秋の章 二巡

変化の刻






〈――ま〉


 水に漬けていた種籾を、苗箱に蒔いているときだった。ふいに、幼子の声が聞こえたのだ。八重は何だろうと思い、辺りを見回した。


〈やえさま〉


〈おこめ、いっぱい?〉


〈いっぱいする?〉


 見回しても、近くにいるのはくるくると舞って花を散らすナズナだけだ。八重はもしかしたら、と思い口元に手を当てた。


「ナズナちゃん……?」


〈きける?〉


 おずおずと囁く八重に、ナズナは舞うのをぴたりとやめて不思議そうに傾く。


〈やえさまきける?〉


〈ナズナ、きける?〉


「まあ……! なんて可愛らしいの!!」


 八重は興奮に頬を赤らめて、ナズナに両手を差し出した。ナズナは八重の手の上でうれしそうに跳ね、花を散らす。


〈やえさま、きける!〉


「うん、聞こえるよナズナちゃん。かわいい声が、聞こえる!」


 八重とナズナは喜び合って、はしゃいだ声をあげた。暫くの間、きける、聞こえると意味なく繰り返し、笑い声を上げる。


 騒がしさに気付いた牛守うしのかみが下の畑から上がってきて、喜んで話すふたりに事情を察し「よかったな」と微笑む。八重は「はい」と答え、満面の笑みを浮かべた。


 ナズナととりとめのない言葉を交わしながら、苗箱に種籾を蒔く。〈なえなえ〉〈おおきくなーれ〉と言いながらくるくると舞い花を零すナズナがあまりに可愛くて、八重は思わず手を伸ばしてナズナを撫でた。こんなに愛らしく声に出し、豊作を願って舞われては、どれだけ苗箱に花を撒かれても一層叱ることが出来なくなった、と八重は笑みこぼれる。


「たくさんたくさん、実りますように」


〈たくさん!〉


 八重とナズナは、晴れやかな笑声を上げながら苗箱に種籾を蒔き続けた。




 夕暮れ時に、仕事を終えて屋敷に帰る。八重は玄関の扉を開けるなり弾んだ声を上げた。


「ナズナちゃんの声が聞こえるようになったのです!」


「八重殿、醤油と米味噌が出来たぞ!」


 開いた扉に振り返った家守も、同時に浮き立った声を上げた。八重と家守はぽかんと見つめ合って、互いの報告に喜んだ。


「まあ、それは嬉しいことですねえ」


「おお、それは喜ばしい!」


 弾んだ声は土間に同時に響く。あまりに声が揃ったものだから、互いに言葉に詰まって、また顔を見合わせた。


「なんだなんだ、どうなさった」


 くすくすと笑いながら、井守が土間に顔を出す。


「八重殿がナズナの声を聞けるようになったのだ」


「醤油と米味噌が出来たとお聞きしたのです」


〈やえさま、おはなし、ねー〉


 口々にかけられる言葉に、井守は高らかに笑う。


「今日は良い事が一度に起こったのだな」


「ええ、本当に」


 八重も思わずくすくすと笑う。家守は面映ゆそうに笑って頭を掻き、気を取り直して白陽の膳を持って来た。


 膳には、白飯と鮎の甘露煮、三つ並んだ小鉢には大根と人参のなます、胡瓜の醤油もろみ和えに蕪の白煮。それから椀物に焼き茄子と茗荷の味噌汁が乗っている。


「まあ、美味しそうですねえ。それになんとも良い香りがします」


 八重は膳を受け取り、華やいだ声を上げた。家守は嬉しそうに笑って大きく頷く。


「調味料も材料も揃ってきたのだ。八重殿のお陰だ」


「では、美味しく食べられるのは井守さんと家守さんのお陰さまですね。働きがいを感じられて、なんともありがたく思います」


 整う膳に、皆で顔を合わせて微笑み合う。冷めないうちに、と話を切り上げ、八重は白陽のもとに膳を運ぶ。空になった膳を下げて、八重は自分の膳の前に座って手を合わせた。


 炭火でじっくりと焼き上げた後に醤油や砂糖で煮詰めた鮎は、飴色に照りつやつやと光っている。頭から骨まで柔らかく、鮎の香味に甘辛い味付け、醤油の風味がなんとも食欲をそそった。付け合わせの小鉢は口をさっぱりとさせて、一層箸が進む。椀物に口をつければ、焼き茄子はとろりと甘く、茗荷のしゃくとした歯ごたえに爽やかな香りが味噌の旨味を引き立てる。そこに白飯を口に入れれば、いくらでも食べられそうに思えた。


〈やえさま、おいしい?〉


「うん、とっても美味しい」


〈おいしい、ねー!〉


〈おいしい、ふしぎねえ!〉


 ナズナは、美味しいとはどんなものだろう、と考えるように、はしゃぎながらくるくると回る。ナズナは野の精だから物は食べられないが、一緒に美味しいものを楽しむことが出来るといいのに、と八重はナズナを見つめ柔らかく微笑んだ。


〈ふしぎねえ!〉


「ふふ、そうだね、ナズナちゃん」


 毎日、八重の近くでこんなにも感情豊かに話しかけてくれていたのか、と、八重は嬉しくなって箸を置き、ナズナを手に乗せて優しく撫でる。ナズナはくすぐったそうに八重の手の上で身を震わせた。


〈おいしい、いっぱい、ねー!〉


「そうだね、ナズナちゃん。たくさん実ったものねえ」


 膳は一層豊かに、白陽の眷族も全て目覚めた。八重は手の上で楽しそうに転がるナズナを柔らかく撫でる。


 ――田植えが終わって、忙しさに一段落つけば。


 大切な話をしよう、と、八重は白陽から、そう告げられていた。





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