過去【後】
――――連座。
先帝に縋り付いたまま、兄が畳に血を広げる様を呆然と眺める桜花の脳裏によぎったのは、連座という言葉だった。
兄の蛮行を確かにこの目に収めた。帝を害そうと酒瓶を手にして、爛々とした眼に宿らせたあの明確な殺意。――ならばこの毒も、おそらく兄の仕業だったのだ。
(何故、何故……)
理由など理解出来る訳がなかった。昔から欲の強い人だと思ってはいたが、まさか、まさかこのような。
涙を零す余裕さえない。桜花は先帝の衣を強く握りしめた。
「……ふぇっぇああ! ふえぁああぁ!!」
(ああ、泣き出してしまった)
ぐっすりと眠っていたから、座布団に寝かせておいたのに。愛しい方との間に出来た、何よりも大切な、大切な我が子。
(あの子の、家長は)
桜花は先帝と婚姻関係を結んだ訳ではない。娘は私生児として生まれたのだ。先ほど先帝の庶子として認められたばかりの――桜花の子だ。先帝はもういない。そして桜花の家長である兄こそが、先帝を弑し、帝を弑逆せんとした大逆人。
――連座だ。愛する娘を巻き添えにして。
桜花が生きている限り。
幸い、といったものか。娘を隠していたために人払いがなされて、今この場に生きている者は桜花と、帝と、帝の側仕え、それから赤子の娘しかいない。桜花は覚悟にぎらついた眼で帝を見据えた。
「……わたくしは神に誓って、このような蛮行の計画など存じ上げませんでした」
「貴様、この期に及んで命乞いか!!」
帝の側仕えが怒声を上げる。桜花はそれに構うことなく血走った目で帝を見つめ続ける。
母親の桜花が死ねば、娘の親はいなくなる。家長の兄は既に死んだ。桜花の父も祖父も、すでに鬼籍に入っている。だから兄が家長となったのだ。事が公になる前に、娘唯一の縁者を帝とすれば。桜花が今ここで命を払えば、桜花の娘ではなく、親を亡くした妹であれば、隠して貰えるかもしれない。共に投獄されては助からない。娘だけは。娘の命だけはなんとしても。
「あの子は先帝の、富嶽様のお子にございます! 何も知らぬ、言葉も禄に喋れぬ赤子です!! どうか、どうかあの子の命だけは、御慈悲を!!」
桜花はそう叫ぶなり兄の亡骸に駆け寄って、首から懐剣を抜き取り一息に己の首を貫いた。帝の慈悲に全てを賭けて。
静まり返った宴席に、血の溢れる音だけが聞こえる。晴れがましいはずの席は、血に塗れていた。
帝は床を殴りつけ、桜花の娘を、腹違いの妹を再び隠すと心に決めた。父の死を、惨劇を嘆く暇もない。娘の命を救う可能性のために、即座に下した桜花の覚悟を目に焼き付けたのだから。
「…………この子を隠せ」
「しかし」
「早く!!」
帝は側仕えに指示を出し、歯を食いしばって立ち上がった。親を亡くしたことも分からず泣き続ける妹、
――その足元で、染みのようなものが蠢いた。
それはこの惨劇を生み出した男が残した怨念。『己こそが上に立つのだ』と妄執した我欲の塊。
そのまま染みと化して消える程度の怨念だった。しかし怨念は、大量に流れる血を啜り、身近にあった女の魂を喰らい、女に寄り添おうとした男の魂に喰らいついた。
先帝の御魂だ。長年大御神の巫覡として勤め上げ、仙に近付く程に高められた力ある御魂。怨念はそれを丸々喰らい尽くして、近くにあった次に力の強い者の影に取り憑いた。御魂から得た力を繭のように固め、何者にも気付かれぬように。
帝はそうと知らず怨念を宿らせ続けた。神聖な結界は効かぬ。帝の影と、繭が怨念を守った。怨念は帝に寄せられる人の欲を啜り、帝を密かに蝕み続ける。
そして惨劇から十四年後、繭が孵り怨念は産声を上げた。帝の命を食い荒らして。
§
「そのようなことが……」
白陽は沈鬱な面持ちで、低く声を落とした。憐憫の眼差しで瑞鶴を見つめ、詫びる。
「気付いてやれなかったことを、許しておくれ」
『勿体ないお言葉に御座います』
瑞鶴は深く頭を垂れ、ゆっくりと身を起こして八重に顔を向けた。
『私は一番信頼する者にそなたを預け、神洞の里に隠すよう命じた。……父母がいないことで、辛い目に合ったりはしなかったかい?』
「いいえ、いいえ。私はあの里で、とても幸せに暮らしておりました」
必死に頭を振る八重に、瑞鶴は『それは良かった』と安堵の息を吐く。神洞の里が選ばれたのは、二度と八重が利用されないよう守るためだった。里の存在を知る者は少ない。信心深く規律を重んじるあの里でならば、血筋を隠した
『代替わりで、里に暮らすそなたを一目見ることを楽しみにしていたのに』
二度と会えぬよりは、一目だけでも、という願いもそこには込められていた。自由に動けぬ身なれども、里であれば代替わりで必ず訪れる機会がある筈だったから。
瑞鶴はゆるりと頭を振る。もう、言っても詮無いことだ。それに八重の姿は確かに今見ることが出来た。こうして会話を交わすことも。その頼もしい成長を、直に感じた。
『八重、そなたは誰より大御神の巫覡に相応しい』
瑞鶴は八重を見つめて、淡く微笑んだように見えた。
『どうか帝となって、人の世を導いてやっておくれ』
そう言い残し、瑞鶴を形作っていた光は溶け、風に攫われてゆく。煌めく黄金の粒子が、空へと昇っていった。
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