巫覡






「八重」


 つい先日、田植えを終えた。日が高く昇った頃、八重は御座所で白陽と向かい合い座していた。


「はい」


 八重は真剣な面持ちで白陽を見つめる。白陽は心を固めるように少しの間沈黙し、言葉をつむぎ始めた。


「人の世の成り立ちから話すことになる。長い話になるが、聞いてくれるかい?」


「はい、お聞かせ願います」


 八重は手をつき深々と頭を垂れた。白陽は、うん、と頷き、語り始める。永い永い、人の世の歴史を――




§




 それは、白陽に自我が芽生えたときだった。白陽はひとり、上天で目覚めた。自然豊かで神気に満ち溢れた、この上天に。


 不思議と、自らに連なる下界があると理解していた。あれは守護すべき私の世だ、と。自我に目覚める前から、遥か永い時を揺蕩いながら育んできたのだと、朧気に記憶していた。


 下界はまだ未熟で、しかし人は人の輪を築きつつあった。人々は自然を畏れ、尊び、敬い、祈りを捧げる。ああ、この祈りの積み重ねが、己に自他を分けさせたのか、と白陽は大気に溶ける祈りを集め、下界を見守り続けた。


 白陽にとって、下界にあるものは、自然も、獣たちも、皆稚く愛らしいものだった。特に自我を芽生えさせた人の子は一層可愛く思えて、白陽は下界に『人の世』と呼び名を付け慈しんだ。


 人の子はたくさんのものを築き、悩み、惑い、天に祈りを捧げる。白陽はその祈りを受けて、眷族を生み出した。自然を治める大鹿守おおしかのかみを、水を治める龍守たつのかみを――人の子の営みが複雑になる程に、守護神は増えていった。財福を司る虎守とらのかみが、恋愛成就を司る兎守うのかみが、祈願成就を司る馬守うまのかみが。


 しばらくのうちは、小さな屋敷を作り守護神らと共に暮らし人の世を見守っていた。そのうちに手狭となり、白陽は大きな屋敷と、世話役として井守と家守を生み出す。守護神らは自然と己の権能に類する役目を担おうと動き出した。白陽と同じく人の姿をとり、作物を育て、狩りをし、それぞれに暮らし始めた。上天に漂う小さな精らに名と役目を与え己の従者として、白陽の下を出て屋敷を構える。神々は町を築き、生活を営み、人の世と共に繁栄していった。


 人の子らはそのうちに、神を敬おうと社を築き、供物を捧げるようになる。心を込めて神像を彫り、それをよすがとして祈りを捧げる。物に宿った信仰心は、何故か強く下界の物に結びついて大気に溶けなかったが、節目節目に祈りと共に供物が焚き上げられれば、十分に信仰心が届く。問題は、何一つないと思えた。




 しかし、暮らしが豊かになる程に、人々は我欲に溺れ、争いが起こり始める。人の世は混乱し、自然に浄化しきれぬほどの怨念が溜まり始めた。白陽はそれを憂いて狐守きつねのかみを生み出す。災禍となる前に、怨念を打ち払うために。


 争いは時と共に激しさを増し、分断を生んだ。人々は驕り、畏れを忌み、祈ることを忘れていく。世を手中に収めんとした者は、太古から脈々と続いた信仰をくだらぬものとして社を焼き払う。終には『己こそが神そのものである』と名乗りを上げて、人々を束ね戦を繰り広げる者たちが現れた。信仰の先を歪められては、信仰心は白陽の下に届かない。神の加護は薄くなり、人の世は長く続く戦に摩耗し、豊かさと実りが失われていった。


 そんな時代に、一人の男が世を憂いて正しき神を求めた。男は『この世の一番高い処にゆけば神に祈りが届くはずだ』と考え、御山を登る。


 怨念渦巻く樹海を抜けて、道なき山を登る。己の考えを愚直に信じ、神よ、神よと祈りながら、男はただひたすらに足を進めた。


 それは、奇跡だっただろうか、それとも男の祈りが上天への道を手繰り寄せたのだろうか。水も食料も尽き、死の淵を見た男の前に、淡く光る洞が現れた。男は神変に導かれるように、岩の光る洞へと足を踏み入れた。


 洞の最奥には、真円を描く泉があった。泉の底に顔を打ち付けかねない勢いで、男は泉の水を飲む。その水は、空腹と疲れを癒す、まさに神水だった。男は涙を流して神に感謝の祈りを捧げた。


 ――その祈りは白陽に伝わる。泉は、上天と人の世を結ぶ臍の緒の名残りのようなものだった。白陽は、泉でならば人の子に己の声が伝わるかもしれない、と男に声をかけてみた。人の子よ、そなたは私に祈るのか、と。


 果たして、その声は男に届いた。男は滂沱の涙を流して白陽に詫び、縋る。正しき神はやはりいらっしゃったのだ、愚かな我らをどうかお見捨てにならないでください、と。人の世の有り様を憂いていた白陽は、男に巫覡の役目を与え、人を導くよう諭した。男は、必ずや、と白陽に誓い、使命を帯びて山を下っていった。


 男は山の麓から、疲れ果て嘆く人々に教えを説いていった。男と共に神に祈れば、天から光が差し、乾いた大地には慈雨が降る。神と巫覡の繋がりが、男の声を白陽に届けるのだ。民衆は『この方こそが正しき神の御使いだ』と信じ、団結していった。


 その勢いはとどまる所を知らず、広がってゆく。幾多の苦難を乗り越え、戦に打ち勝ち、敵であったものを平らげて、人の世をひとつに纏め上げた。男は人々の上に立ち、信仰が忘れられぬよう印として社を築き、神事を執り行い世を泰平へと導いた。


 代替わりの際は、一族のうちから一番神に仕えるに相応しい者を選出し、神洞の泉を訪れて神に祈り巫覡の御役目を継いでいく。人の世は、永く永く安寧の時を過ごしていった。




「私が起きてさえいれば、大気に溶けた信仰心は届いたんだ。だが、祈ることを忘れぬよう、祈る先を歪め争わぬよう、人の子らを纏め導く者が必要だった」


 そして力の殆どを失っている今は、信仰心を自ら受け取ることもままならない。八重が上天に来たのは、そんな時だった。


「――だからね、八重。私の巫覡は代々、人の世を治める帝であったんだよ」





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