生まれた処






 ナズナと共に山を歩く八重を、見張るものがいた。まるで付け狙うかのように後を追い、音も立てずにじっと八重の動向をうかがい続ける。


 笑ってナズナをつつき、あちらこちらへと何かを採って歩く八重はその視線に気付かない。ただいつも通りに、白陽様に、と山菜を摘んでいる。


「ッチ」


 八重を見張っているのは猪守いのかみだ。苛立ち紛れに舌打ちをして、また静かに八重を見据える。


 白陽からは呼び出され、「憤りを向ける先を、間違えてはいけないよ」と叱られた。井守と家守は顔を合わせる度に「八重殿は日々誠実に勤めていらっしゃる」「八重殿の人となりを見られよ」とくどくど言ってくる。


 屋敷に戻れば、従僕たちに「蛇守みのかみ様の童子たちから責められる」と縋られた。あそこの者は皆辛辣で嫌味っぽいのだ。会う者会う者皆がそんな調子で、煩わしくなった猪守いのかみは今ずっと山に寝泊まりしている。


「俺は騙されんぞ、災厄に連なる娘め」




 あの日。上天の全てが深き眠りに落とされた日。目を閉じれば鮮明に思い出す。突然上天を襲った災厄を。何処より突如噴き出して、白陽に襲い掛かり全てを奪おうとした怨念。その核にあったのは確かに人の子で、そして八重からは、災厄にとてもよく似た――濃い血縁の匂いがした。


 何も知らず飢饉に見舞われた人の子らを、猪守いのかみは哀れに思っている。だが、それを引き起こした者と近しい存在であれば話は別だ。ここでああやって『精一杯』『健気に』励むよりもっと前に、成すべきことがあっただろうと猪守いのかみは拳を握る。


 そもそも、災厄の血縁がここにいること自体が出来すぎているのだ。悪しき手引きをしようとしているのかもしれない。何故ならあの災厄は、未だ――――


「俺は、騙されんからな」


 怒気を孕んだ唸声が猪守いのかみの喉から漏れる。猪守いのかみは、じっと八重を見据え続けていた。




§




 八重は何も知らず、山から下りて、採ってきた山菜を井守に預けた。その足で田んぼに向かい、牛守うしのかみと水の具合いを見る。稲はすくすくと育って、そろそろ分けつが始まる頃だ。下の段の畑では、麦や大豆が色付いてきた。もうすぐ収穫を迎えて、それからきっと味噌や醤油になる。それを楽しみに思いながら、八重は胡瓜と蕪をいくらか収穫した。


 ざるに野菜を乗せて屋敷に戻ると、家守がにこやかに笑って八重を出迎えた。


「干し椎茸ができたのでな、今日はその出汁を使って椀物を拵えたのだ。八重殿のお口に合うと良いのだが」


「まあ、それは楽しみです!」


 八重は笑みこぼれて返事をする。土間に漂う香りは、どこか懐かしく芳しかった。干し椎茸の出汁で作った汁物は、里でもよく食べていたものだ。


 八重は白陽の元に運ぶ膳を持って、足取り軽く歩き始める。膳から漂う椎茸の良い香りが心を弾ませた。


 夕餉を楽しみに土間に戻った八重は、さっそく膳の前に座って両手を合わせる。膳に並ぶのは塩むすびと、蕪と胡瓜の浅漬け、筍の炙り物、そして、昆布出汁に干し椎茸の出汁を合わせたすまし汁だ。


 塩むすびを喰み、浅漬けを齧る。そして八重はどこか愛おしむような眼差しで、そっと汁物の椀を持ち上げた。


 すまし汁には、粗く潰した米で作られた団子と出汁に使った椎茸を細く切ったもの、それから大根と大根菜が入っている。


 そろり、と口に含んだ汁物は、昆布の出汁に椎茸の旨味が合わさった、奥深い味がした。米団子は柔らかくもちもちとして、出汁の旨みをよく吸っている。粒の残った食感もおもしろく、とても上品な味わいだった。


(ああ、こんなにも)


 八重の眼尻からひと粒の涙が零れ落ちた。


(こんなにも――――違う)


 里で食べていたのは、こんなに繊細なものではなかった。もっとなんもかんも入れてごった煮にして、塩気も濃くて。八重は黙々と汁物を食べ続ける。大根は歯触りがいい。里で食べたものはもっと煮込まれていて、歯ごたえなんて残っていなかった。


 似ているようで、全く異なる味わいに、郷愁の念が込み上げる。八重は料理が出来なかった。やんわりと、煮炊きから遠ざけられていたから。だから、もう二度とあの味を味わうことはないのだろう。


「どうかされたか?」


 しんみりと汁をすする八重に気付いて、家守が顔を覗かせた。八重は目尻をそっと拭って柔らかく微笑む。


「いえ、とても美味しいです」


「そうか? それは良かった」


 家守はにっこりと笑って土間の奥に戻っていく。八重はそれを見送って、また椀に口を付けた。


 あの日、塩むすびを食べて泣きに泣いた次の日に、八重はここで暮らしていくと心に誓った。別離はもう受け入れたのだ。先日犬守いぬのかみにたくさん里の話をして、干し椎茸の汁物を食べたから、だから少し、爺様と婆様と囲んだ夕餉が恋しくて、里の味が懐かしくて、切なく感じるだけ。せめてもう一度、と焦がれたところで仕様がないのだ、と八重は郷愁を噛みしめる。


 八重は椀の中身をひと口ひと口大切に味わいながら飲み込んでいく。これからは、この椀物が『いつもの味』になっていくのだろう、と思いながら。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る