和解





 翌日、すぐに猪守いのかみは八重を探した。簡単に見つかった八重は、変わらず野椎のつちと楽しそうに山菜を摘んでいる。猪守いのかみは風上に回り込み、八重に声をかけた。謝ろう、と。謝り方は、下手くそだったけれど。


「そんな……!」


 何を言われたか理解して、八重は飛び上がって驚いた。神から謝罪を受ける言われなどない、と慌てふためく。


「いいえ、いいえ、畏れ多いことにございます! 私の方こそ、ものを知らず、何をどう許しを請えば良いかもわからずに、まあ、大変申し訳なく……!」


 猪守いのかみの不器用な謝罪に、恐縮しきってぺこぺこと頭を下げる八重を前に、猪守いのかみは肩から力が抜ける思いがした。


(俺は、こんな小さな人の子の、何をそんなに恐れて――)


 強い忌避感と、それを発端とした敵愾心は、恐れの現れだった。今更ながら、猪守いのかみはそれを自覚する。


 あの日、上天が灰と化した災厄の時。猪守いのかみは偶々山にいて、全てを目の当たりにしていたのだ。上天から色が失せ、神々の気配が喪われていく瞬間を。空が赤黒く染まり、その中心で燦然と輝く陽光が蝕まれてゆく様を。鼻先を掠めたむせ返るような血の匂いに、意志に反して己の力が削り取られていく、肌が粟立つ感覚を。


 その嫌悪感が焼き付いているのだ、と猪守いのかみは目を閉じて大きく深呼吸をした。目の前の、何も知らぬ娘とは関係のないことだ、と恐れを切り離し飲み込むように。


「いいや、俺が悪かったのだ。……もう間違えぬ、巫女殿」


 猪守いのかみは再び八重に謝罪した。頬を赤らめて、ぷいと目を反らし、『巫女殿』と呼び方を改めて。八重は猪守いのかみにそう呼びかけられたことに、心を震わせた。何があってのことか、八重には分からない。だが、認められたのだ、と八重は瞳を潤ませ微笑んだ。


「ありがとうございます、猪守いのかみ様」


「うん」


 猪守いのかみは決まり悪そうに爪先で地面をかき、少し逡巡してから口を開いた。


「蜂蜜が採れたら、その、お前にやる。詫びの印だ」


「はちっ蜂蜜だなんて、そんな!」


 八重は猪守いのかみの申し出に、慌てて両手を振った。


「そのように貴重なもの、とてもいただけません……! どうぞ、白陽様に全てお納めください!!」


「気にせず受け取って、食えばいい」


「そんな贅沢、きっと腹を壊してしまいます!」


「壊すも何もないだろう」


「それは、そうなのですが……」


 目をうろつかせ、おたおたする八重に、猪守いのかみは更に毒気を抜かれた。忌々しい匂いを堪え、話してみれば簡単なことだったのかもしれないと、己の意地の張り方に落胆する。犬守いぬのかみはそうやって八重の人となりを確かめたのだろう、とも。――それが分かった上で尚、鼠守ねのかみに諭されるまで自分があの匂いに目を瞑ることが出来たとは思えなかったが。今も風上に立ってようやく我慢しているような有り様だ。


 猪守いのかみは一度天を仰いで、それから深い深いため息をついた。


「なら、いずれ何ぞ考える。……俺は白陽様の処へも行かなければ」


「どうか、なさったのですか?」


 気鬱そうな猪守いのかみの様子を、八重はそっと気遣う。猪守いのかみはちらりと八重を見やって、それからまた深いため息をついた。


「…………叱られにゆく」


「まあ」


 意気消沈した物言いに、八重は目を瞬いて、つい笑い声をもらした。まるで里の子どものような物言いだ、と、気安さと懐かしさを感じたのだ。猪守いのかみは八重の笑い声にいっそう唇を尖らせて、「可笑しいか」と憮然とした声を出した。


「いいえ、申し訳ありません。神様も人のような事を言うのだと思って、つい。叱られるのは、嫌ですものねえ」


「嫌に決まっている……」


 そもそも猪守いのかみは、目覚めて早々に「憤りを向ける先を間違えてはいけない」と白陽からお叱りを受けたのだ。つい反発し、「嫌! で! す!!」と叫んで走り逃げ、それ以降もずっと逃げ回っていたのだが。つけを払わねばならん、と猪守いのかみは苦渋の表情を浮かべた。


 猪守いのかみは、くすくすと笑い続ける八重を見やる。ふと、何も知らぬ人の子が、何故知らぬまま平気でいられるのだろう、と疑問に思った。


「気には、ならんのか。何故上天が灰と化したのか」


「――それは」


 八重は猪守いのかみの問いかけに言葉を詰まらせる。何故、と、少しも思わずにいられる日はなかった。そして八重は薄々察している。神々が、何らかの事情を話し合っていると。それが、八重に秘されていることも。


「気にならぬ、と言えば嘘になります。ですが」


 八重は下を向き手を揉んで、暫くためらったあとに真っ直ぐ猪守いのかみを見つめて淡く微笑んだ。


「お教えいただける日を、待とうと思っております」


「そうか……」


 八重が信心深いことは、米を食えばわかった。八重は何も知らないと、それも猪守いのかみは納得したのだ。――ならば。


 白陽が何故八重に事情を伏せているのか、猪守いのかみには理解できた。八重が、只管に人の世を案じる娘が、耐えられるようになるまで、白陽は日を待っているのだ。


(巫女殿は、これから事実を知ることになる)


 猪守いのかみは苦さを噛み締めて踵を返した。「じゃあな」と八重に告げて歩き始める。皆にどれだけ叱られても全て聞こう、と心を決めて。





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