豊かに、増して






 稲が青々と育った頃。田仕事を終えて屋敷に戻った八重を、満面の笑みを浮かべた家守が出迎えた。土間にはなんとも芳しい味噌の香りが漂っている。


「家守さん、もしかして……」


「左様だ八重殿! 味噌が出来たぞ!!」


「まあ! おめでとうございます!!」


 ふたりは顔を見合わせて、小躍りせんばかりに喜んだ。家守はこの日を今か今かと心待ちにしていたし、八重も家守と共に味噌が出来るのを楽しみにしていたのだ。


「今日出来たのは麦味噌でな、米味噌とはまた味わいが違うのだ。風味の違いをたのしんでいただきたい」


「麦の味噌は初めてです。良い香りですねえ」


「今日は味噌汁と、酢味噌和えをご用意した。味噌味が被って申し訳ないが、何分嬉しくなってしまってな」


 味噌の香りを胸いっぱいに吸い込む八重に、家守は白陽の膳を差し出しながら面映ゆそうに笑う。八重は笑みを浮かべて膳を受け取った。


「いいえ、とてもたのしみです。白陽様にお出ししてきますね」


「ああ、頼んだ」


 八重は白陽の元へ膳を運ぶ。夕餉の時間は、白陽とゆっくり顔を合わせることが出来る一時だ。八重はいつも、見惚れて黙り込んでしまわないように、と一生懸命話し続ける。不自然にならないように、心に秘めた想いに気付かれてしまわないように。でもどうしても心が弾み、胸は高鳴ってしまう。それでなくとも、話が出来ること自体が途方もなく嬉しいのだ。今日は何の話をしようか、と、八重は白陽の柔らかな声を思い起こしながら足を運んだ。




 なんとかいつも通りに出来ただろう、と思いながら土間の方に戻ると、家守が八重の膳を用意して待ち構えていた。八重はいそいそと膳の前に座り、手を合わせる。


 膳には、茶碗に盛られた白飯と、大根、人参、里芋に油揚げと茸の入った具沢山の味噌汁、胡瓜と茗荷の酢味噌和えに、鱒の切り身の塩焼きが並んでいた。


 湯気の立つ味噌汁の椀を持ち上げる。口を付ければ、あっさりと甘口の味噌に、麦の香ばしい風味が鼻腔をくすぐる。さらりとした飲み口に、麦の甘味がたくさんの具から出た旨味を引き立てる。成る程、米味噌とは一味違うと八重は口元を緩めた。


 酢味噌和えは胡瓜の小気味良い歯ざわりに、茗荷のしゃくとした歯ごたえ、爽やかな香りに味噌の甘味と酢の酸味が良く合って、箸休めにもってこいだ。鱒の塩焼きもいい塩梅だった。どれも白飯が進む料理ばかりで、八重はぺろりと膳を平らげて感嘆の息を吐いた。


「とても美味しかったです。ごちそうさまです、家守さん」


「お口に合ったようで何よりだ」


 膳を洗い場に下げ、にこにこと頬を緩める八重に、家守は嬉しそうにこたえる。それから思いついた、とぽんと手を打った。


「そうだ八重殿、次に秋の山に行ったら、朴葉の落葉を拾ってきてはくれまいか」


「ほおば、ですか?」


「ああ。朴葉に味噌を乗せてな、炭火で炙るのだ。朴葉の上で炙った焼き味噌は、良い香りがしてとても美味い」


 白飯によく合うし、酒肴にももってこいなのだ、と家守は声を弾ませる。八重は顎に指を当てて記憶を辿るが、そのような葉っぱには心当たりがなかった。


「私に分かるでしょうか。朴葉に覚えがないのです」


「何、犬守いぬのかみ様もご存知だし、ナズナも知っておるから安心召されよ。それに急がぬ。米味噌が出来てから使うからな」


 米味噌が出来るのは、次の米を植える頃だろうか。八重は「わかりました」と頷いて、朴葉を忘れないようにしなければ、と心に留めた。豊かさを増す膳の内容に、豊穣を感じながら。




 翌朝、八重はいつものように白陽に歌を奉納する。人の世から伝わる信仰心は輝きを増し、力強く八重の身体を駆け抜けてゆく。


 どう手繰れば良いか、八重には手に取るように分かった。いつからか、そうできるようになっていた。人の世の大気に溶ける信仰心が、一片も欠けることなく八重の歌を中心に収束する。


 人々から届く幾多の祈りに想いを乗せて、八重は声高らかに歌を歌う。実りへの感謝を、神々に対する信心を、そして、白陽への愛を。


 歌い終わり、八重はほうと息を吐いた。いつもであればそのまま礼をして、朝餉を摂りに屋敷へ向かうのだが、不思議と、白陽が何か言葉を発しそうな雰囲気を醸し出していた。


「どうかなさいましたか?」


「いや」


 不思議に思い問いかける八重に、白陽はどう言葉にしたものか、と考え込む様子を見せた。八重が暫く黙って白陽の言葉を待っていると、白陽は綻ぶような柔らかい声で、ぽつりと呟いた。


「歌が、終わってしまうのが、惜しいと思ってね」


「もう一度、お歌いいたしましょうか……?」


「いいや」


 白陽はやんわりと八重の申し出を断る。そして喜びを噛みしめるような声音で、言葉を続けた。


「また明日聴かせてもらうのを、楽しみにしているよ」


「かしこまりました」


 毎朝変わらず、同じ歌を歌い続けているというのに、飽きずに惜しいと言ってもらえることに八重は頬を緩ませた。「では御前失礼いたします」と言って立ち上がり、微笑みを浮かべて頭を下げる。


 弾むような足取りで屋敷に戻る八重を、白陽は優しく見守っていた。





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