過去【前】
――その男は、人より特に我欲の強い男だった。
男は名家の跡取りとして生まれた。生まれた時より周囲から跡取り様とちやほや持て囃され、甘やかされて育った。祖父と父が立て続けに失態を晒し没落するまでは。
いくら年月が経とうとも、幼き頃の裕福な暮らしが忘れられなかった。吾はあのようにあるべきなのに、何故そうならぬのだ、と祖父を、父を恨み、栄達する者を妬んだ。
妹の桜花は折角美しく生まれたというのに、嫁にやる金も伝手もなく行き遅れた。当の本人は裕福だった頃の記憶など碌にないらしく、古ぼけた着物を纏い平気な顔で自ら動き働こうとする。あれではまるで端女ではないか、と男はつばを吐いた。
男に転機が訪れたのは、その桜花が切っ掛けだった。
帝の譲位により、御代替わりが起こった。男は只、華やかな行事や式典を歯噛みし妬みながら伝え聞くばかりだったが、退位し居所を移される先帝の下に、桜花を仕女としてねじ込むことが出来たのだ。
男は桜花に、誰でも良いから少しでも位の高い男を籠絡してこい、と高慢に申し付け、ほくそ笑みながら桜花を送り出した。
――桜花がまさか、先帝と恋に落ちて子を成すなど想像もせずに。
内々に、とそれを聞かされた時、男は「でかした!」と高笑いを上げた。先帝の妻は譲位前から鬼籍に入っており、帝はまだ子を持っていない。帝の兄弟は既に他家に入っていた。
――今ならば。
男の胸に仄暗い野心が芽生える。今ならば、帝さえ亡き者としてしまえば、次の帝は桜花の子なのではないか、と。
ならば吾は帝の伯父じゃ! と男は狂ったように笑った。鬱屈した男の我欲が、肥大した権力欲が、心の底から沸き起こる。帝など神に仕えるなどと眉唾物のことをいうだけの飾り物。吾がのし上がり、ゆくゆくは吾がこの世を手にするのだ、と笑い続けた。
男は中央から弾かれ、何も知らなかったのだ。帝がどう選定されるかも、どう暮らしているのかも、真に何を担っているのかさえ。
桜花の妊娠はごく一部の者以外には伏せられていた。桜花は先帝の御所に隠されながら秘密裏に娘を産み、先帝と共にその子を慈しんだ。二人は不自由ながら、娘を囲んで蜜月のように幸せな時間を過ごす。桜花にとって、唯一で最後の幸せな時間を。
娘は珠のような子に育って、一歳になる頃にようやく先帝の娘として認められることが決まる。まずは内々に両家の家長を揃えて子を認める席を設け、その後で細々と存在を公にしていこう、と。
間に合った、と男は哄笑した。時間はかかったが、帝にはまだ子がいなかった。この機会をおいて他にない。帝と会う機会などそうそう作れたものではないが、両家の家長とは、男と、帝だった。
――男は認定の席で、帝の毒殺を目論んだ。
準備を取り仕切ってやろうと乗り込み騒ぎを起こして、人の目を欺き毒の入った酒瓶を紛れ込ませた。何を恐れることがあろうものか。吾は帝の伯父じゃ、と押し込められた控えの間で下卑た笑みを浮かべた。
娘は恙無く先帝の子と認められ、認定の席には膳と酒が運び込まれた。
(あの瓶じゃ)
男はぎらついた目で酒瓶を見つめる。一等美しく立派な瓶。この日の為に無理をして手に入れた。あれは一番身分の高い帝にこそ振る舞われるべき品物だ。男は口を歪めながら、その時を今か今かと待ち構えた。
しかし、帝は酒に手をつけなかった。それどころか、膳を前に箸を持つことすらしない。――男は知らなかったのだ。帝は定められた時、場所、食物以外において、飲食の一切を禁忌とされていることを。
「帝様は酒をお呑みにならないのですか」
男は酒瓶にちらちらと視線を送りながら堪らず口を開く。何と答えたものかと逡巡する帝に助け舟を出したのは先帝だった。
「遠慮せず大いに呑めば良い。酌み交わすなら儂としようではないか」
先帝は男の視線の先にある酒瓶に気付いた。桜花から、実家は困窮していると聞き及んでいる。成る程、身分の高い者に遠慮して、呑みたいのに高い酒に手がつけられないでいるのだろう、と考えて、先帝はその酒瓶に手を伸ばす。
「これは見事な酒瓶だ。さぞ名のある良い酒が入っているのだろう」
先帝は御役目から離れ、自由を得ていた。可愛い娘をようよう表に出してやれると浮き立ってもいた。先帝は男が手を付けやすいように、と、手酌で酒器に酒を注ぐ。
どうしよう、どうしたものか、と混乱し、額に汗を滲ませる男の眼前で、先帝が酒を一息に呷った。
「……グゥウ、ガア、ゴァアア!!」
酒を呷るなり顔色を悪くし、手を震わせ、胸を擦っていた先帝が、ついに呻き声を上げ喉を掻き毟り、腹の中身をぶち撒ける。のたうつように手足を激しく痙攣させ、暴れ回る。
当たり前だ。あの酒瓶にはこれでもかと言う程たっぷり毒を――
「父上!!」
「富嶽様ッ!?」
帝と桜花が慌てふためき手を伸ばした先で、先帝はか細く震えひゅうと喉を鳴らして動きを止めた。
「…………く、糞があ!!」
男は恐怖と怒りに我を忘れ腰を上げた。人の死に様に飲まれたのだ。帝を、帝を殺す筈だったのに。吾が世を手にする筈なのに。これでは殺し損ではないか! 男は咄嗟に酒瓶に手を伸ばす。殴り殺せばいい。こうなってしまったからにはいっそ赤子を除いてこの場にいる全員を殺し、そして賊が逃げたと叫――――
それが男の考えた最後の念だった。
男が酒瓶を振りかぶろうとした瞬間、帝の隣に控えていた側仕えが即座に懐剣を投げ男の首を貫く。
男はゴボゴボと血泡を吹きながら倒れ、畳に血を広げた。
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