛大に祝うために。




 白陽と八重は共に歩き、階段を上った。並んで玄関にまわって、白陽が扉に手をかける。


 変わらぬ明日が来ると信じて待つふたりの下へ吉報を届けようと、白陽と八重は顔を見合わせて微笑んだ。


「戻ったよ」


「ただいま帰りました!」


 春の季節を目前に、上天はこの上ない喜びに溢れていた。





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