終の章 春

白陽/災厄の目覚め






 空が白み始めた頃。


 八重は自室で身なりを整え、羽織に袖を通した。里の皆から貰った白装束、家守から貰った緋色の袴、羊守ひつじのかみから貰った梅文様の羽織。今日という日にとって、これ以上相応しい装いは無いと思えた。


 前を見据え、屋敷を後にする八重を、井守と家守が見送りに出る。


「八重殿、お気をつけて」


「我らはここで、無事のお帰りをお待ちしている」


「はい」


 八重は頷き、田へと歩き出した。




 田に牛守うしのかみの姿はない。守護神は皆、町で時が来るのを待っているのだ。狐守きつねのかみは神洞の泉を固めている。人の世の怨念が災厄に呼ばれ上天を侵さぬよう、寄ってきたものを討つために。大鹿守おおしかのかみは、変わらず山を守っている。


 稲架掛けしていた稲束を半分、小屋に運び込んで扉を閉める。背負子に稲穂を括り付け、何度も、何度も往復し、八重は白陽の前に稲穂を積み上げた。


「稲穂を、白陽様に奉納致します」


 八重は白陽の御前で額づく。白陽は静かな声で、八重にこたえた。


「ああ、受け取る」


 稲穂は光の渦となって掻き消える。白陽は全身に淡く光を湛え、言葉を続けた。


「さあ、八重。預けた力を」


「はい」


 八重は首にかけた紐を外し、勾玉まがたまを両手に掲げ持った。


「上天に御座す大御神白陽に、かしこみかしこみもうす。預かりし御力、お返しいたします。――どうか、お目覚めを」


 手の上の勾玉が震え、しゃん、しゃんと音が鳴る。それはまるで、神を呼ぶ神楽鈴すずの音。


 しゃあんと、一際大きな音を響かせて、勾玉は光り輝いた。光が収まった後にはすでに勾玉は八重の手の上になく、八重は、はっと顔を上げた。


 濡羽色の髪がさらりと垂れる。ゆっくりと身が起こされる。睫毛が微かに震えて、上下の瞼が、つ、と離れた。


 いつか八重が、何色をしているだろうかと想像したまなこが。――蒼天の瞳に虹の虹彩。白陽の視線が八重を貫く。唇が、開いた。




「八重、逃げなさい」




「……ッはい!」


 八重は身を翻し、町に向かって駆け出す。八重の背後で、白陽の影から赤黒い怨念が噴き上がった。




 八重の背中で、ふつり、と何かが途切れた気配がした。


(ああ……!)


 喪ってから初めて気付く。白陽が、巫覡の繋がりを切ったのだ。神と巫女の尊き絆は今まで確かに結ばれていたのに。八重は唇を噛んで階段に足をかけた。


 地の底が抜けたかのような轟音が鳴り響く。大地が震える。八重はふるい落とされそうになりながら、必死にすがりついて這うように階段を下りる。ナズナも八重の肩にしがみついて、身を震わせた。


 やっとの思いで階段を下り終えて、町を走った。町は静まり返り、守護神らの屋敷は固く扉が閉ざされていた。


 戦いの場は上空に移され、天からは雷鳴のように轟然たる音が鳴り響く。張り詰めた空気は震え、皮膚が粟立った。


 八重は今から、事が終わるまで町の中を逃げ隠れしなくてはならない。屋敷の中には隠れ込めないのだ。万が一八重が逃げ込んだ屋敷が灰と化してしまったら、八重の身に危険が及ぶために。


 そんな可能性は考えたくないなどと、甘えたことを言ってはならなかった。八重は閉ざされた扉にぐっと目を瞑り、ひとまず距離を取らなければ、と走り続ける。


 大通りの中央に差し掛かった。そこには守護神の姿が揃っている。白陽の御座所に向かって円を描くように座し、白陽に向けて護りの力を送っているのだ。


 目を凝らさずとも見える。守護神らからは、白く煌めく神力が太く立ち昇っていた。


 その光景に圧倒され、思わず歩を緩めた八重の肩からナズナが飛び出す。


〈やえさま、かくれよ――〉


「ナズナちゃん!!」


 ついと前に飛んで八重を先導しようとしたナズナから色が失われ灰と化す。慌てて伸ばした八重の手の上で、灰が舞った。必死に握り込んで留めようとしても、灰はさらさらと指の間を抜けて風に溶けてゆく。


「ナズナちゃん、そんな……!!」


 灰を追って思わず振り返った八重の視線の先で、山は白く輝き光を立ち昇らせて――山裾から、灰に侵されてゆく。


 死んでしまったわけではない、と八重は涙を堪えて歯を食いしばった。眠りについただけだ。必死に自分に言い聞かせようと、走ろうとした八重の耳に、苦しげな呻き声が届いた。


 円の中で、猪守いのかみが苦しげに胸を押さえくずおれる。神力はか細く揺らめいて途切れ途切れに、もう、存在を保つことで限界なのだ。猪守いのかみだけではない。鼠守ねのかみが、虎守とらのかみが、馬守うまのかみが、神力を細く霞ませてゆく。兎守うのかみが、羊守ひつじのかみが、鶏守とりのかみが。


 八重の身から、神々の御加護が全て剥がされていく。八重は血が滲むほど強く拳を握りしめた。どれ程我が身の無力が悔しくても、憤ろしくても、八重は逃げなければならない。


 もし、もし守護神が再び眠りについてしまっても、もし上天が再び灰と化してしまっても――その可能性については既に言い聞かされていた。そのために、八重は必ず無事でいなければならないのだ。目覚めを届ける備えとして。


 人の世を、上天を、皆を守るためなら、八重は何度でも、何度でも、何度だって神を信じて歌を歌い米を作る。目覚めを届ける。けれど。


(ああ、でもそれでは)


 ――人の世は、恐らくもう保たない。


(守りたい……!)


 人の世を、里の皆を。八重は震える足に拳を叩き付けた。それでも八重は、希望に縋って逃げなくてはならないのだから。


(私にもっと力があれば、守る力が……!!)


 八重は心の底から守る力を乞い願う。


(皆を守る力が――)


 踏み出した八重の足元から、黄金の光が溢れた。





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