夏の影
夕暮れに、きゃあ、と、甲高い子どもたちの声が響く。蝉の声が聞こえる。又三は畑から顔をあげて、畦道を眺めた。
子どもたちがはしゃぎ駆け回るこの夏の光景を、今年になって久方ぶりに見ることができた。又三は、ああ、と吐息のような声を漏らし平穏を噛みしめる。去年は、まだ食うのに必死で、駆け回って遊ぶ程の元気も余裕もなくて。すい、と横を飛ぶ蜻蛉を目で追って、又三は汗を拭った。
「あんた」
畦道から妻のてるが又三を呼ぶ。少しずつ膨らむ腹に、ふたりの子を宿して。
「てる」
又三はてるに駆け寄った。体を支えるように肩に手を添えて、心配そうにてるを見やる。
「迎えに来なくたって、家で待ってりゃあいいのに」
「歩くくらいしないと、かえって体に悪いよ」
くすくすと笑うてるに眉を下げて、又三はてるの腹をそっと撫でた。喪ったものは多いが、時間が経って、こうして新しく芽生えたものもある。
「名前は何にしようなあ」
「気が早いねえ、男か女かもわからないっていうのにさ」
「両方考えときゃいいじゃねえか」
手を重ねて、新しい生命を愛おしむ眼差しで腹を見つめる。てるは優しい声音でそっと呟いた。
「……この子が無事に産まれたら、八重ちゃんの御石にお礼を言いに行こうねえ」
「うん、そうだなあ。本当にそうだ」
きっと忘れることはない。生きている限り、ずっとずっと忘れない。この子にもきっと語り継いでいくのだろう、と又三は腹を一撫でして、てるの手を握った。
「帰るか」
「うん」
さっきまで走っていた子どもたちも、いつの間にか家へと姿を消していた。夕日に長く伸びる影を連れて、又三はてると並んで家に向かって歩き出した。
§
白陽は、じっと八重の歌に耳を傾けていた。
人が捧げた祈りは神に届く。眼前で、己の巫女が捧げた想いはより鮮明に。白陽は、偽りようのない、朗然たる愛を日々受け取り続けていた。見返りを求めない、ただ捧げるばかりの愛を。
元より白陽は、八重を可愛いと思っていた。健気でひたむきな、白陽の巫女。人の世を救いたいと、そればかりを一心に願い続ける様が気掛かりで、生来の明るさを取り戻してからは愛らしくて。日々交わす言葉は心地良く、そして。
神としてではなく『白陽』個へと向けられる清廉な愛に、白陽は灯火が灯されたかのように、初めて、心の中に温かな想いを宿した。日々明るさを増してゆく、無二の光を。
すぐに赤く染まる頬が、熟れ落ちてしまわないように両手で包み込みたいと思う。そっと引き寄せて、掌中の珠として腕の中に隠し込んでしまいたい、と――愛を、返したい、と。
だが、と白陽は己の影に意識を向ける。今それを叶えることは出来ない。白陽が未だ動けぬその元凶。己と共に眠りにつくものの脈動を影の内に感じ取る。
(八重に、話をしなければ)
白陽の影の内には、災厄が巣食っているのだ、と。
照る日差しに 鳴く蝉の声
茂ろ茂ろよ 青々として――
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